風刺・戯文

特別な電話

僕たちの国は命を大切にしている。だから、自殺なんてもってのほかだよ。それで、僕たちの国の偉い人々は、死にたくなった人が助けをすぐに求められるように、死にたがり屋のための特別な電話を作ってあげたんだ。

たとえば、自殺したくなった人がいるでしょ。その人は、その特別な電話に電話するんだ。すると、ワンコールも終わらないうちに出てくれるのは、自殺を止めてウン十年という頼もしい専門家だ。おいでなすったとばかりに、自殺を思いとどまらせようと、なだめたりすかしたりさ。それでもう、何人もの自殺を止めたんだ。だから、偉い人たちは、この特別な電話を何台も増設することに決めた。本当にこの国に生まれて誇らしいよ。

でも、この国にはとんでもなくひどい奴らがいて、特別な電話の悪口ばっかり。

「いくら電話を増やしたって、自殺は解決しない!」だってさ。

そりゃ、電話で止められない自殺だってあるよ。でもさ、特別な電話があっても自殺するんじゃ、むしろもう死んで当然じゃない? あきれたね。

それどころか、連中、こんなことまで言い出す始末。

「特別な電話のせいで、逆に自殺が増えてる!」

本当にバカな連中。そんなことありっこないのに。こんな奴らと同じ国にいるかと思うと、そりゃ、誰だって自殺したくもなるさ。

風刺・戯文

第二のワルシャワ・オーディション

昔、イギリスの若者たちが、デヴィッド・ボウイの「ワルシャワ(Warszawa)」(1977)という曲を聴いて、バンドの名前を「ワルシャワ(Warsaw)」にした。

そのバンドの演奏は暗くて重く、独特だったため、デビューアルバムの制作にまでこぎつけた。その中に「ワルシャワ(Warsaw)」という曲があった。これはヒトラーの側近であったルドルフ・ヘスをテーマにした曲だ。

だが、結局のところ、このデビューアルバムはお蔵入りになった。またワルシャワという名詞を使ったバンドがほかにあったため、バンドは改名し、ナチスの慰安所に因む「ジョイ・ディヴィジョン(Joy Division)」の名で知られるようになった。そして、「ワルシャワ(Warsaw)」は、このバンド名で発表された。

デヴィッド・ボウイの「ワルシャワ(Warszawa)」は暗く悲劇的で、ジョイ・ディヴィジョンの「ワルシャワ(Warsaw)」もまた暗く、演奏には絶望的な響きがある。この頃のイギリスでは、ワルシャワは、悲劇・絶望・閉塞感、といったイメージをもっていたように思える。

もっとも、たとえそうだとしても、これは 1970 年代後半の話。私は一昨年、ワルシャワに行ったが、悲劇は博物館だけで、タトゥーだらけの若者でいっぱいの明るい元気な都市だった。

もう、世界には、かつてのワルシャワのような灰色で息詰まるような都市はないのだろうか。暴力的な組織に、人間が絶望とともに飲み込まれていく街は。

そんなわけで、私は「第二のワルシャワを探せ!」オーディションを開催したい。よくよく見れば、有力な候補も多い。キーウ、ガザ、テヘラン、ヤンゴン、平壌とずらり居並ぶそのとき……。

「ちょ、ちょっと待った!」と、すてきに強い政府ができたばかりのトーキョーが乱入してきて、会場は大盛り上がりだ。

風刺・戯文

犬も歩けば……

ことわざ「犬も歩けば棒に当たる」の意味を調べますと、「余計なことをすると災難に遭う」と「行動すれば思わぬ幸運に出会う」という2つのタイプがあるようでございます。

ここで留意願いたいのは、2つの解釈はあくまでも解釈でして、「犬も歩けば棒に当たる」の原意ではないということです。このことわざがもともとはどういう意味であったのか、ここでちょっと真面目に考えてみたいというのが今回のテーマでございます。

さて、「車が走る」と私たちは何気なく使っておりますが、これは実はおかしなことです。さすがにここでみなさんに「どうぞ走ってください」とは申せませんが(笑)、どうか思い描いてください。私たちが「走る」とき、どうしているかを。そうです。2本の足で走っているのです。

