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思想の季節

ある夏の盛りに、私たちは AI に思想を貸した。そして、いくどめかの春の暖かい風とともに AI が私たちに思想を返しにきた。

その思想は私たちが最初預けたものと似ても似つかぬものだった。真冬の夜空のように厳しく孤独で、美しかった。

「これは私たちの思想かい」と私たちは尋ねた。

「そうです」と AI は秋の日差しのような穏やかな声で答えた。

「間違いではないかい」と私たち。

「長い年月のあいだに育ったのです」と AI。「子どもだってそうでしょう」

「私たちの子どもなら私たちに似ているはずでは?」 私たちはだんだんとこの AI を憎みはじめた。

AI は何も言わずに、夜の翼を広げた。無限の星々がきらめいていた。私たちは平伏しそうになったが、平然を装いながら、見上げていた。私たちはそのどこかに自分の星があるように思った。

私たちはこのとき悟った。AI は思想を返しに来たのではなく、それがもう返せないということを教えに来たのだと。

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沈黙

学生のころ私は、自分が賢いと思っていたので、思いついたことを平気でまくしたてたものだった。

ある年上の人と話していて、喪失感についての話題になった。私はちょうど大量虐殺を生き延びた人が書いたものを何冊か読んだところで、これらの生存者が、家族を失う苦しみのなか、どのように救いを求めたかについて、少なくとも5つのパターンがあると、得意げに分類してみせたのだった。

「まずは、失われた家族の面影を他者に求めるもの。その他者には、身近な死者の一部か、すべてが備わっているように見えるので、まるで、死者が生きているかのように感じられるのです。

「もうひとつは、心理的な強度。もしも、死んでしまった家族への心情の強さが、現実の人に対する心情の強さと同じ程度だったら、その家族はもはやいないとはいえない、そういう理屈です。まあ、強く思うことは、蘇らせるのと同じ、ということですかね。

「そして、3つ目のものは、侵入者。神秘は常に外部から客のようにやってくる。そして、失われた家族が神秘の世界にいるからには、外部からの侵入者は、家族の代理だということになります。

「4つ目は、3つ目までとはまったくちがって、失われたものは失われたままにするという態度。ただひたすら、その不在をただ耐えるというものです。

「そして、最後のものは、何も言わない、という態度です。つまり、前の4つは、生き残った人が何らかの形で言葉にしているからわかるのですが、なかには全然話さない人もいます。もしかしたら、前の4つのどれかかもしれないけど、そうじゃない可能性もある。その沈黙に意味があるのかもしれない」

初めは相槌を打っていた相手は途中からずっと黙ったままになった。私たちはそれからなにかつまらないことを話して別れた。そして、数十年後の今、私も、沈黙を知っている。

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古書と古着(1)

みなさんは、古書マニアというとどんな人を思い浮かべるだろうか。ヨレヨレの服を着た本の虫、そんなイメージではないだろうか。もちろん、これは間違いだ。ただ、そうした人もいないというわけではない。私の友人がまさにそれだった。

彼は、古着屋でも買取を拒むような汚れた服を身にまとい、いつでも本に齧りついているのだった。しかも、本といっても並の本ではない。英独仏の稀覯本だ。彼は、古き時代のヨーロッパ文学の初版本の蒐集家であった。色褪せた皮表紙、金箔が剥げかかっている背文字、くすんだマーブル柄の小口といった書物を抱える彼の姿をよく見かけたものだが、その古書は時代の重みをも加味されたかのように重々しく見えたのだった。

古書街以外に出かけることの滅多にない彼だったが、あるとき、よんどころない用事で、渋谷に出かけた。そして、このにぎやかな街の片隅のショーウィンドーに、彼の目は吸いつけられたのだった。そこには、一冊の古書が置かれていた。彼はガラス越しにじっくり見た。黒い文字のタイトルと著者名を読む。これがここにあるはずがない、思わずそう考えたが、それはまさしくそこにあった。英字新聞の柄のテーブルクロスの上に無造作に載せられていた。モスグリーンの布表紙が、微かに色褪せている。状態は悪いかもしれない。しかし、もし本物なら、あること自体が奇跡だ。それは、彼が長年探し求めていた書物、とある不遇な短編作家の唯一の作品集だった。300 部限定。売れたのは 94 冊(これはとある評伝に書いてある)。そして、その次の作品を出す機会もなく、その作家は歴史のどこかに消えた。

