苦い文学

人生逆転

I can’t be wrong about everything. I can’t be. It’s impossible.
(自分の全部が間違ってるなんてありえない。そんなの不可能だ)

イギリスのミュージシャン、モリッシーのライブ・アルバム Live at Earls Court(2005)の 15 曲目と 16 曲目の間に挟み込まれた一言だ。

モリッシーはそうかもしれないが、私はといえばとことんまで落ちぶれて、もう自分のすべてが間違っているのではないかと疑うまでになった。なにからなにまで、そう、歩くことも、いや、呼吸すら間違っているような気がしている。

もしかしたら、逆が正解なのではないか……そんなふうに考えた私は、今までと逆にふるまうことにした。

まず、自分が息を吸うときには、逆に吐いてやるのだ。そればかりではない、息を吐くときに逆に吸ってやる。

歩くときだってそうだ。右足を出すときに逆に左足をこれみよがしに出してやる。もちろん、左足を出すときは、右足を思い切って出してやるのだ。

やることなすこと逆だが、意外にうまくいっている。これで自分の人生も逆転するのではないかと、大いに期待している。

苦い文学

富裕層への道

本屋に行くと「富裕層の生き方」「富裕層の哲学」について学ぶ本がたくさんある。「富裕層おすすめの本」もあれば「富裕層が決してしないこと」の本もある。

雑誌には富裕層の暮らしに関する情報、たとえば「富裕層が勧める習慣とは?」とか「富裕層の丁寧な暮らし」「富裕層の食卓」だのなんだのでいっぱいだ。

もちろんインターネットだって負けてはいない。「富裕層に近づくためのセミナー」「富裕層の投資指南オンラインサロン」なんてのはまともなほうで、富裕層がこっそり利用している占い師・風水師・開運グッズ・お守りであふれてる。

だが、注意してほしいのは、これら作者や講師やペテン師どもは富裕層ではなということだ。それが証拠に連中のプロフィールを読んでほしい。

「富裕層の顧客多数……」

「コンサルタントとして数多くの富裕層と交流……」

「富裕層からの信頼も厚く……」

つまり、連中は、富裕層の(自称)代理人だ。雲の上の存在である富裕層の秘密を私たちだけにこっそり打ち明けてくれるというわけだ。

しかし、連中の言ってることは本当に役に立つのだろうか? 富裕層でもないのに?

そもそも富裕層の猿真似をすれば富裕層になれるというのは、なんとも原始的な思考だ。トーテム思考、社会的ホメオパシーだ。

むしろ、こうした連中の商品に無駄金を使わないほうが、富裕層への近道ではないか。

もしも、この世に富裕層なるものがいればの話だが……それさえも私は疑っているのだ。

苦い文学

マージナル

「レアなものはたくさんあるものよりも価値が高い。トレーディングカードでも、食材でも、金属でも、なんでもそうだ。だが、人間に当てはめると不思議とそうではなくなってしまう。たとえば、不法滞在者はそうじゃない人々に比べてはるかに数が少ないが、だれもこれらの人々を価値があるとは思っていない。むしろ侮蔑と嫌悪の対象として、日本社会のはじっこに追いやっている。

「だが、見方を変えれば、不法滞在者はむしろ日本の中心なのだ。なぜなら、不法滞在者は日本社会の歪みについて我々に直に教えてくれるからだ。これは多数派には絶対にできないことだ。

「不法滞在者の例を挙げたが、実はなんでもそうなのだ。この社会からのけものにされ、批判されるばかりの人々、ホームレスでも、回転寿司で迷惑行為をした若者でもなんでも、これらの人々は我々の社会についてより重要なことを教えてくれるという意味で、はじっこどころか、社会の中心にいるのだ。

「そうなのだ。はしと思えたものが、実は真ん中なのであり、真ん中と見えたものが、実ははしに過ぎなかったのだ。

「そこでもう一度問おう。お前はいったい、それで問題が解決したとでも思っているのかね」

と、桔梗屋は、橋の真ん中を渡ったばかりの一休さんに負け惜しみを言いました。

苦い文学

無念のマスク

今日からマスク着用は個人の判断に委ねられることになった。だが、だからといって、コロナがなくなったわけではない。私もそうだったが、道ゆく人はほとんどマスクをつけていた。

