散文

頭をクリアに

私は昭和の基準でいうと高身長だが、令和の基準でいうと高くない。そんなわけで、スタンディングのライブに行くと、令和の高身長、平成の超高身長、昭和の超々高身長の存在によって、視界を妨げられることが多い。だから、ライブではいかに視界を確保するかが私にとっては重要だ。

整理券順に会場に入るやいなや、すでにステージ前に立っている観客たちの背後から、どこに立てばステージがよく見えるかを見定める。入場順が遅いと、どこに立っても、誰かの頭が視界の一部を遮っていたり、ステージのほとんどの部分が見えなかったりする。

しかし、どうしようもない。私はそのまま立ち、スタッフの「これからまだお客様が入場されますので、一歩ずつ前にお進みください」という言葉によって、頭が集団移動を始める瞬間、あるいは、バンドの登場の前触れとなる音響の変化に観客たちが心浮き立ち、同時に足を踏みかえるその瞬間に、目の前の遮蔽物が消え去り、視界が開けるのを当てにするほかない。

もっとも、そうしたことはまず起きない。同じような境遇の人々はこの状況にどう折り合いをつけているのか知りたくなる。私より背の低い人ももちろんたくさんいるが、この点に関して同志たちが大規模なデモを敢行したという話は聞かない。もっとも、そうしたデモも、背の高い人々に隠れてしまっている可能性も否定できない。

私がひとつの可能性として考えているのは、ライブが進行するにつれ、後ろのほうの人々が前の人の頭に合わせて少しずつ位置を変え、結果としてそれぞれの視界がある程度は確保されるようになるというものだ。米などを容器に入れて振っていると、いつの間にか粒が同じ向きに揃っていく。そんな集合的な最適化が狭いライブ会場において発生する条件を突き止めるためには、どのような動態モデルが有効だろうか? 

とはいえ、科学の進歩を待っていたら、ライブが終わってしまう。私は不完全な視界のままステージを見る。前には長髪の人の頭がある。それを避けて覗き込むと、さらに先では別の頭がゆらゆらと左右に動いている。この揺れ頭が長髪頭と離れ、一筋の隙間を作り出すその一瞬、視界が嘘のように開ける。ステージの輝きが私のものになる。この唯一のチャンスを掴もうと、私は頭を左右に動かし、伸び上がる。

そうしているうちに、暗い考えが起きてくる。いったいこれらの高き人々は、地表近くに縛りつけられた我らのことを考えたことがあるのだろうか。少しでも自分の後ろにいる人の気持ちに思いを馳せたことがあるのだろうか。前に並ぶ揺れ頭、長髪頭、帽子頭を見ていると、ギロチンのことなどが思い出されてくる。私の黒い考えはモクモクと湧き上がり、後ろの人々の視界を遮りはじめる。

結局、目を瞑って聴いた。