旅・観察

出発

今日は台風だというので、私は朝から羽田空港の運行情報をいくども見ていた。国内便も国際便も欠航と遅延ばかりだ。

だが、私が乗る便はそのリストにはなかった。家を出るギリギリになっても欠航にならない。ならば行くしかない。スーツケースを運び出すとものすごく重い。大雨と荷物と先行きの見えない状況に私の足取りは重かった。

電車の遅延もありうるので早めに家を出た。だが、普通に空港に着いた。

フライトの掲示板を見ると、欠航・遅延の表示に囲まれて、私の乗る便が平然と点灯していた。仕方なくチェックインの列に並ぶ。私の番が来てカウンターにパスポートを渡し、スーツケースをレーンの上に乗せた。

二九キロ。やはりだ。

カウンターの人が二十三キロまでだと告げる。超過料金を払うか、さもなければ、スーツケースから荷物を取り出さねばならない。場合によっては捨てなくては、と覚悟を決める。すると、列を案内しているスタッフがやってきて、話しかけてきた。この便では一人二つまで荷物を預けられて、それぞれ二十三キロまで大丈夫だ、と。

驚くべき言葉だ。だが冷静に確認する。「二つ合わせて二十三キロですか?」

「いえ、一つが二十三キロ以内で、二つまで大丈夫です。荷物の整理はあちらでどうぞ。終わったらお声がけください」

私はたちまち荷物を二つに分け、カウンターに戻った。量ると二十三キロと十キロだ。案内役のスタッフが「でかした」とばかりにうなずいて、立ち去った。

搭乗券の発券を待っているあいだ、隣のカウンターのスタッフたちの話し声が聞こえた。

「手裏剣をお持ちの客様が……」「ちょっと問い合わせてみましょう……」

私は笑いを堪えながら、出国ゲートに向かった。

散文

地獄の言語学入門(15)

私たちの政治犯を驚かせるのは、その新たな看守が、別の基準にしたがってグループ分けをしていることだ。

これをA’グループとB’グループとしよう。そしてやはりB’グループのほうが危険なのだ。

はじめ、政治犯はこれも弁別特徴が賄賂であろうと推定した。そこで、こっそりと看守に近づいて硬貨を一枚握らせる。猛烈なビンタで弾き飛ばされた。「次に同じことをしたら独房行きだぞ!」と警告された。政治犯は鼻血まみれになりながら退散する。賄賂ではないのだ。

それからしばらく獄中音韻論研究の日々だ。この看守はどんな基準で依怙贔屓をしているのか、どうやったらA’グループに入れるのか……そして、ついに見つかる。この看守は暇なときやたらと立派な本を開いているのだ。こっそり近くに寄って何を読んでいるのか覗き見る。宗教書だ。

政治犯はその看守の目の届くところに佇んだ。そして、小声で、だが聞こえるように、祈りの文句を繰り返し、それっぽく礼拝してみせた。

「おお!」と看守は声を上げ、思わず祈った。この瞬間から、政治犯はA’グループのほうに振り分けられることとなった。弁別特徴は祈りだったのだ。

私ははじめこの看守が中国人かもしれないと示唆した。監獄論的には看守はどの国の、いやどの言語の話者でもいい。しかし、音韻論的には、話の流れからすると、中国語話者、いや、韓国語話者や、ビルマ語話者がふさわしい。

というのも、これらの言語は、日本語のような有声・無声という弁別特徴にこだわらず、別の特徴によって区別するのだから。つまり、中国語や韓国語などでは、有声・無声よりも、有気・無気という別の対立関係のほうが重要なのだ。

有気とは子音を出した後に一瞬の気音(呼気)が後続する音のことだ。無気は逆にこの気音がない。中国語などでは、この気音の有無で語が区別される。これに対し、日本語はそうではない。t の後に気音が続こうと続くまいと、タイヤはタイヤだ。

この音韻論的思考のおかげで、A’グループに仲間入りした私たちの政治犯は、軽作業をこなしながら考える。

「あの看守は賄賂の有無で囚人を区別したが、この看守は祈りの有無でそうしている。では、どちらが良い看守だろうか? 音韻論的には弁別特徴にいいも悪いもない。だが、賄賂は不正なのに対して、祈りは善だ……」