今日は駅で友人と待ち合わせしていたのだった。駅に着くと、友人が先に来ている。そして、私は驚いた。彼がマスクをつけていたのだ。

コロナが始まって以来、マスクの着用を断固として拒否してきた彼だというのにだ。

いったいどういう風の吹き回しだろうか。もしかしたら、その風が彼のところにまともな分別を運んできたのかもしれない。

「どうしたの。マスクなんかしちゃって」

「……」

「花粉症?」

「……」

「マスクをあんなに馬鹿にしてたじゃん」 こう言うと彼はいらだちを顔に浮かべながらマスクを外した。

彼が無言でそのまま立っているので、私もその隣に並んだ。せわしなく歩く人々は皆マスクをつけていて、彼のほうをチラチラ見て通り過ぎる。私は気がついた。人々の様子が違うのだ。かつて人々はマスクをつけていない彼を見ると、ギョッとしたり、怪しんだり、恐れたりしたものだった。だが、今日は誰もがニヤニヤしたり、憐れむような目つきなのだった。

そのうち隣からコソコソ声が聞こえてきた。「あー、やってるやってる」 見ると若者たちが私たちのほうを見て囁いていた。「解禁されたから調子に乗っちゃって!」「はしゃいじゃって!」

すると別のほうで「ミーハー!」とくすくす笑う声が聞こえた。

二人組が「真っ先に政府の言うこと聞てやんの! 真面目くんだ!」と言いながら通り過ぎていく。

「恥ずっ」 振り向くと女の子たちが腹を抱えて笑っていた……。

彼は無念至極といった顔つきで再びマスクをつけた。私はもうニヤニヤしどおしだったが、マスクがしっかり隠してくれた。

苦い文学

自由のマスク

明日、3月13日からマスクが変わる。

今日までは、政府が新型コロナウイルスの感染対策として国民にマスクをつけるように「お願い」してきた。だが、明日、いや、もう3時間後にも、マスク着用は個人の判断に委ねられるのだ。

たとえば、マスクを下げて鼻だけ出す着用法、いわゆる「鼻出しマスク」は、コロナ対策としては不適切なものとみなされ、避けられ、蔑まれていた。だが、明日からは個人が良いと思えば、いつでもどこでも堂々と鼻を出していいのだ。

いや、それどころではない。私たちは明日から、どんなマスクのつけ方をしても、誰にも文句は言われないのだ。

片耳からぶら下げようと、アイパッチのように使おうと、おでこに当てようと、あるいは頭のてっぺんに載せようと自由ということになったのだ。

いや、そればかりでない。不織布でなくてもいいのだ。あらゆる素材が可能だ。ウレタンでも、布でも、藁半紙でも、鉄でも、皮でも、ゴザでも、オブラートでも、すべて個人の判断だ。

そうだ。色も、デザインもだ! 犬とか猫だってあなたがそう判断すればマスクだ! それに、1枚だけというのでもない。いくつでも文句は言われないのだ!

今、日本中ですべての日本人がこの解放のときを待っていることだろう。

思えばマスクは私たちが味わった不自由の象徴であった。だが、3時間後、12時の鐘が鳴ったとたん、それは自由の象徴と変身するのだ。まるでおとぎ話のシンデレラのようではないか。

さあ、私たちは明日、どんなマスクを何枚、どのように、どこに、つけようか。そう思うと、まるで舞踏会に行くかのようにワクワクが止まらないのだ。

苦い文学

マスコミの報じない真実

市役所の地域ボランティア掲示板に行ったら「マスコミの報じない真実を暴く会」という団体があった。

毎週日曜日早朝に中央公園に集合とある。さっそく行ってみることにした。

集合場所には8名ほどの人が集まっていた。リーダーと思しき人が大きな袋を持って立っていたので、話しかけると、快く参加を認めてくれた。

リーダーは時間になるとみんなの前で話し始めた。「皆さん! この世界は嘘ばかりです。絶対にマスコミの言うことなどを信じてはいけません! 今日もマスコミの報じない真実を暴いてやりましょう!」