ところが、車には足がないのです。その代わりあるのは車輪です。車はこの車輪でもって高速で移動するのです。つまり、私たちにとって走るとは、そもそも自分の足で高速で移動することでしたが、のちに車の出現によって、比喩的に後から「車の移動」に「走る」という言葉を当てはめたのです。

では、ここで「歩く」に戻りましょう。いえ、単に戻るだけではダメです。私たちが2本の足のみで移動することだけを「歩く」と呼んでいた古代の時代に戻りましょう。その時代、私たちはまだ動物の四足歩行に「歩く」という言葉は当てはめていなかったのです。

どうでしょうか、そんな時代に、犬が急に歩きはじめたら。つまり何食わぬ顔で2本足で立って歩きはじめたら。あわてて棍棒で叩かずにはいられませんよね。衝撃的で、それでいてユーモラスなこのイメージは、古代人の心にかない、お気に入りとして保存されたのでした。

「犬も歩けば棒に当たる」は、そもそもことわざではありませんでした。それは、古代人を夢中にさせた最古の犬ミームだったのです。

ライブ

STAYC@KT Zepp Yokohama

STAYC は 2020 年に結成された韓国のガールズグループで、初の日本版のフルアルバム発売に合わせて、今日、ショウケース・ライブが開催された。

STAYC の曲は、ASAP や RUN2U など、他のアイドルポップとは違う雰囲気があって以前からよく聴いていたが、私はどんな人たちが歌っているかも知らなかった。

プロデュースをしているのは、韓国でも有名な作曲家グループで、TWICE の初期の名曲にも関わっているそうだ。そういわれれば、STAYC の日本デビュー曲 POPPY(2022)も似た雰囲気のある曲だ。

私がこのグループをちゃんと認識したのは、去年の夏のシングル I WANT IT がきっかけだ。ポップでどこか懐かしいメロディにハマり、その夏もっとも聴いた曲のひとつになった。昨夏は外国に3週間ほど滞在したので、暇なときなどは YouTube でこの曲の動画を何度も見た。そして、6 人のメンバーを初めて知っただけでなく、この曲のフリの流れまで覚えてしまったのだった。

ショウケースというのは、K-pop 関連でよく聞くが、ファン・ミーティングと本格的なライブの中間ぐらいの感じで、ライブの合間にトーク、ゲーム、プレゼント抽選会なども行われた。司会は K-pop でお馴染みの古家正亨さんだ。観客は、1,000人ぐらいはいたかもしれない。若い男女が中心だが、私より年上らしき人もいた。全体としては、YouTube などで見る K-pop のイベント感があって、これも初めての私には楽しかった。

ライブでは、私にとって夏の思い出の I WANT IT を日本語バージョンで見ることができたのがよかった。ただ、名曲といってもいい ASAP がなかったのは残念だったが、これは次回のライブのお楽しみだ。

ショウケースらしかったのは、開始時にメンバー全員が客席から登場して観客を沸かせたことだ。私は 2 階席だったのでただ見ているだけだったが、アンコールのときには、2 人のメンバーが 2 階にも姿を現した。若い女性たちは大興奮していたが、私は紳士の威厳を保って振り返って見るだけにとどめた。

そのときに威厳を保ちすぎたせいか、背中がつってしまった。

風刺・戯文

リュック過激派

日本では電車の中でリュックを背負っている人はいちだん低く見られる。リュック所持者には誰もが命令していいことになっている。周囲のことを考えないならずものだとの評価が決まっている。混んでいる電車の中でリュックを背負っていると、周囲の憎悪の眼差しで、リュックが燃え上がりそうだ。だから、私たちは、リュックがアツアツになる前に慌てて胸で抱える。

ショルダーバッグや手提げカバンだって、リュックと同じくらい邪魔になるのに、誰も文句はいわない。これらのカバンはちゃんとした社会人の象徴だからだろう。いっぽう、リュックはといえば、今や働く大人だって使うのに、あいかわらず、ランドセルの仲間扱いだ。だから電車の中では、ランドセルは、ベビーカーについで居場所がないのだ。