看守論に耽る政治犯の手が止まった。めざとく見つけた看守が、分厚い宗教書でぶちのめした。

ライブ

ぎだゆう座六月公演

毎月一日二日はお江戸上野広小路亭で、女流義太夫の公演がある。二時間ほどの公演で、最初に演目の解説があって、それから演奏がある。六月一日の公演は義経千本桜の「すしやの段」だ。これを「前」と「奥」の二つに分けて、「前」を竹本京之助(浄瑠璃)、鶴澤津賀寿(三味線)、「奥」を竹本越孝(浄瑠璃)、鶴澤三寿々(三味線)が演奏した。このうち、京之助先生、越孝先生、三寿々先生は、去年度の義太夫節の実践コースで教わった先生方だ。

義太夫節は、語りと三味線を聴いているうちに両者が一つになって独特な響きを帯び、体の深いところにまで届きはじめる。遠赤外線焙煎だ。

とはいえ、私は聴くだけでは言葉がわからないので、ときどきパンフレットを見る。これは入場時に貰えるもので、脚本が印刷してある。聴いているうちに「命」の発音が変なのに気がついた。

「命は」を「いのちは」ではなく「いのった」というのだ。「命を」も「いのっと」と言っていたような気もする。あとで日本古典文学大系の『文楽浄瑠璃集』で調べてみると、連声で「いのッタ」というと書いてあった(二〇〇ページ)。

義太夫節ではよく出てくるが、撥音の後に助詞の「は」が来ると合わさって「な」になる。つまり「油断は」は「ゆだんな」と読む。「いのった」もこれと同じような現象だ。

だが、「んは」が「な」になるのは、「h」が消えたためだとすればまだわかるとしても、「いのちは」が「いのった」になるのはよくわからない。連声だというが、連声は漢字の熟語で起きるものだという。だが、「いのち」は和語だ。おそらく漢語由来の連声が、和語にも適用されたのだろう。だが、それでもよくわからない。

いずれにせよ、こうした古い発音が今も生きているのが義太夫節の面白さだ。昨年度の語り教室では越孝先生に「腕白」の「ぱ」は、「ぱ」と「ば」の間だと教わった。どういう発音かはわからないが、そうしないと、どこか違ってしまうのだ。とても面白い。

ライブ

第十九回 街裏ぴんく漫談独演会「ワンスアゲイン」

昨日土曜日、義太夫節のフリーマーケットで床本を買ったのち、渋谷のさくらホールで開催された街裏ぴんく漫談独演会に行った。あまり考えていなかったが、義太夫節も漫談も語りだ。

といっても、街裏ぴんくの漫談についてそれほど知っているわけではない。ただ、評判がいいので一度、生で聞いてみたいと思っていた。それで独演会のチケットを予約した。ただ、その前に今年の五月七日、にぼしいわしの A-dashi 事務所ライブ「フーフー#5」にも出演するというので、行ってみた。それを見て独演会がますます楽しみになった。

私は語りがどんなふうに成立するかに興味がある。言語的側面から捉えるとやりやすいが、声の調子や表情、動きなどの身体表現なども大事な要素だ。だから、生で見なくてはならない。だから、独演会に行かなくてはならない。遊びではない。だが、そう考えると行きたくなくなるので、遊びとして行った。

そして、独演会はとても面白かった。

街裏ぴんくの漫談はたいてい具体的な地名に語り手がいるところから始まる。そこに何か奇妙な出来事が起きて、語り手が巻き込まれる。同時に聞き手も、街裏ぴんくの提示する少し間の抜けたファンタジーの世界に運ばれていく。

この変な世界は展開自体も面白いが、語り手自身もときどき脱線して余計なことを言い出すのが面白い。しかし、もっとも笑いが大きいのは、奇妙な世界の登場人物が言う一言だ。これがどこかずれていて、吹き出さずにはいられない。街裏ぴんくらしさが出ているピークの作り方だと思った。

また、声色や身振り手振りだけでなく、全身を使って舞台中を飛び回る。これを二時間半続けるのだから非常に大変だ。聞いている方も疲れてしまうので、街裏ぴんくも気をつかって「楽にして聞いてください」と言っていたくらいだ。

