散文

ぶれない芸

漫才を見たり、芸人たちの話を聞いているとたまに「ぶれてはいけない」という話になる。これには二つの側面がある。ひとつは話の「ぶれ」だ。漫才にせよ漫談にせよ、話のフォーカスがずれたり、ひとつに絞りきれていなかったりすると、聞く人の解釈がぶれてしまうというのだ。もうひとつは視線の「ぶれ」で、例えば普段つけていないアクセサリーをつけていたり、手に包帯を巻いていたりすると、観客はそっちのほうに気を取られてしまう。

これらのぶれは、舞台上で行われていることに観客が集中することを妨げる余計なものだから、できるだけ排除しなくてはいけないのだという。私は芸能のことはわからないが、芸人たちが舞台では決まった衣装を身につけるのも、こうした余計なものを舞台に持ち込まないためのひとつの工夫であろう。

また芸人たちが、程度の差こそあれ、ある種のキャラクターを帯びて登場するのも、もちろんキャラクターそのものにも機能はあるが、衣装と同じように余計なものを排除する機能があるものと思われる。いつもと同じ雰囲気だからこそ、観客は迷わずに集中することができる。

私は昨日、生身の人間が演じた舞台など、これまで一度もなかったのかもしれない、と書いたが、芸人にもこれは当てはまる。漫才や漫談は演劇とは違うから、そのまま生身の人間がそこにいると勘違いしやすい。またそう勘違いさせるのが芸のうちでもある。しかし、そこにいるのは引き算によって作られた存在だ。

演技や芸というと特別なことのように感じられるが、やっていることは私たちにも関係のあること、つまり話を伝えるということだ。となると、私たちもまた、なにかを伝えようとするとき生身の人間でなくなっているのではないか、という気もしてくる。

ライブ

第十九回 街裏ぴんく漫談独演会「ワンスアゲイン」

昨日土曜日、義太夫節のフリーマーケットで床本を買ったのち、渋谷のさくらホールで開催された街裏ぴんく漫談独演会に行った。あまり考えていなかったが、義太夫節も漫談も語りだ。

といっても、街裏ぴんくの漫談についてそれほど知っているわけではない。ただ、評判がいいので一度、生で聞いてみたいと思っていた。それで独演会のチケットを予約した。ただ、その前に今年の五月七日、にぼしいわしの A-dashi 事務所ライブ「フーフー#5」にも出演するというので、行ってみた。それを見て独演会がますます楽しみになった。

私は語りがどんなふうに成立するかに興味がある。言語的側面から捉えるとやりやすいが、声の調子や表情、動きなどの身体表現なども大事な要素だ。だから、生で見なくてはならない。だから、独演会に行かなくてはならない。遊びではない。だが、そう考えると行きたくなくなるので、遊びとして行った。

そして、独演会はとても面白かった。

街裏ぴんくの漫談はたいてい具体的な地名に語り手がいるところから始まる。そこに何か奇妙な出来事が起きて、語り手が巻き込まれる。同時に聞き手も、街裏ぴんくの提示する少し間の抜けたファンタジーの世界に運ばれていく。

この変な世界は展開自体も面白いが、語り手自身もときどき脱線して余計なことを言い出すのが面白い。しかし、もっとも笑いが大きいのは、奇妙な世界の登場人物が言う一言だ。これがどこかずれていて、吹き出さずにはいられない。街裏ぴんくらしさが出ているピークの作り方だと思った。

また、声色や身振り手振りだけでなく、全身を使って舞台中を飛び回る。これを二時間半続けるのだから非常に大変だ。聞いている方も疲れてしまうので、街裏ぴんくも気をつかって「楽にして聞いてください」と言っていたくらいだ。

義太夫節でも漫談でも、その他の話芸でも、演技や三味線があるとはいえ、中心にあるのは語りだ。その語りだけで、不思議と独特な空間が立ち上がってくる。これが語りの醍醐味であり、私の関心のあるところだ。

街裏ぴんくの独演会にもその不思議な空間が確かに存在していて、彼の着るピンクの衣装が奇妙な輝きを発したり、別の色に見えたりした。