散文

ヘンリー・ジェイムズの怪談

見えるはずのないものが見えたとき、その経験は人間の心理にどのような微妙な陰影を投げかけるのだろうか。夏だから、というわけではないが、私の身に実際に起きた怖い話をひとつさせてほしい。

私はといえば、昔から読みもしないのに本を買いこんでしまう悪癖があった。おかげで、本棚には本がぎっしり詰め込まれ、どこにどんな本があるのかもわからないありさまだ。だが、後になってある本が必要になったとき、かなりの確率で本棚に見つかるので、買っておいてよかったということがいくどもあり、やめられないのだった。

このあいだも、英語を勉強しようと急に思いたった私は、本棚に埋もれた英語の小説を掘り出していた。すると、黒いカバーでお馴染みの「Library of America」版のヘンリー・ジェイムズの長編小説集が出てきた。The Ambassadors と The Golden Bowl と The Outcry が入っているものだ(Henry James: Novels 1903-1911, LOA #215)。私は The Ambassadors が読みたかったので、購入しておいてくれた過去の自分に感謝しながら、他の英語の本とまとめて本棚に押し込んだ。

その翌日、本格的に読むわけではないが、少し英語の文章を見てみたいと思って、私は The Ambassadors の入ったあの本を本棚で探した。が、どこを探しても出てこない。「あれ、確かにあったのに……」と本棚の奥へ手を伸ばすと、黒い表紙の「Library of America」が出てきた。

ヘンリー・ジェイムズの長編小説集だ。だが、The Sacred Fount と The Wings of the Dove が入っている別の巻(Henry James: Novels 1901-1902, LOA #162)だった。

「ということは」と私は考えた。「後期の三大作品、『鳩の翼』『使者たち』『金色の盃』の原書が我が書架には揃っているわけだ」

あとは例の一冊を見つけるだけだ、と本棚をくまなく探すも、肝心の『使者たち』の巻(LOA #215)は出てこない。私は不意にイヤな気分がしてきた。パソコンを開き、Amazon のサイトに向かう。購入履歴のページに行き、「Henry James」と検索した。画面を見て私は言葉を失った。履歴には『鳩の翼』の巻(LOA #162)しかなかった。

私が数日前、自分の本棚に見つけたあの Henry James: Novels 1903-1911 (LOA #215): The Ambassadors / The Golden Bowl / The Outcry (Library of America Complete Novels of Henry James), ISBN 978-1598530919 は、いったい……?

散文

笑い話の解説(終)

最後のポイントは、チュニジアの教育制度に関わることだが、これについては、baqarat-u-n「ある一頭の雌牛が」の -tun ほど自信を持っていうことはできない。なので、少しいい加減だ。

チュニジアはかつてフランスの植民地で、その時代はフランス語のほうが重要で、標準アラビア語の優先度は低かった。また、昔の日本でもそうだったように、学校に行くことは一般的ではなく、読み書きのできない大人も多かった。

しかし、一九五六年にフランスから独立すると、初代大統領となったハビーブ・ブールギーバ(ブルギバ)は西欧風の教育制度を導入した。これにより標準アラビア語が小学校でも教えられるようになった。もっとも、正確な時期は私にはわからないが。

私がこれから(ようやく)紹介する笑い話の舞台は、すでに言ったように、南部チュニジアのターウジュートという村だ。これを教えてくれた同村出身のSさんによれば、彼の子どものころの話だというから、一九六〇年代半ばごろのことのようだ。

ターウジュート村は、チュニジアでも数少ないベルベル語が残る村で、今は話者数は少なくなっているが、一九六〇年代にはもっと活発に話されていたことだろう。そこに、政府のお達しにより小学校ができ、標準アラビア語が教えられることになった。

学ぶのは小学生ばかりではない。Sさんによれば、読み書きのできない大人たちも子どもと机を並べて勉強したそうだ。先生は村の外から来た人で、ベルベル語はわからない。さてここから笑い話が始まる。