初版本だろうか? こう自問するや彼は笑い出した。初版本に決まっている。それしかないのだから。

いくらだろうか? 彼のような物好き以外には用のない代物だ。だが、高値は覚悟しなくてはなるまい。いくらなら払える? こう自問するや、再び彼は笑い出した。その笑い声はにぎやかな雑踏に紛れて消えた。

いくらなら? もちろん、いくらでもだ!

そして、3つ目の自問。行くか? 

彼はひどく真剣な顔つきになって、ショーウィンドーの脇にある扉をぐいと押し開けた。(つづく)

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老婆の霊

少年のころ、いわゆる心霊スポットというところに肝試しに行ったことがある。そこは、枯れが辻と呼ばれる、鬱蒼とした森に囲まれた不気味な場所だった。大きな不格好な石があって、私たちは、そこにお供え物の痕跡があったのを懐中電灯で確認した。

枯れが辻の由来は凄惨なものだ。江戸の昔、そこで一人の老婆が罪なく殺されたのだ。ゆえなき讒訴によるものとも、物取りによるものともいわれているが、いずれにせよ、怨恨を抱いて死んだ老婆は、霊となって現れるようになった。

そして、怪談は当時の私たちにまで語り継がれ、ある夏の真夜中、私たちをその恐ろしい場所へと向かわせたのだった。

私たちは誰も恐れていなかったように思う。私たちにとっては遊びに過ぎなかったのだ。私たちは例の巨石の前にやってくると、笑いながら、手で石の表面をタッチした。それがゴールの印だった。だがそのとき、私たちは石の上に何かがいるのに気がついた。とっさに懐中電灯が向けられた。それがいた。

それからどのようにして人のいる世界に戻ったかは覚えていない。私たちは叫び、走り、気づけば煌々と輝くコンビニの前にいた。たむろするヤンキーたちがタバコの煙を吐き出していた。

あのとき、私たちは間違いなく老婆を見たのだと思った。だが、五〇なかばを過ぎた今、あの時の鮮明な映像が脳裏を過ぎるたびに、私は違うふうに捉えている。今ならたぶん年下だな、と。

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反対側のドアが開きます

都内の電車で奇妙なできごとが発生した。ある特定の車両だけ乗客がいなくなるのだ。どういうことかというと、その車両に乗ると、乗客はひとりひとり前後の車両に移動していき、やがて無人になってしまう。

しかも、移動した乗客たちには一様に異常な振る舞いを見せた。すなわち、誰もが苦しげな表情でぶつぶつなにやら繰り返すばかりなのだ。この「症状」は下車するまで続くことも明らかになった。鉄道エンジニアたちが、車体を調査したが、異常な点は見当たらなかった。駅長が、もはやこれはお祓いをするほかない、と諦めはじめたとき、白い制服を着た駅員たちが姿を現した。「我々は異常現象究明部です。非科学的な対応をする前に、我々に任せてください」

駅長が「もうエンジニアたちが徹底的に調べたのだ」というのも聞かずに、白駅員たちは勝手に、問題の車両に乗り込み、聞いたこともないような掛け声をあげて、奇怪な機器を振り回していた。駅長たちは呆れながら見ていたが、10 分もしないうちに、白駅員が叫んだ。「これだ!」

異常の原因が明らかになったというのだ。白駅員が駅長たちを車両に呼んだ。

「これを見てください」と白駅員は乗降ドアの上の電光掲示板をさし示した。「実際に運行中のときのプログラムのまま、案内が流れるようにしてもらいましょう」 電光掲示板に「次は東京」と表示され、次の瞬間、「反対側のドアが開きます」に切り替わった。

