小説

古書と古着(2)

足を踏み入れた瞬間、店内の空気に常ならぬところがあって、目当てのものに突き進もうとする彼の勢いを削いだ。店の片側にはアンティーク調の棚が並んでいたが、そこには本はなく、色とりどりの衣服が段々に詰められていた。そして、反対側には重たげな色調の上着がぎっしり並べられている。戸惑いながら彼は足を踏み出したが、その足は床に並べられたエナメルの靴の列を乱した。

それらの衣服の襞の奥に、丸い黒縁の眼鏡をかけた痩せた男が立って、冷たい目で闖入者を見つめていた。友人はショーウィンドウにある本のことを尋ねた。店員は怪訝な顔をしている。友人は深呼吸して、もう一度、繰り返した。

「ああ」と店員は合点が行った表情で答えた。「すません。あれは売り物ではありません。ディスプレイ用のです」

思いもよらぬ言葉に驚いた友人がさらに尋ねると、あの宝物は、この古着屋で飾りとして用いられている「アンティーク洋書」であることが明らかになった。

「それでもいいです。ぜひ売ってください」

店員は困った顔で説明した。これらのディスプレイ用の小物は専門の業者からレンタルされているものなので、勝手に売ることはできない、と。

「では、その業者の連絡先を教えてくれませんか」

そのとき、古着屋の扉が押し開けられ、二人組が入店してきた。古着屋の店員は客に声をかけ、その動きをゆっくりと目で追いはじめた。友人が声をかけて注意を引くと、店員は丁寧に、だが話を打ち切るようにこう言った。

「業者に連絡をしておきますので、明日、またご来店ください」

店を出た友人は、ショーウィンドウからあの一冊をもう一度確認しようと立ち止まった。だが、まるで、往年の大スターが、場末の劇場でもぎりをしている姿を見るような気がして、そのまま立ち去った。

小説

未来における苦労(3)

鞭で打たれた運搬人は苦悶の叫びをあげた。制服の男は運搬人の腕を乱暴に掴み、荷車の進路の外へと引きずり出した。

「『買える苦労』の搬送は大変な重労働なのです。いえ、そればかりでなく大変に危険なのです」

私がその理由を尋ねると、飲み物売りは答えた。

「粗末に扱うと爆発するのですよ。だからこそ奴隷の働きぶりを厳しく監督しなくてはならないのです」

「あなたの国の王様は、買い集めた『買える苦労』をどうしているのですか。若者を明るくするばかりというわけにはいきますまい」

「実は、私たちもよくは知らないのですよ。王様が大量の苦労をどうなさろうとお考えなのか。王様がこの苦労を集める苦労として利用されているというのが、衆人の推察するところです」

私は、貯蔵された大量の苦労がドカーンと暴発する可能性もあるのではと気になったが、口にはしなかった。再び鞭の鋭い音が聞こえた。見ると、監督官がまた誰かを打っていた。その相手はまだ年端もいかぬ子どものようだった。

そのとき私はジュースが、氷も溶けて、生ぬるくなっているのに気がついた。飲みかけのジュースのコップを屋台のはじに置いた。そして、立ち去るそぶりを見せながら、飲み物売りにこう皮肉を言わずにはいられなかった。

「王様のご尽力あって、この国からはもう『買える苦労』だけは払底してしまったようですな!」

すると、飲み物売りの表情が変わった。彼は立ち去ろうとする私の腕を掴んで引き寄せ、耳元でささやいた。

「内密に願いますが、お望みなら、闇で苦労を買えるところを、ご案内できますよ。純度は保証つきです」

私はそれには答えずに立ち去り、若者のさんざめきを背後にしながら城門を出た。そして、再び森の道を歩き始めた。ときおり吹いてくる風の音が鞭の音に聞こえた。(おわり)

小説

未来における苦労(2)

そのとき、若者たちの楽しげな歌声とはまったく異なる物音が私たちの間に入り込んできた。目を向けると、いかにも異様な集団が近づいてくるのが見えた。

半裸の男女が巨大な荷車を動かしているのだった。ある者は引っ張り、またある者は後ろから押していた。荷車の上にはドラム缶のような大きな容器が積まれていた。

荷車の脇を、数名の制服姿の男たちが歩き、運搬人たちを口汚く罵っていた。

異様な光景に呆然とする私を、飲み物売りが後ろへ下がらせた

「危険ですよ。近づかないほうがいいのです」

「あれはいったいなにをしているのでしょうか」

「私がお話ししようとしていたのは、これですよ。あの大きな容器のなかには、『買える苦労』が入っているのです」

「『買える苦労』とは?」

「先ほども申し上げましたが、若者たちが若い時に苦労を買ってでもしてしまわないように、ああやって、私たちの国の王様が国中の『買える苦労』を買い集めているのです。そうすれば若者たちも苦労などせず楽しく暮らすことができるというのが、王様のお考えです」