黒板に雌牛の絵が貼られている。先生が、子どもたち(と大人たち)の前でそれを指差し、ひとりの子どもに標準アラビア語で問いかける。

「マー・ハージヒ(maː haːðihi、これはなんですか)」

子どもは大まじめに答える。

「フーナーサトゥン(fuːnaːsa-tun)」


かわいらしい子どもの間違いだが、これを笑い話として今も語り継いでいるターウジュート村の人々も面白い。そして、チュニジアの中でもターウジュートという小さな村でしか通用しない笑い話について長々と書いてきた結果、もうあまり面白くなくなってきている私も、それに付き合ってくれたみなさんも面白い。

散文

笑い話の解説(4)

解説のポイントは残すところあと二つ。今回が山場だ。チュニジアでは標準アラビア語と方言が話されていると以前書いたが、そのほかにも使われている言語がある。代表的なものはフランス語で、標準アラビア語よりも役に立つ場合がある。

だが、この解説で取り上げるのは、チュニジアの限られた場所で使用されている少数言語、ベルベル語だ。アラビア語の遠い遠い親戚だが、まったく別の言語だ。前回出てきた「雌牛」はベルベル語では次のようにいう。

θaːfuːnaːsθ「雌牛」

これは、南チュニジアのターウジュートで使われている形で、ターウジュートはこの笑い話の舞台だ。θ は英語の third の th の音だ。雄牛の形と比べればわかるように、女性形は θ —— θ で挟み込んで作る。

aːfuːnaːs「雄牛」
θ-aːfuːnaːs-θ「雌牛」

このルールが飲み込めた人は、次は s-θ の発音にチャレンジしてほしい。私はできない。

それはともかく、この女性形の作り方が、笑い話の理解に必要だ。だが、ここまでくれば、私が紹介しようとしている笑い話がどんなものか見当のついた人もいるかもしれない。おそらくそれは正しい。なので、それだけじゃないぞ、ということを示すために、私は最後の解説でこの笑い話のかわいさも伝えたいと思う。

散文

笑い話の解説(3)

笑い話を理解するための次のポイントは、標準アラビア語と方言の違いだ。もっとも、説明する私にとってさいわいなことに、笑い話に関係するのは「雌牛」という単語だけだ。

標準アラビア語では「雌牛」は baqara という。チュニス方言では bagra だ。あまり大きく違わない。ただし、使い方の点では大いに異なる。標準アラビア語には格変化がある。格というのは、日本語の助詞「〜が」「〜を」「〜の」の役割に似たもので、この役割に合わせて語尾が変化する。具体的には次のとおり。

baqarat-u-n「ある一頭の雌牛が」
baqarat-a-n「ある一頭の雌牛を」
baqarat-i-n「ある一頭の雌牛の」

ここで「〜が」「〜を」「〜の」の違いに対応しているのが -u、-a、-i だ。末尾の -n はここでは「ある」に対応し、英語の不定冠詞の a に似ている。ちなみに方言では「〜が」だろうが「〜を」だろうがなんだろうが、いつも bagra だ。つまり格変化はない。

なお、この格変化は、アラビア語を学ぶ気のない人は覚える必要はない。また、アラビア語を学びたいと思っている人も覚える必要はない。なぜなら、アラビア語入門の最初の授業で学ぶことだから。-un が、いかにも標準アラビア語らしい語尾だということがわかれば十分。

だが、もうひとつ大事なポイントがある。baqara の後にいきなり出現した t だ。これは、この名詞の後に格語尾がついたり、別の名詞が続いたりすると出てくるものだ。この t にはいくつか意味があるが、ここでは女性名詞の印だとしておくと、次のポイントに進みやすくなる。

なお、この t は、方言の bagra にも隠れている。とはいえ、こっちのほうは笑い話には関係はない。

散文

笑い話の解説(2)

笑い話のための解説を書くと言ったが、実のところそれすらも不可能のように思われてきた。翻訳は原理的に不可能だというが、それと同じだ。しかし、私は特殊な人間ではない。私がわかることは、誰でもわかることだ。なので、完全な解説は不可能であるにしても、私がわかった程度には解説できる。

まず、チュニジアの言語状況だ。チュニジアではアラビア語が使われている。だが、アラビア語といっても、いろいろある。チュニジアの人々が普段使っているのは、一般にアラビア語の方言と呼ばれている言葉だ。いっぽう、標準アラビア語も使われている。これは一般的な書き言葉として使用されている。また、政治や宗教、メディアなどでは話し言葉としても用いられている。