義太夫節でも漫談でも、その他の話芸でも、演技や三味線があるとはいえ、中心にあるのは語りだ。その語りだけで、不思議と独特な空間が立ち上がってくる。これが語りの醍醐味であり、私の関心のあるところだ。

街裏ぴんくの独演会にもその不思議な空間が確かに存在していて、彼の着るピンクの衣装が奇妙な輝きを発したり、別の色に見えたりした。

散文

義太夫協会フリーマーケット

義太夫協会がフリーマーケットを開催するという知らせを見たので、行ってみることにした。「義太夫節の床本など義太夫節に因んだもの、和のアイテムを大放出」とある。

床本というのは義太夫節の脚本で、太夫はこれを前に広げて語る。義太夫文字という独特な書体で本文が書かれ、その傍に朱筆で記号が書いてある。

一般に読める浄瑠璃の本はこの床本を翻刻したものだ。私は初めて読んだとき、本文の傍に小文字で記されたこれら奇妙な記号に驚いたものだった。解説を読んで、これらの記号が節章と呼ばれ、語り方や三味線の演奏の指示だと知った。そして、当時、文楽を見たことも、義太夫節も聞いたこともなかった私は、浄瑠璃の本文と節章をデータにして、パソコンに入力すれば勝手に義太夫節を演奏するのだろうと思っていた。

その後、私はこの節章をもっと理解しようと思い、義太夫節の語りと三味線を実際に学んだ。そのおかげでさいわいにも、過てる機械論的義太夫節観を脱することができた。だが、それと同時に、この節章を本当の意味で読めるようになるには相当の訓練が必要だということも分かった。それにはやはり床本をじっくり観察することから始めなければならない。

そんなわけで私はフリーマーケットに行き、三冊ほど床本を買った。大正から昭和前期にかけて、太夫が実際に書写し使ったものだ。それ以上の由来は私にはわからないが、和紙は今では高価でなかなか手に入らないものだそうだ。

パラパラめくってみると、朱文字の節章のほかに、鉛筆や色鉛筆で印が書かれていたり、太夫自らの書き込みなどあって興味深い。また、本文に白い紙が貼られている箇所もあるが、これは省略された部分だろう。私はこれを資料として活用するレベルにはないが、見ていれば面白い発見もあるかもしれない。

ところで、フリーマーケットは、赤坂見附の豊川稲荷文化会館の三階の畳敷の部屋で開催された。ここは義太夫教室も開催されていたところで、昨年度は毎週のように通ったものだった。

去年の夏、サンダル履きで教室に行き、裸足で畳にあがったら、助手の先生に「畳が痛むので靴下を履いてください」とやんわりと注意された。久しぶりにその畳敷の会場に行く今日、裸足にサンダル履きで来てしまった私は、途中でそのことに気がつき、慌てて会場近くの百円ショップで靴下を買って履いた。

靴下一足分だけは成長したということだろう。

散文

地獄の言語学入門(14)

ここでひとつ似たような問題に取り組もう。

日本語のタイヤとダイヤの違いだ。この二つはいったいなにが違うのだろうか? 正解した人全員に、ダイヤが好きなだけ手に入る秘密の方法をプレゼントしよう。

どうかな? わかったかな?

硬さ? 素材? ちょっと違うな……そうそう! 「タ」と「ダ」が違うのだ。

では「タ」と「ダ」の違いは? 音声記号で書くと [t] と [d] で、両方とも歯茎破裂音だ。なにが違うというと、声帯の振動があるかないか。[t] は無声歯茎破裂音、[d] は有声歯茎破裂音だ。

つまり、「タ」と「ダ」、[t] と[d] の違いは無声か有声かなのだ。そして、この違いは重大だ。なぜなら日本語話者は声帯の震えによって、タイヤとダイヤを区別しているのだから。

有声・無声というこの区別は、日本語では大きな役割を担っている。金と銀([k/g])、パリとバリ([p/b])、麻と痣([s/z])などなど、無声・有声を入れ替えただけで意味が違ってしまう。