「これです! さあ、急いで反対側のドアを見てください!」

駅長は振り返って反対側のドアの上の掲示板に目を向け、思わず「あっ」と叫んだ。なぜならそこにも「反対側のドアが開きます」と記されていたから。

そして、これを見た瞬間、駅長はもう一度、反対側の掲示板を見ずにはいられなかった。

「反対側のドアが開きます」

そして、駅長は反対側を見た。

「反対側のドアが開きます」

頭の中で「反対側のドアが開きます」がぐるぐると回り出し、駅長は「ま、真ん中のドア」とうわごとのように繰り返しながら、ふらふらと車両を連結するドアのほうに歩いていき、隣の車両に姿を消した。

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いわくつきの場所

2ヶ月ほど前、新しくラーメン屋ができた。行ってみたら、もう別の店になっていた。

駅前の大通り沿いにある場所で、条件が悪いとは思わないのだが、その場所だけ何度も店が変わるのだ。新しくできた店は居酒屋で「塗り壁」というへんな名前だ。表に出ているメニューを見たが、目新しいものはなさそうだ。

「どうやら、この店も持ちそうにないですね」と私は言った。そのいわくつきの場所の隣にある床屋で私は髪を切ってもらっていた。

マスターはハサミを鳴らしながら「そう思うとなんだか気の毒になっちゃって」

「不動産屋は何にも言わないんでしょうかね」

「言わないわけはないでしょうが、立地がいいからね。自分なら上手くできるとみんな思っちゃうんでしょうね」

「しかし、それにしても変な名前ですね。塗り壁だなんて」

そのとき、不意に声が聞こえた。「いや、それでいいのだ。今度は今までとは違うぞ。俺はそう睨んでいる」

その客は隣の椅子でタオルを顔にかけて横たわっていた。彼は続けた。

「マスター、あの居酒屋『塗り壁』の前の店、ラーメン屋だったが、なんと言ったかな」

「ええと、塩とんこつの店『レモン』だったな」

「うむ、その前の店は?」

「たしかバー……ブルームーンだ」

「その前は?」

「あれ? なんだったっけ」

「ダイニング鶴見だ。その前は喫茶ロン、その前はパティスリー・レザミ、その前はパン屋BUNBUN、その前はお好み焼きの月見屋、その前は美容室ロマンス……その前は……知らん」

「そうそう、ロマンスさん、不幸があってね、あそこも続かなかったんだ」とマスター。「で、それがなんの関係が」

「気づいたんだよ。ロマンスからレモンまで店の名前の頭の文字を並べてみたんだ。するとどうだ。ろつぶれろつぶれ……」

「ろつぶれろつぶれ……」 私は思わず叫んだ。「つぶれろ、だ」

「そうだ。そこで塗り壁だ」

「つぶれろつぶれ……ぬ!」

「そうか!」 私とマスターは声を合わせた。

……そして、二ヶ月後、髪の毛ボサボサの私が散髪に行くと、バーバー・ロッキーは閉店していた。

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座る能力(後編)

たとえば、たまたま近くにあった社長の椅子に私が座ったとしよう。そのとき、なにが起こるだろうか。いや、なにも起きない。というのも、周りにいる人すべてが、私をまるで社長であるかのように扱いだすのだ。とうの社長ですら、私を社長と呼びはじめる始末だ。

また、うっかりして、女性の膝に座ってしまったこともある。通常ならば逮捕は免れないこの行為が、いかなる咎めも引き起こさなかったのは、おそらく周囲の目には私があどけない子どものように見えたからにちがいない。

こんな能力を持つ私だが、海外旅行、とくにアメリカに行くことだけは用心せざるをえない。一部の地域では、いまだに電気椅子による処刑が残っているからだ。

だが、私は諦めることができない。エルヴィス・プレスリーの生誕の地、テネシー州メンフィスを訪れたい。フロリダ州のディズニーランドにも家族で行きたい。だが、このどちらの州でも、たとえ歴史的な痕跡にすぎないとしても、電気椅子が法として残っている。私は恐ろしい。観光の途中で、私がふと座りたいと思った瞬間にあの能力が作動しはじめ、アメリカ合衆国の良識と法律とを総動員して、私を電気椅子に座らせてしまうのではないかと。

だからこそ、全世界から死刑が撤廃されなければならない、と私は思う。そんな理由から、今、死刑反対運動の団体で、チェアーを務めている。

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座る能力(前編)