私の友人のリュック愛好家が、こうした電車でのいわれなきリュック差別に腹を立て、過激な行動に出た。ホームで電車が来るのを待ち構えて、ドアが開いたとき、ショルダーバッグを投げ入れて、彼は叫んだ。「乗るのは、人間じゃなくて、このバッグだろ!」 昔のトンチ話に影響を受けたのだろう。

もっとも、うっかり者の彼はそのバッグに携帯と財布も入れていた。それで遠く離れた駅の遺失物係にはるばる行かねばならなかった。

さて、その彼がアフリカやらインドやらを旅して帰ってきた。長い旅をしたせいで、心境が変わったのだろうか。あれほど執着していたリュックも捨てて、今は頭に荷物を乗せて電車に乗っている。

風刺・戯文

イヤーワーム・フェス

イヤーワーム(耳の虫)とは、特定のメロディの一部が勝手に頭の中でぐるぐる回って止まらなくなる状態のことだ。誰にでも経験のあることだが、私はこんな名称があることを知らなかった。

イヤーワームはたいてい放っておけば消えてしまうので気にするまでもない。とはいえ、心配な場合には対処法もある。その曲をあえて最後まで聴いたり、他のことに集中したり、別の歌を歌ったりするのがいいという。

ネットを見ていると、何日も虫が居着いたせいで眠れなくなってしまったという人もいたし、イヤーワーム・フェスが開催されたという人もいた。

その人の体験談によると、しつこいイヤーワームを消そうとして、別の歌を頭に流したところ、曲が消えるどころか、2曲同時に頭の中で鳴り響く事態となったという。しばらくこの状態に耐えていたが、やがて驚くべきことに、3曲目が流れ始めた。ステージが急遽増設されたのだ。最終的には、メインステージと5つのサブステージからなるフェスが開催されることになった。

フェスではステージ間を効率よく移動するのが肝要だ。また、トイレや物販の列に下手に並んでしまった結果、目当てのアーティストを見逃したり、いい場所を確保できなかったりすることもある。

この人は、フェスは初めてではなかったから、そうした経験をもとに、スケジュール表片手に綿密な計画を立て始めた。するとそれがその人の注意をうまく逸らしたのか、音楽が消え去り、フェスもたちまち中止のやむなきに至ったとか。

風刺・戯文

中国の漢字 Part 2

最近の中国は日本に反抗的だ。どうしてだろうか。その秘密は漢字にあった。

まず日本語の「反」を見てほしい。何をおかしなことを言い出すのだ、と反抗的にならずに見てほしい。日本語の「反」の上の横棒は実に平らであることがわかるだろう。これは日本人が反抗するのにも、心が平らかであることと関係している。日本人は礼儀正しく、秩序を重んじるので、反抗するにしても、決して目上の人には反抗などしない。反抗するのは、自分より弱い相手だけだ。

ところが中国の「反」はどうだろうか。上の横棒が右上に向かって反っているではないか。まるでリーゼントにしてイキっているかのようだ。私たち日本人はこのヤンキーみたいな「反」に衝撃を受けずにはいられない。なぜなら、これは、穏やかで平和を愛する私たち日本人に対する明白な挑発行為だからだ。

私たち日本人は、このような厄介な漢字をちらつかせて、存立危機事態に持ち込もうとする隣人に負けてはならない。だが、それには、日本語の「反」は生ぬるすぎる、平穏すぎるのだ。

今こそ、中国に勝つために「反」の漢字を改めようではないか。上の横棒を、中国よりももっともっと上方に反り返らせよう!

散文

この世はなべて偽装難民

あらゆる難民は、基本的にすべて偽装難民だ。なぜなら、この世界のどこにも、この人は難民です、と証明してくれる場所はないからだ。そして、このような「身分保証」のないことこそが、難民の本質だ。だから、難民はいつでもどこでも偽装難民だと疑われる。そのように疑われる人こそ本当の難民なのだ。

正式のパスポートを持っているとはどういうことだろうか。そのパスポートに記された国家の国民であることを、国家が保証してくれるということだ。

だが、難民にはこうした身分保証はない。どこの国際機関もそうした身分保証を発行できない。それぞれの国がそれぞれの事情に従ってこれこれは難民であると決めるだけだ。そして、そこから抜け落ちる人が偽装難民となる。つまり、国は難民を決めると同時に、偽装難民をも決めているのだ。