このように意味の違いを引き起こす特徴、この場合だと無声・有声という音声的特徴を弁別特徴と呼ぶ。そして、この弁別特徴によって話者の頭の中で区別される「音」が音素だ。すなわち、タイヤとダイヤの例からは /t/, /d/ の二種の音素が立てられることになる。

ここで獄中に戻ろう。私たちの政治犯がAグループとBグループの弁別特徴に気がつきえたのは、明らかに音韻論への深い理解があったからこそなのだ。そして、それはこの政治犯にとって幸いであった。なぜなら、声帯振動の有無はタイヤとダイヤを分けるにすぎないが、賄賂の有無は生死を分けるから。

しかし、ここでこの政治犯の前に別の看守が立ち塞がる。この看守は……たとえば中国人だ。

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散文

地獄の言語学入門(13)

投獄されたばかりの政治犯にとって必要なのは(二度目三度目でないかぎり)、まず獄中の人々の動きを観察することだ。すると、ただちに次のようなことがわかってくる。

囚人たちには大きく分けて二つのグループ(AとB)がある。囚人たちには毎日労働が課されるが、Aグループには暖かい倉庫内での作業道具の整備・資材の確認などの仕事が割り当てられる。いっぽうBグループの囚人たちはといえば、氷点下の極寒の世界での重労働だ。凍えながら夢中になってレンガを積んだり、橋の建設のためにずぶ濡れになりながら砂利を運ぶ。ときには水の中に落ちて上がってこない者もいる。

また、労働だけでなく、食事にも違いがある。Aグループはいちばん最初に飯にありつける。そして、これらの恵まれた人々は、後から列に並ばせられるBグループのことなど考えやしない。Aグループが食べ終わったころには、飢餓状態のBの囚人たちが残り物の奪い合いをしている。

牢獄の看守は明らかに依怙贔屓しているのだ。そこで、私たちの政治犯は考える。AとBはいったいなにが違うのだろうか、と。これは重要な問いだ。なぜなら、どちらのグループに入るかで、生き残れるかが決まるのだから。

政治犯はそれぞれのグループの囚人の観察を始める。グループを分けるのは、国や民族だろうか。いや、違うようだ。この政治犯は慎重に看守に近づき、それとなく故郷を聞き出す。なるほどAグループには看守と同郷のものがいるようだ。だが、これまでに集めた情報によれば、全員ではない。ということは、郷土愛がグループの対応の違いを生み出しているわけでもない。

政治犯の観察はさらに続く。性格、体つき、犯罪の種類、刑期……どの点から見ても、AとBを区別する決定的な違いは見当たらない。この観察者が絶望しはじめたとき、決定的瞬間が訪れる。

Aグループの囚人のひとりが看守に近づき、タバコを一本渡したのだ。看守はタバコを受け取ると、手でその囚人を追っ払った。すると、また別のAグループの囚人がやってきた。その囚人はポケットから硬貨を取り出すと、看守の腰のポケットにそっと入れる。看守はどこか遠くに目を向けたまま、同じように手で追い払った。

政治犯はこのとき電撃的に理解する。これだ……これだ、と。

AグループとBグループを分ける弁別特徴は、看守への賄賂だったのだ。

散文

地獄の言語学入門(12)

日本語話者にとっては、ハ行はハ行だ。「ハ」も「ヒ」も「フ」も「ヘ」も「ホ」も皆、ハ行の一味だ。つまり、ローマ字で書けば、ha, hi, hu, he, ho だ。だが、本当のところは別物だ。ここで音声学がものをいう。

まず「ハ」「ヘ」「ホ」だが、これらは音声記号で書くと [h](無声声門摩擦音)だ。発音(調音)してみればわかるが、喉の奥で鳴っている。これに対して「ヒ」を調音してみてほしい。これは喉の奥ではなく、口の中の真ん中あたりの音、正確にいえば無声硬口蓋摩擦音 [ç] だ。そして、「フ」、こいつときたら、もっと前にまでしゃしゃり出てきて、唇でフーフー鳴ってやがる。無声両唇摩擦音 [ɸ]、つまり上下の唇で作る音というわけ。

要するに、ハ行のハヒフヘホが h でできていると思っているのは、日本語話者の頭の中だけで、実際には異なる音の寄せ集めだったわけだ。ある言語の話者の頭の中にあるこうした「音」を、実際の音と区別するために「音素」と呼ぶ。