標準アラビア語は、コーランの時代から受け継がれてきた言語で、いわば古典語だ。日本語でも話し言葉と書き言葉の違いはあるが、その差はそれほど大きくはない。標準アラビア語と方言の関係は、日本語に当てはめるならば、江戸時代の候文と現代の話し言葉の関係に似ている。日本語を話せるからといって、候文をすらすら読んだり書いたりはできないように、アラビア語方言を話せるからといって、標準アラビア語の読み書きが簡単だとはかぎらない。だから、ちょうど日本の子どもたちが学校で古典や漢文を学ぶように、チュニジアの子どもたちは、小学校から標準アラビア語を学ぶ。

ただし、日本では平安時代の言葉や漢文読み下し文で話している人はいない。いや、いるかもしれないが、あまり近寄りたくはない。しかし、標準アラビア語は違う。チュニジアでは、ニュースでは標準アラビア語で話しているし、新聞も出版物も標準アラビア語で書かれている。しかし、普通のチュニジア人が街角や家庭で標準アラビア語で会話をすることはまずない。日常会話は方言でないとおかしい。

こんなふうに、ある社会で二つの言葉が使われ、それぞれの使用場面がはっきり分かれている状況を、ダイグロシアと呼ぶ。笑い話の解説の最初のポイントが、このダイグロシアだ。ただ、この用語自体は、笑いの妨げになるので、すぐに忘れていい。

散文

笑い話の解説(1)

昔、子どものころ読んだジョークにこんなものがあった。

「ソビエトにおけるポルノの解禁はいつか?」

党指導部「段階的に進んでいる。すでにレーニンは帽子をとって演説を行っている」

正確には覚えていないがこんなものだったと思う。このジョークはそれほど難しいものではないが、それでもソビエトの権威主義的な体制、レーニンのこと、そしてそのヘアスタイル(もしくはその不在)について知っていなくてはならない。

ジョークというものは短いから、そのぶん、聞く方が文脈や前提となる知識を共有している必要がある。そうした共有がない場合に解説してしまうと、面白くなくなる。

私は先月チュニジアに滞在したときに、きわめて面白い笑い話を聞いた。そしてこの笑い話を人に話したくてしかたがない。だが、笑い話もジョークと同じで、その出来事に関係する知識がなくては笑えない。ここにその笑い話をそのまま書いてもいいのだが、それで笑える人はまずいないだろう。

だから、私は問題の笑い話を書く前に、あらかじめいくつか大事なことを書いておこうと思っている。もちろん、こうした解説によって笑い話が死ぬことはわかっている。笑い話やジョークというのは学びがあってはいけない。すでに学び、当然だと思っていることを揺さぶったり壊したりするのが、ジョークであり笑い話だ。

「ははあ、おかげさまでレーニンが禿頭だとはじめて知りました」などと感心されては笑えない。学びや感心はジョークの敵なのだ。

だから、私がこれから書く解説も、笑いにとっては利敵行為だ。なのでむしろこう言いたいくらいだ。解説を読んで、それから数週間後、もう解説をなかば忘れかけたころに笑い話のほうを読んでほしい、と。そうすれば笑えるかもしれない。そんなことをする人はいないだろうが、それくらい私は誰かにこの笑い話を楽しんでほしいのだ。

散文

美魔女と地頭

美魔女というのは「年齢を重ねても美しい女性」のことで、しばらく前から使われるようになった言葉だ。

日本語には「美人」とか「美女」とかの言葉があるのに、どうして「美魔女」という言葉が存在するのだろうか。美しければみな美女でいいではないか。そうならないのは、最初に「年齢を重ねても美しい女性」と書いたように、美魔女という言葉には「美しさは本来若い人のもの」という前提があるからだ。