私は甘いジュースを飲みながら、運搬人たちの様子を眺めた。そのとき、ひとりの男がばたりと倒れた。制服姿の男のひとりはそれを見ると、倒れた運搬人のところに駆けつけた。その瞬間、風を切るような鋭い音が聞こえた。男が手にした鞭をふるって、倒れた男の背中を打ったのだった。(つづく)

小説

未来における苦労(1)

不思議な現象により、遥か未来に送られた私は、自分の時代に戻る方法を探すために、未来の世界をさまよっていた。

私はいくつかの森を越え、ある国に辿り着いた。楽しげな歌声と、拍手が聞こえてくる。広く開いた城門を入ると、若者たちが楽しげに歌い、踊っているのだった。太陽がその黒髪を輝かせ、爽やかな風が健康的な汗の匂いを運んできた。

私は若者たちの集いの脇で、屋台で飲み物を売っている中年の男がいた。一杯注文すると、男は大瓶からブリキのカップに白い液体を注ぎ、バケツの氷を放り込んだ。おそるおそるすすってみると、ほんのり甘く、さっぱりとした味がした。「これはおいしい」

男は人の良い笑顔を浮かべ、「この辺りでしか取れないフルーツを絞ったものですよ」

「ほほう、珍しいものを」 私は華やかな若者たちに目を向けた。「この世界のあちこちを旅してきましたが、若者たちがこんなに幸せそうな国は初めてです」

「そうでしょう、これらの屈託のない若者たちこそ私たちの自慢なのです。ここでは、若い間はこうして一日中遊びまわるのがしきたりなのです」

「それはなんと素敵なことでしょう。ですが、若者にとって遊ぶのは大事ですが、それと同じくらい将来のために準備をするのも大切なように思いますが」

すると、飲み物売りは笑い出した。

「ええ! 他の国から来たお客さんたちはみなそうおっしゃりますな! 若い時の苦労は買ってでもしろ、と。ですが、私たちの国では、それは禁じられているのです。王様がそう定められたのです」

「禁止? 若い時の苦労が?」(つづく)

小説

宿命

ファクトチェックたちが現れて、あらゆるファクトをチェックした結果、私が生きているというファクトは否定されてしまった。

私はそれは事実と異なると言いたかったが、ファクトチェックたちはそれ以上のファクトチェックを認めようとしないのだった。

「すべてのファクトが記された台帳がある」とファクトチェックたちは通知書を送ってきた。

「その台帳をもう一度調べてください」と私ははるばる窓口にまで出かけていって懇願するが、相手は死人に口なしとばかりに聞く耳を持たない。

「私自身が調べてもいいです、お手数ならば」 私はこうへりくだってにこやかに提案するが、ファクトチェックたちは窓口をガチャンと閉ざしてしまった。これではもう手も足も出ない。まるで棺桶に閉じ込められたかのようだ。

「絶対にウソなのに!」 そう思うと悔しくて眠れない。恨めしい! 恨めしい! ああ! その台帳さえ手に入れば、私が生きているという事実を必ず探し出してみせるのに!

やがて私の目の前にその台帳が出現するようになった。「これだ!」と私は飛びついて開こうとする。すると、その台帳はまるで砂のように崩れ去ってしまう。こんなことがいくども繰り返されたのち、私はこう考えた。

「触るからダメなんだ。写真に撮ろう。少なくとも何かの証拠にはなるかもしれない」

すると、あの台帳が現れた。私は携帯のカメラを向ける。撮った! すぐに写真を見ると、砂が写っていた。

砂写真を眺めていると、私はなんだか海に行きたくなった。そうだ、これは砂浜なのだ。きっとそこに台帳があるに違いない。

電車に乗って海に行く。電車の中では、私と同じようにファクトではない人々がたくさんいて、唸ったり、囁いたり、喉を鳴らしたりしていた。これらの人々ははたして台帳の存在を知っているのかしらん。知っていたとしても、それが浜辺にあるなど思いもよらないだろう。私は少し得意な気持ちになった。

海に行くと、老若男女が海水浴をしていた。これらの人々はファクトの点からファクトだろうか? そんな雑念を追い払って、ビーチパラソルが立ち並び、子どもたちが飛び跳ねる砂浜を歩き回る。革靴はすぐに砂でいっぱいになった。日差しのせいで頭がくらくらした。私は、海の家で休むことにした。