この事情をまとめると以下のようになる。なお、音素は // で囲み、実際の音を表す IPA は [ ]で囲むのが決まりだ。

【日本語のハ行音の音素と実際の音】

音素 /h/ 実際の音  [h], [ç], [ɸ](ただし、ほかにももっと種類がある)

牢獄でも同じように表すことができる。

犯素 /犯罪者/ 実際の犯 [殺人犯], [強盗犯], [窃盗犯], [政治犯](ただし、ほかにも無数の犯罪がある)

なお、日本語のハ行音の [h], [ç], [ɸ] のうち、どれが政治犯なのか、「ホ」なのか「ヒ」なのか「ヘ」なのか、という問題は、獄中でゆっくり取り組むべき課題だ。外にいられるあいだは、ほかの問題に集中することをおすすめする。

散文

地獄の言語学入門(11)

音声学を学んだのちは音韻論の最小キットのご紹介だ。音声学では言語の音の仕組みが問題となっていたが、音韻論では音に代わって「音素」が登場する。

音素を理解するには、政治犯の悔しさを理解することから入るのがいちばんだ。

まず、それは本来違うものが一緒くたにされてしまう悔しさだ。

私たちの牢獄に放り込まれる人々の事情はいろいろだ。まず殺人犯がいる。それから強盗犯、窃盗犯なんてのもいる。詐欺犯もいるし、その他もっと酷い犯罪者たちがいる。これらの只中で、ひとり所在なさげにしている囚人がいる。これは政治犯だ。殺しも盗みもなにひとつしていないのに、口を滑らせてお上の悪口を言ったばかりに、うっかり国旗を踏んづけたばかりに(あるいは踏んだことにされて)、ここにぶち込まれたのだ。

それなのに、この牢獄では、そして世間でも、すべての囚人がひとしなみに「犯罪者」と呼ばれる。十把一絡げの扱いだ。政治犯はこれが悔しくてたまらない。だが、グッと堪える。なぜならそんな不満を口にしようものなら、懲罰房行き確定だから。

政治犯の悔しそうな様子を見て、元コソ泥がからかう。

「まあ、おんなじ罪人どうし仲良くしようや!」

毎度毎度のこのおふざけに、殺人犯も強盗犯も腹を抱えて大笑いだ。政治犯は無言でうつむいて、例の言語学研究に取りかかる……。

なんとも切ない情景だが、まさに同じことが、日本語のハ行に起きているのだ。

散文

地獄の言語学入門(10)

さらに音声学には実利的な側面もあるのを見逃してはならない。これは獄中だけにかぎったことではないが、獄中においてもっとも利益を生ずる。

音声学を学べば、世界中のいかなる言語音であれ、人間であるかぎり原理上は誰でも発音できるということがわかるようになる。そして、音声学を通じて発音の仕組みを学ぶことによって、音声学を学んだことのない人よりも、異言語の発音を模倣することがずっと容易になる。

つまり、あなたは初めて出会った異言語の話者の言葉の断片を、その目の前でほぼ正確に繰り返すことができるのである。これがいかなる効果を生み出すであろうか。

ひとことで言えば親しみだ。

あなたの見事な真似っぷりを見たその異言語の話者は、あなたに親しみを感じずにはいないのだ。これはその言語がマイナーであればあるほど効果を発する。なかには感極まって「ブラザー!」と呼びかける者もいるくらいだ。ただし、当然ながら、英語ではこの効果はほぼゼロだ。

さて、この音声学的実演がもっとも効果を発するのが牢獄内だ。獄中はさまざまな言語の話者で溢れていることをすでに指摘した。英語や中国語は言うに及ばず、なかには聞いたこともないような言語の話者が、牢名主としてふんぞりかえっている場合だってある。

そんなとき、その牢名主にへりくだりながら近づいて、その言語の挨拶かなにかを、音声学的に正確な発音でうやうやしく真似したらどうなるだろうか?

たちまち牢名主のお気に入りだ。

パンのかけら、スープの残り、タバコの一本にもありつけるかもしれない。音声学が暮らしを向上させた瞬間である。