この事情を知らない人だけが、偽装難民を非難することができる。だが、実際には政府を批判しているに過ぎないのだ(日本では与党の政治家がこれをするのだから恐れ入る)。そして、このような無知な人はこんなデタラメなことすら考え出す。すなわち、その難民とやらの出身国政府が責任を持って、自分の国の難民に「難民証明書」を出して、難民受け入れ国に通知すべきではないか、と。もっともな理屈だ。だが、もしその国にそんなまともなことができるのであるならば、難民など出やしないだろう。

私たちの国、日本では、こうした主張が本気で罷り通りかねない様相を呈している。今や、日本には難民は存在しない。すべての外国人が偽装難民扱いだ。もっとも、日本では外国人が必要なので、そう簡単に追い出すわけにはいかない。

そこで、私から提案したいのだが、難民ビザなどやめて、偽装難民ビザを出したらいいのではないか。日本人にかかればみんな偽装難民なのだから、通常の難民手続きよりもずっと簡単だ。それに、偽装難民ビザなのだから、誰も文句は言えない。

この偽装難民ビザが実現したら、たぶん、「本物」の難民が日本で暮らすために偽装難民になりすます偽装偽装難民が多発することだろう。

風刺・戯文

漂白の達人

衆院選のさなか、世界的な言語学者のスティーブン・ガルシア博士が来日し、都内を巡って精力的な言語調査を実施しました。

ガルシア博士は、意味の漂白(semantic bleaching)の研究で知られる世界的な学者です。意味の漂白とは「語がもともともっていた具体的な意味が弱まる、つまり漂白され、より抽象的・文法的な意味をもつようになること」とされます。

具体的な例としては日本語の「いる」があります。「いる」は「居る、存在する」という意味ですが、これが「雨が降っている」「電車が走っている」のように動詞の後にくると、ある動作が「進行している」という抽象的な意味を表すようになります。このとき「いる」からは「存在する」という具体的な意味は漂白されてなくなってしまっているのです。

「激しい選挙戦が行われているこの今の日本こそ、私が研究している意味の漂白の例を集めるのに最適なフィールドなのです」と、流暢な日本語を操るガルシア博士の前に、選挙カーが止まりました。早速、候補者たちの演説が始まります。

「日本を強く!」
「本気で改革!」
「全力で取り組みます」
「ぶれない姿勢!」
「未来を守れ!」

博士の顔が歓喜に輝きます。「どうです。これらの候補者たちの言葉は! どの言葉をとりあげても、意味がすっかり消え失せてます! まったく日本の政治家は意味の漂白の達人ですよ!」

調査を終えた博士は、「有権者の脳も漂白されているかも」という思いつきを検証するため、雑踏の中に吸い込まれていきました。

ライブ

スタンディング

スタンディングのライブでは、ライブのあいだじゅう立っていなくてはならない。これはけっこう大変だ。なので、整理番号にもよるが、早めに入場できたときは、私は前の方へと攻めていかずに、脇の壁に寄りかかったり、後方でバーか何かにもたれかかれる場所を選ぶこともある。

あるライブで、会場に入ると、ステージからちょっと離れたところに円柱があった。すでに先客がそれに寄りかかっている。これは格好の場所だ、と私はその隣に陣取ってライブが始まるのを待った。

次第に人が増えてきた。私の前にも人がどんどん入り込んでいるが、幸いにもメインのマイクまで視線を遮るものはなかった。これはいい、と思ってさらに待っていると、アナウンスが入った。

「本日はソールドアウト公演につき、多数のお客様が来場されます。ご入場の方は一歩前にお進みください」

周囲の人々が前に動きはじめた。私は円柱に体を押し付けて、寄りかかりポジションを死守した。だが、私の前に次から次へと背の高い人が入り込んできて、すっかり前が見えなくなってしまった。

私は「持てる人はその持てるもののせいで、変化に柔軟に対応できないことがある」と悔やんだが、もう遅い。

ライブが始まった。円柱に背中を押しつけて爪先立ちになれば、少しはステージが見えることがわかった。