私たち日本人は、ある程度の年齢以上の女性に美しさがあるとき、そこに「若くないにもかかわらず美しさを手に入れる魔力」が働いていると想像するのだ。

もうひとつ似た言葉に「地頭」がある。「地頭がいい」というのは、その人本来が持っている頭のよさのことをいうようだ。それならば「頭がいい」で十分ではないか、という気もするが、そうはならない。というのも、「地頭がいい」という言葉が前提としているのは、「学校では評価されない頭のよさがあり、それは単に頭がよいということよりもずっといいことだ」ということだからだ。

そんなわけで、「地頭がいい」と口にすることは、「学校なんかクソ喰らえ」と叫ぶのに似ている。私たちはみな学校に苦しめられてきたから、そう言いたくなるのもわかる。

だが、人間の知性にはいろいろなよさがあっていい。それに、学校の評価に言いたいことがあるからといって、それを否定するほどでもない。学校が必要な人は世界にたくさんいるし、学校だって私たちが卒業したときのままではない。常に変わり続けている。

要するに、「美魔女」にしても「地頭」にしても、これらの言葉が前提としているのは、非合理的な考え方だ。つまり「美魔女」の場合は若さを美しさと結びつけ、「地頭」の場合は人間の頭のよさを単純化し過ぎている。こうした非合理な思考は、いわば魔術的だ。私たちはこの魔術を使って「美魔女」と「地頭のいい人」を出現させたのだ。

だから、こうした魔術が解かれたとき、美魔女も地頭のいい人も、ちょうど御伽話のように、ただの美人と頭のいい人に戻るにちがいない。

散文

地獄の言語学入門(15)

私たちの政治犯を驚かせるのは、その新たな看守が、別の基準にしたがってグループ分けをしていることだ。

これをA’グループとB’グループとしよう。そしてやはりB’グループのほうが危険なのだ。

はじめ、政治犯はこれも弁別特徴が賄賂であろうと推定した。そこで、こっそりと看守に近づいて硬貨を一枚握らせる。猛烈なビンタで弾き飛ばされた。「次に同じことをしたら独房行きだぞ!」と警告された。政治犯は鼻血まみれになりながら退散する。賄賂ではないのだ。

それからしばらく獄中音韻論研究の日々だ。この看守はどんな基準で依怙贔屓をしているのか、どうやったらA’グループに入れるのか……そして、ついに見つかる。この看守は暇なときやたらと立派な本を開いているのだ。こっそり近くに寄って何を読んでいるのか覗き見る。宗教書だ。

政治犯はその看守の目の届くところに佇んだ。そして、小声で、だが聞こえるように、祈りの文句を繰り返し、それっぽく礼拝してみせた。

「おお!」と看守は声を上げ、思わず祈った。この瞬間から、政治犯はA’グループのほうに振り分けられることとなった。弁別特徴は祈りだったのだ。

私ははじめこの看守が中国人かもしれないと示唆した。監獄論的には看守はどの国の、いやどの言語の話者でもいい。しかし、音韻論的には、話の流れからすると、中国語話者、いや、韓国語話者や、ビルマ語話者がふさわしい。

というのも、これらの言語は、日本語のような有声・無声という弁別特徴にこだわらず、別の特徴によって区別するのだから。つまり、中国語や韓国語などでは、有声・無声よりも、有気・無気という別の対立関係のほうが重要なのだ。

有気とは子音を出した後に一瞬の気音(呼気)が後続する音のことだ。無気は逆にこの気音がない。中国語などでは、この気音の有無で語が区別される。これに対し、日本語はそうではない。t の後に気音が続こうと続くまいと、タイヤはタイヤだ。

この音韻論的思考のおかげで、A’グループに仲間入りした私たちの政治犯は、軽作業をこなしながら考える。

「あの看守は賄賂の有無で囚人を区別したが、この看守は祈りの有無でそうしている。では、どちらが良い看守だろうか? 音韻論的には弁別特徴にいいも悪いもない。だが、賄賂は不正なのに対して、祈りは善だ……」