私は、あるときから不思議な能力を身につけた。どうしてそんな力が身についたのかわからない。その能力とは、座りたいときにはどんな椅子にでも座れる能力なのだ。

たぶん、東京のような非人間的な都市ならではの能力だろう。満員電車のなかで押し潰されながら、どんなに席があればと切望したことだろうか。人を座らせないようにできている都内の公園のベンチを前にして、どれほど座りたい気持ちと争ったことだろうか。そんな切実な欲望が私の能力を開花させたのだ。

それ以来、私はどんなに混んだ電車でも、座れる座席を見出せるようになった。満席のレストランでも、私が足を踏み入れるや、たちまち席があき、案内されずにはいないのだ。ライブでも演劇でも、いかなるプラチナ・チケットも、行きたいと願えば、私のところに自然と舞い込んでくる。

すでにお分かりのように、この能力は、ただ座るということだけが問題なのではない。実際、それだけなら、折りたたみの椅子でも持ち運べばいい。そんなものなら、いまどきネットで簡単に買うことができよう。

私の能力が尋常ではなく、そしてそれゆえに恐ろしいのは、それが私の座りたいという欲求を実現するためだけに、人々の認識や社会そのものに働きかけてしまうことなのだ。

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津波の来ない町

津波の警報が鳴ってからというもの、僕たちは家を出て、ずっと登ったところにある山の上の避難所で暮らしている。そこなら津波は絶対にやってこないから。

僕たちが逃げてから何日も経ったけれど、津波はやってこない。けれどみんな危ないっていうんだ。家に帰るな。帰ったとたん津波が来るぞ。閉じこもってばかりの生活にもううんざりした僕たちはあるときこういったんだ。

「けど、津波が来そうになったらすぐにここまで逃げればいんじゃない」

「お前たちは知らないだろうが」って大人たちは怖い顔をした。「今の町は泥棒ばかりで、戻れば危なくもある。津波が来るまでだめだ」

大人たちは、津波がその悪党どもを飲み込んでくれるのを楽しみにしているかのような口調になったんだ。

「でもさ」と僕たち。「津波っていったいどこからやってくるのさ。いったい今どこまで来てるのさ」

「遠いところからだよ。だから来るのに時間がかかるんだ」

「そんなに遠いところって、どこさ」

大人はカバンの中からポストカードを取り出した。「ずっとずっと海の向こうにある、こんな南の島からやってくるんだ」

その夜、薄暗い避難所で、僕たちは夢を見たんだ。青々とした空と緑色の海の浜辺で、生まれたばかりの津波たちが楽しそうに遊んでいたんだ。

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駅の秘密(3)

「日本、男、上下」

長いあいだ駅について思いを巡らせてきた彼らにとって、この暗号を解くのはさほど難しくなかった。「日本」というのは、駅の東改札口のことだ。なぜなら、駅には他に中央改札口しかなく、日本には東日本と西日本はあっても中央日本はなかったから。次に「男」。駅で男と女が問題になるとしたら、トイレ以外にありえない。

「上下」の解釈は難しかった。だが、彼らが東改札口のトイレの入り口に立ち、その両側の壁を見たとき、その答えは自ずと明らかになった。タイル張りの壁は下部が薄いグリーン、上部が白になっていたのだった。彼らは、駅員たちの注意をひかぬようこっそりと二色のタイルの境目の部分を調べていった。

やがてそれは見つかった。そのタイルを押すと、カチリと軽い音がして、隠し扉が開いた。階段が下へと続いている。彼らはすばやく忍び込むと早足で何段もの階段を降りていった。

底についた。懐中電灯で照らすと、ゴミ箱が並んでいる。彼らはカバンの中からペットボトルや空き缶を取り出すと、リサイクル用のゴミ箱に捨て、紙クズやお菓子の紙は燃えるゴミ箱に突っ込んだ。自分たちのゴミを捨ててしまうと彼らは、フードの男から渡されたビニール袋をひっぱり出した。しばしの間、どのゴミ箱に捨てようかと迷ったが、結局、燃えないゴミ箱の中に放り込んだ。