参加者たちは「おー!」と意気軒昂だ。リーダーは持っている袋から、長いトングとビニール袋を取り出すと参加者たちに配った。

「さあ! 始めましょう!」

人々は公園のあちこちに散らばっていった。いきなりトングを持たされてオタオタしているとリーダーがやってきた。

「マスコミの報じない真実を暴いてください!」

「でも、どうすれば……」

「ほら、あそこにありますよ!」とリーダーは植え込みの中に落ちている紙屑を指差した。私はトングで拾って袋に入れた。

「そうです。あっ、こちらにも!」

転がっている空き缶を私は拾った。「そうそう、その調子です」

「ずいぶんあるんですね」

「ええ、まったくひどい偏向報道ですよ。マスコミときたら捏造ばかりですからね!」

私は草むらに犬の糞が落ちているのに気がついた。「先生! これももしかしたらマスコミの報じない真実でしょうか」

リーダーはかがんで犬の糞をじっくり見た。「いや、違います。これは学校では教えてくれない真実ですね」

「はっ、かしこまりました。では、こちらは?」と私は路面に撒き散らされた吐瀉物を指した。

「ああ!」とリーダー。「これは日本人が知らない真実です」

「ははあ、難しいですね」

「いえいえ、そんなことはありません。どれも一緒ですよ!」とリーダーは笑った。

およそ1時間後、マスコミの報じない真実を大量に暴いた私たちは、偏向マスゴミに対する怒りを新たにして意気揚々と帰宅したのだった。

苦い文学

脱毛の起源について

男でも女でも、服で隠している部分が肝心だ。そこが情欲を掻きたてるのだ。

だが、昔、つまり猿以上人類未満のころは逆だった。隠されていない部分のほうに興奮していたのだ。

そのころの私たちはといえば毛むくじゃらだった。つまりすべて隠されていて、私たちはそれで満足していたのだ。だが、あるとき、体の一部、たとえば肩の部分に毛のない個体が出現した。

私たちの興奮といったらない。毛があるところに毛がない! もうアフリカじゅう噂で持ちきりだ。毛のない個体をモノにしようとみんなやってきて、最終的に何人が交尾に成功することとなる(当時は結婚なんてなかった)。

すると、肩の部分に毛のない遺伝子を受け継いだ子が生まれる。またみんな興奮だ。結果、肩に毛のないのが増える。やがて、数千年後にはそれが当たり前になってしまう。もう誰もそそられない。

そんなときだ、今度はほっぺに毛のない個体が出現する。

私たちはもうその部分に釘付け、大興奮だ。その結果、今度は肩に加えてほっぺに毛がない変種が増えることになる。

こんなふうにして私たちは、つまり、肩、ほっぺ、その次は背中、腕、腿、とだんだんと毛むくじゃらを脱していく。やがてついに、必要最低限な部分以外は無毛の個体が登場することとなる。

はじめは熱狂と興奮だ。大歓声も上がってる。だが、数十世代後には無毛すら当たり前になる。となると、もう無関心もいいとこだ。ピクリともしない。あんまりご無沙汰すぎて交尾の仕方も忘れてしまう。このままでは人類が滅びる……人類の危機だ。

そのときだ、一陣の風が吹いて、葉っぱが私たちの隠部を覆った。なんだ? 私たちは顔を見合わせ、互いの隠された部分を見る。おお、このとき生じた情欲のほむらは、人類最初の火の使用といってもいいだろう。

「脱毛」から「隠す」へ。人類最大の転換がまさに生じたのだ。そして、このとき以来、私たちは服というものを着るようになった。

ときどきインドかどこかで全身毛だらけの人が見つかると、私たちは先祖返りだと物知り顔にいう。しかし、それをいうなら、現代の私たちが年じゅう脱毛のことを考え、電車内の広告を興味深く眺め、エステ通いに精を出すのも、体毛が抜けるたびに興奮していた時代のノスタルジアでなくてなんだろうか。

苦い文学

老害と呼ばないで

日本の若者の皆様

拝啓  早春の候、ますますご健勝のこととお慶び申し上げます。

高齢化が進むこの日本で、私ども老人は近頃、生きるのに肩身狭い思いすることしばしばでございます。

と申しますのも、「老害」などという言葉が生まれたせいで、私どもがすることなすことすべて「老害」と片付けられ、罵られ、嘲られるからでございます。

この「老害」なる言葉、私どもにとってはまったく慮外なるものでございまして、はなはだ不正確にして、私どもの尊厳をいたく傷つけ、踏みにじるものなのです。

なぜ、私どもがこの言葉に反対するかと言いますと、それは私どもが老害などではまったくないからでございます。

思い起こせば、私どもは生まれた時は、嬰害でありました。それから幼害、少害、青害、若害と進み、大人となってからは成害、壮害、中害をへて、老境に達したのであります。

じつに私どもは筋金入りの害、害そのもの、生き害なのでございます。それを、現在の害のみを取り上げて「老害」などと軽々なる物言いをされるのは、はなはだ心外であります。