看守論に耽る政治犯の手が止まった。めざとく見つけた看守が、分厚い宗教書でぶちのめした。

散文

義太夫協会フリーマーケット

義太夫協会がフリーマーケットを開催するという知らせを見たので、行ってみることにした。「義太夫節の床本など義太夫節に因んだもの、和のアイテムを大放出」とある。

床本というのは義太夫節の脚本で、太夫はこれを前に広げて語る。義太夫文字という独特な書体で本文が書かれ、その傍に朱筆で記号が書いてある。

一般に読める浄瑠璃の本はこの床本を翻刻したものだ。私は初めて読んだとき、本文の傍に小文字で記されたこれら奇妙な記号に驚いたものだった。解説を読んで、これらの記号が節章と呼ばれ、語り方や三味線の演奏の指示だと知った。そして、当時、文楽を見たことも、義太夫節も聞いたこともなかった私は、浄瑠璃の本文と節章をデータにして、パソコンに入力すれば勝手に義太夫節を演奏するのだろうと思っていた。

その後、私はこの節章をもっと理解しようと思い、義太夫節の語りと三味線を実際に学んだ。そのおかげでさいわいにも、過てる機械論的義太夫節観を脱することができた。だが、それと同時に、この節章を本当の意味で読めるようになるには相当の訓練が必要だということも分かった。それにはやはり床本をじっくり観察することから始めなければならない。

そんなわけで私はフリーマーケットに行き、三冊ほど床本を買った。大正から昭和前期にかけて、太夫が実際に書写し使ったものだ。それ以上の由来は私にはわからないが、和紙は今では高価でなかなか手に入らないものだそうだ。

パラパラめくってみると、朱文字の節章のほかに、鉛筆や色鉛筆で印が書かれていたり、太夫自らの書き込みなどあって興味深い。また、本文に白い紙が貼られている箇所もあるが、これは省略された部分だろう。私はこれを資料として活用するレベルにはないが、見ていれば面白い発見もあるかもしれない。

ところで、フリーマーケットは、赤坂見附の豊川稲荷文化会館の三階の畳敷の部屋で開催された。ここは義太夫教室も開催されていたところで、昨年度は毎週のように通ったものだった。

去年の夏、サンダル履きで教室に行き、裸足で畳にあがったら、助手の先生に「畳が痛むので靴下を履いてください」とやんわりと注意された。久しぶりにその畳敷の会場に行く今日、裸足にサンダル履きで来てしまった私は、途中でそのことに気がつき、慌てて会場近くの百円ショップで靴下を買って履いた。

靴下一足分だけは成長したということだろう。

散文

地獄の言語学入門(14)

ここでひとつ似たような問題に取り組もう。

日本語のタイヤとダイヤの違いだ。この二つはいったいなにが違うのだろうか? 正解した人全員に、ダイヤが好きなだけ手に入る秘密の方法をプレゼントしよう。

どうかな? わかったかな?

硬さ? 素材? ちょっと違うな……そうそう! 「タ」と「ダ」が違うのだ。

では「タ」と「ダ」の違いは? 音声記号で書くと [t] と [d] で、両方とも歯茎破裂音だ。なにが違うというと、声帯の振動があるかないか。[t] は無声歯茎破裂音、[d] は有声歯茎破裂音だ。

つまり、「タ」と「ダ」、[t] と[d] の違いは無声か有声かなのだ。そして、この違いは重大だ。なぜなら日本語話者は声帯の震えによって、タイヤとダイヤを区別しているのだから。

有声・無声というこの区別は、日本語では大きな役割を担っている。金と銀([k/g])、パリとバリ([p/b])、麻と痣([s/z])などなど、無声・有声を入れ替えただけで意味が違ってしまう。

このように意味の違いを引き起こす特徴、この場合だと無声・有声という音声的特徴を弁別特徴と呼ぶ。そして、この弁別特徴によって話者の頭の中で区別される「音」が音素だ。すなわち、タイヤとダイヤの例からは /t/, /d/ の二種の音素が立てられることになる。

ここで獄中に戻ろう。私たちの政治犯がAグループとBグループの弁別特徴に気がつきえたのは、明らかに音韻論への深い理解があったからこそなのだ。そして、それはこの政治犯にとって幸いであった。なぜなら、声帯振動の有無はタイヤとダイヤを分けるにすぎないが、賄賂の有無は生死を分けるから。

しかし、ここでこの政治犯の前に別の看守が立ち塞がる。この看守は……たとえば中国人だ。

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