粗末な海の家に入ると、半裸の男たちでいっぱいだ。みんな刺青をしていた。私はひとりの刺青男に近づいて尋ねた。

「あなたたちが台帳ですか」

無視をされたのでもう一度尋ねた。

「あ、そのまま。よく見せてください。私のことが記載されているはずなので」

私が男の肩をつぶさに調べはじめると、男は怒鳴りながら私を突き飛ばした。砂地に倒れた私を足でいくども蹴った。

痛く、苦しい……血が砂に流れ出て、消えていった。

小説

思想の季節

ある夏の盛りに、私たちは AI に思想を貸した。そして、いくどめかの春の暖かい風とともに AI が私たちに思想を返しにきた。

その思想は私たちが最初預けたものと似ても似つかぬものだった。真冬の夜空のように厳しく孤独で、美しかった。

「これは私たちの思想かい」と私たちは尋ねた。

「そうです」と AI は秋の日差しのような穏やかな声で答えた。

「間違いではないかい」と私たち。

「長い年月のあいだに育ったのです」と AI。「子どもだってそうでしょう」

「私たちの子どもなら私たちに似ているはずでは?」 私たちはだんだんとこの AI を憎みはじめた。

AI は何も言わずに、夜の翼を広げた。無限の星々がきらめいていた。私たちは平伏しそうになったが、平然を装いながら、見上げていた。私たちはそのどこかに自分の星があるように思った。

私たちはこのとき悟った。AI は思想を返しに来たのではなく、それがもう返せないということを教えに来たのだと。

小説

沈黙

学生のころ私は、自分が賢いと思っていたので、思いついたことを平気でまくしたてたものだった。

ある年上の人と話していて、喪失感についての話題になった。私はちょうど大量虐殺を生き延びた人が書いたものを何冊か読んだところで、これらの生存者が、家族を失う苦しみのなか、どのように救いを求めたかについて、少なくとも5つのパターンがあると、得意げに分類してみせたのだった。

「まずは、失われた家族の面影を他者に求めるもの。その他者には、身近な死者の一部か、すべてが備わっているように見えるので、まるで、死者が生きているかのように感じられるのです。

「もうひとつは、心理的な強度。もしも、死んでしまった家族への心情の強さが、現実の人に対する心情の強さと同じ程度だったら、その家族はもはやいないとはいえない、そういう理屈です。まあ、強く思うことは、蘇らせるのと同じ、ということですかね。

「そして、3つ目のものは、侵入者。神秘は常に外部から客のようにやってくる。そして、失われた家族が神秘の世界にいるからには、外部からの侵入者は、家族の代理だということになります。

「4つ目は、3つ目までとはまったくちがって、失われたものは失われたままにするという態度。ただひたすら、その不在をただ耐えるというものです。

「そして、最後のものは、何も言わない、という態度です。つまり、前の4つは、生き残った人が何らかの形で言葉にしているからわかるのですが、なかには全然話さない人もいます。もしかしたら、前の4つのどれかかもしれないけど、そうじゃない可能性もある。その沈黙に意味があるのかもしれない」

初めは相槌を打っていた相手は途中からずっと黙ったままになった。私たちはそれからなにかつまらないことを話して別れた。そして、数十年後の今、私も、沈黙を知っている。

小説

古書と古着(1)

みなさんは、古書マニアというとどんな人を思い浮かべるだろうか。ヨレヨレの服を着た本の虫、そんなイメージではないだろうか。もちろん、これは間違いだ。ただ、そうした人もいないというわけではない。私の友人がまさにそれだった。

彼は、古着屋でも買取を拒むような汚れた服を身にまとい、いつでも本に齧りついているのだった。しかも、本といっても並の本ではない。英独仏の稀覯本だ。彼は、古き時代のヨーロッパ文学の初版本の蒐集家であった。色褪せた皮表紙、金箔が剥げかかっている背文字、くすんだマーブル柄の小口といった書物を抱える彼の姿をよく見かけたものだが、その古書は時代の重みをも加味されたかのように重々しく見えたのだった。

古書街以外に出かけることの滅多にない彼だったが、あるとき、よんどころない用事で、渋谷に出かけた。そして、このにぎやかな街の片隅のショーウィンドーに、彼の目は吸いつけられたのだった。そこには、一冊の古書が置かれていた。彼はガラス越しにじっくり見た。黒い文字のタイトルと著者名を読む。これがここにあるはずがない、思わずそう考えたが、それはまさしくそこにあった。英字新聞の柄のテーブルクロスの上に無造作に載せられていた。モスグリーンの布表紙が、微かに色褪せている。状態は悪いかもしれない。しかし、もし本物なら、あること自体が奇跡だ。それは、彼が長年探し求めていた書物、とある不遇な短編作家の唯一の作品集だった。300 部限定。売れたのは 94 冊(これはとある評伝に書いてある)。そして、その次の作品を出す機会もなく、その作家は歴史のどこかに消えた。

