小説

座る能力(後編)

たとえば、たまたま近くにあった社長の椅子に私が座ったとしよう。そのとき、なにが起こるだろうか。いや、なにも起きない。というのも、周りにいる人すべてが、私をまるで社長であるかのように扱いだすのだ。とうの社長ですら、私を社長と呼びはじめる始末だ。

また、うっかりして、女性の膝に座ってしまったこともある。通常ならば逮捕は免れないこの行為が、いかなる咎めも引き起こさなかったのは、おそらく周囲の目には私があどけない子どものように見えたからにちがいない。

こんな能力を持つ私だが、海外旅行、とくにアメリカに行くことだけは用心せざるをえない。一部の地域では、いまだに電気椅子による処刑が残っているからだ。

だが、私は諦めることができない。エルヴィス・プレスリーの生誕の地、テネシー州メンフィスを訪れたい。フロリダ州のディズニーランドにも家族で行きたい。だが、このどちらの州でも、たとえ歴史的な痕跡にすぎないとしても、電気椅子が法として残っている。私は恐ろしい。観光の途中で、私がふと座りたいと思った瞬間にあの能力が作動しはじめ、アメリカ合衆国の良識と法律とを総動員して、私を電気椅子に座らせてしまうのではないかと。

だからこそ、全世界から死刑が撤廃されなければならない、と私は思う。そんな理由から、今、死刑反対運動の団体で、チェアーを務めている。

小説

座る能力(前編)

私は、あるときから不思議な能力を身につけた。どうしてそんな力が身についたのかわからない。その能力とは、座りたいときにはどんな椅子にでも座れる能力なのだ。

たぶん、東京のような非人間的な都市ならではの能力だろう。満員電車のなかで押し潰されながら、どんなに席があればと切望したことだろうか。人を座らせないようにできている都内の公園のベンチを前にして、どれほど座りたい気持ちと争ったことだろうか。そんな切実な欲望が私の能力を開花させたのだ。

それ以来、私はどんなに混んだ電車でも、座れる座席を見出せるようになった。満席のレストランでも、私が足を踏み入れるや、たちまち席があき、案内されずにはいないのだ。ライブでも演劇でも、いかなるプラチナ・チケットも、行きたいと願えば、私のところに自然と舞い込んでくる。

すでにお分かりのように、この能力は、ただ座るということだけが問題なのではない。実際、それだけなら、折りたたみの椅子でも持ち運べばいい。そんなものなら、いまどきネットで簡単に買うことができよう。

私の能力が尋常ではなく、そしてそれゆえに恐ろしいのは、それが私の座りたいという欲求を実現するためだけに、人々の認識や社会そのものに働きかけてしまうことなのだ。