ライブ

ぎだゆう座六月公演

毎月一日二日はお江戸上野広小路亭で、女流義太夫の公演がある。二時間ほどの公演で、最初に演目の解説があって、それから演奏がある。六月一日の公演は義経千本桜の「すしやの段」だ。これを「前」と「奥」の二つに分けて、「前」を竹本京之助(浄瑠璃)、鶴澤津賀寿(三味線)、「奥」を竹本越孝(浄瑠璃)、鶴澤三寿々(三味線)が演奏した。このうち、京之助先生、越孝先生、三寿々先生は、去年度の義太夫節の実践コースで教わった先生方だ。

義太夫節は、語りと三味線を聴いているうちに両者が一つになって独特な響きを帯び、体の深いところにまで届きはじめる。遠赤外線焙煎だ。

とはいえ、私は聴くだけでは言葉がわからないので、ときどきパンフレットを見る。これは入場時に貰えるもので、脚本が印刷してある。聴いているうちに「命」の発音が変なのに気がついた。

「命は」を「いのちは」ではなく「いのった」というのだ。「命を」も「いのっと」と言っていたような気もする。あとで日本古典文学大系の『文楽浄瑠璃集』で調べてみると、連声で「いのッタ」というと書いてあった(二〇〇ページ)。

義太夫節ではよく出てくるが、撥音の後に助詞の「は」が来ると合わさって「な」になる。つまり「油断は」は「ゆだんな」と読む。「いのった」もこれと同じような現象だ。

だが、「んは」が「な」になるのは、「h」が消えたためだとすればまだわかるとしても、「いのちは」が「いのった」になるのはよくわからない。連声だというが、連声は漢字の熟語で起きるものだという。だが、「いのち」は和語だ。おそらく漢語由来の連声が、和語にも適用されたのだろう。だが、それでもよくわからない。

いずれにせよ、こうした古い発音が今も生きているのが義太夫節の面白さだ。昨年度の語り教室では越孝先生に「腕白」の「ぱ」は、「ぱ」と「ば」の間だと教わった。どういう発音かはわからないが、そうしないと、どこか違ってしまうのだ。とても面白い。