初版本だろうか? こう自問するや彼は笑い出した。初版本に決まっている。それしかないのだから。

いくらだろうか? 彼のような物好き以外には用のない代物だ。だが、高値は覚悟しなくてはなるまい。いくらなら払える? こう自問するや、再び彼は笑い出した。その笑い声はにぎやかな雑踏に紛れて消えた。

いくらなら? もちろん、いくらでもだ!

そして、3つ目の自問。行くか? 

彼はひどく真剣な顔つきになって、ショーウィンドーの脇にある扉をぐいと押し開けた。(つづく)

小説

老婆の霊

少年のころ、いわゆる心霊スポットというところに肝試しに行ったことがある。そこは、枯れが辻と呼ばれる、鬱蒼とした森に囲まれた不気味な場所だった。大きな不格好な石があって、私たちは、そこにお供え物の痕跡があったのを懐中電灯で確認した。

枯れが辻の由来は凄惨なものだ。江戸の昔、そこで一人の老婆が罪なく殺されたのだ。ゆえなき讒訴によるものとも、物取りによるものともいわれているが、いずれにせよ、怨恨を抱いて死んだ老婆は、霊となって現れるようになった。

そして、怪談は当時の私たちにまで語り継がれ、ある夏の真夜中、私たちをその恐ろしい場所へと向かわせたのだった。

私たちは誰も恐れていなかったように思う。私たちにとっては遊びに過ぎなかったのだ。私たちは例の巨石の前にやってくると、笑いながら、手で石の表面をタッチした。それがゴールの印だった。だがそのとき、私たちは石の上に何かがいるのに気がついた。とっさに懐中電灯が向けられた。それがいた。

それからどのようにして人のいる世界に戻ったかは覚えていない。私たちは叫び、走り、気づけば煌々と輝くコンビニの前にいた。たむろするヤンキーたちがタバコの煙を吐き出していた。

あのとき、私たちは間違いなく老婆を見たのだと思った。だが、五〇なかばを過ぎた今、あの時の鮮明な映像が脳裏を過ぎるたびに、私は違うふうに捉えている。今ならたぶん年下だな、と。

小説

反対側のドアが開きます

都内の電車で奇妙なできごとが発生した。ある特定の車両だけ乗客がいなくなるのだ。どういうことかというと、その車両に乗ると、乗客はひとりひとり前後の車両に移動していき、やがて無人になってしまう。

しかも、移動した乗客たちには一様に異常な振る舞いを見せた。すなわち、誰もが苦しげな表情でぶつぶつなにやら繰り返すばかりなのだ。この「症状」は下車するまで続くことも明らかになった。鉄道エンジニアたちが、車体を調査したが、異常な点は見当たらなかった。駅長が、もはやこれはお祓いをするほかない、と諦めはじめたとき、白い制服を着た駅員たちが姿を現した。「我々は異常現象究明部です。非科学的な対応をする前に、我々に任せてください」

駅長が「もうエンジニアたちが徹底的に調べたのだ」というのも聞かずに、白駅員たちは勝手に、問題の車両に乗り込み、聞いたこともないような掛け声をあげて、奇怪な機器を振り回していた。駅長たちは呆れながら見ていたが、10 分もしないうちに、白駅員が叫んだ。「これだ!」

異常の原因が明らかになったというのだ。白駅員が駅長たちを車両に呼んだ。

「これを見てください」と白駅員は乗降ドアの上の電光掲示板をさし示した。「実際に運行中のときのプログラムのまま、案内が流れるようにしてもらいましょう」 電光掲示板に「次は東京」と表示され、次の瞬間、「反対側のドアが開きます」に切り替わった。

「これです! さあ、急いで反対側のドアを見てください!」

駅長は振り返って反対側のドアの上の掲示板に目を向け、思わず「あっ」と叫んだ。なぜならそこにも「反対側のドアが開きます」と記されていたから。

そして、これを見た瞬間、駅長はもう一度、反対側の掲示板を見ずにはいられなかった。

「反対側のドアが開きます」

そして、駅長は反対側を見た。

「反対側のドアが開きます」

頭の中で「反対側のドアが開きます」がぐるぐると回り出し、駅長は「ま、真ん中のドア」とうわごとのように繰り返しながら、ふらふらと車両を連結するドアのほうに歩いていき、隣の車両に姿を消した。