まるで老人になる前は、有益なことばかりしていたようではありませんか。いや、それどころか、これまで生涯せっせと為してきた数々の害を否定されたような気がするのです。じつに悔しく、切ないのでございます。

若い皆様におかれましては、なにとぞ私どもの切なる願いをご斟酌の上、この「老害」なる不当な言葉を使用なさらぬようご配慮を切にお願い申し上げる次第です。

敬具

日本の老人有志一同

苦い文学

生首寿司

近頃、世間で問題になっているいわゆる「寿司テロ」は、やるほうが悪いのはもちろんだとしても、人件費削減、店舗大型化、経営合理化による「客の人格軽視」にも原因があろう。

提供するほうが客などいないかのようにふるまいたがるのだから、「なにしてもいいのだ」と思う客も出てこようというものだ。

とはいっても、昔のようなこぢんまりとした寿司屋に戻ることはできないだろうから、もう、回転レーンに生首を乗せて巡回させるほかないのではないか。

人間はやはり人の目を気にするものだから、これは効果的だ。

生首は本物でもいいのだが、経費もバカにならない。だから、SiriとかAlexaとかの生首版でもいい。目がキョロキョロと客を見つめるようになっている。というか客から目を離さない。近づくあたりから始まって、遠ざかって向きを変えるぎりぎりまでじーっと睨んでるのだ。カメラが仕込まれているのはいうまでもない。

寿司をどうやって取るかというと、客に近づくと口を大きく開ける。舌の上に寿司とか味噌汁とかが乗せられている。客が取るときに、舌が指をペロペロッと舐めるのはちょっとした警告だ。

《わかってるだろうな、やるなよ》

だが、真に受ける必要はない。その証拠に生首がウィンクしている。意外に愛嬌たっぷりなのだ。

注文だって簡単だ。生首に向かってこう言うだけだ。

「Hey Taisho、マグロとハマチと茶碗蒸しとパフェ、お願い」

「はい、マグロとハマチと茶碗蒸しとパフェをシャッフル再生します」と口をもごもごしだす。

なにが出てくるか知れたもんじゃないが……

苦い文学

調剤薬局

この世で一番、ハラハラさせられる場所は、調剤薬局ではないだろうか。

もっとも、昔はそうではなかった。処方箋を渡して、待っていれば薬をもらえたのだ。

でも、今は違う。薬がもらえるかどうか、ヒヤヒヤしなくてはならない。もちろん、薬は絶対にもらえる。だが、薬局の人は、あの手この手で私たちを不安にさせるのだ。

まず、お薬手帳だ。これは薬物の王国に入るためのパスポートだ。これを忘れた病人は、のちのち薬の名前の書かれたシールを額に貼られて追放されることとなる。

そして、処方箋を出してからの待ち時間がいかに精神をむしばむかについては何も言うまい。瞑想と反省あるのみだ。

さて、ようやく薬局の人が私たちをカウンターに呼ぶ。薬の準備ができたのだ。

「以前と同じお薬ですね。どうです。だいぶ良くなりましたか」

これだ、これにどう答えるか。私たちは悩みに悩んだすえ、答える。

「ええ、おかげさまで」

「ではもう薬はいりませんね」 こう来かねないのだ。では、逆ならどうだろうか。

「以前と同じお薬ですね。どうです。だいぶ良くなりましたか」

「まだちょっと……」

「あら。じゃあ、この薬はやめときましょう」

繰り返すが、薬は絶対にもらえる。だが、それまでに私たちはいくつもの試練を乗り越えなくてはならない。一刻も早く家に帰って寝たい病人にとってはつらい。

しかも、薬が手渡されても安心してはいけない。うっかり喜んだりしたら、これは詐病に違いないと、パッと取り上げられる。つらそうにしててもおんなじだ。やっぱり取り上げられる。つらそうにしながら、足取りの軽やかさで微調整しつつドアに向かうのがいいだろう。

そんなこんなで、薬局を出たときには、もっと病人になっている。