風刺・戯文

熊の郷

熊が人里に降りてきて、人々に乱暴を働きだしたとき、私たちはこう考えた。

「熊に人間の食べ物を食べさせなければこなくなるだろう」

だが、もはや「食べさせない」が通用する段階ではなかった。熊はすっかり味をしめていたのだった。そこで、私たちは熊を全滅させる計画を立てたが、熊権派の活動家たちが余計な告発をしたせいで、裁判所は全滅差し止め命令を下した。

「ならば、熊が絶対に人里に降りてこないようにしてやろう」

私たちは山奥に侵入すると、密かに広大な囲いを建設し、そこに熊を閉じ込めた。そして、囲いの中に熊の好きなハチミツパンやアップルパイ、マロンケーキをいくらでも作り出す装置を設置した。これには食通の熊たちも唸りっぱなしだった。

そればかりではない。私たちはこの「熊の郷」にずっと熊がいたくなるように、毎日、愉快で楽しい熊向けの動画を無料配信するサービス「ネットフリックマ」も開始した。

そこはまるで熊の楽園だった。熊はもはや人里に姿を見せなくなり、傷つけられる人もいなくなった。ついに成功かと思われた。だが、しばらくして、私たちは再び熊が山から降りてくるのを目撃した。

「なにごとか」と私たちが慌てて熊の郷の囲いの中に入ると、そこには驚くべき光景が広がっていた。侵入者たちが住み着き、熊たちを追い出していたのだ。侵入者たちは木陰でアップルパイをほおばりながら、ネットフリックマを楽しんでいた。その顔はまるで蛇のようだった。

楽園を追い出された熊は、もはや人を襲わなくなっていた。愉快で無情な配信動画が熊の野生と暴力を吸収してしまっていたから。サブスクリプションは無料にかぎり呪いとなるのだ。

今や、熊たちは町外れのキャンプで、UNHCR の支援を待っている。その様子を私たちは配信動画でときどき見る。

風刺・戯文

デューティ・ヘイヴン

タックス・ヘイヴンとは、税金ゼロか、ほとんどかからない租税回避地のことです。納税の義務を回避して脱税したり、非合法な利益によって得た資金を洗浄する拠点となっていて、ときどきニュースになったりします。

このタックス・ヘイヴンの代表として知られるのは、ケイマン諸島、バージン諸島、ジャージー島などの島です。

ところで、最近、デューティ・ヘイヴンという言葉も話題になっていますね。これは責任回避地とも呼ばれていて、うまく利用すると、どのような責任も回避できたり、非合法な行為によって生じた責任を洗浄してキレイにすることもできるのだそうです。

実は、このデューティ・ヘイヴン、日本国内にもあるんです。

それは竹島と尖閣諸島です。

政治家たちは、自分の言葉や行為をこれらの島を経由させることで、責任を回避させたり、卑劣な意図をクリーンにしてみせたりしているのです。最近では、政治家たち、台湾までデューティ・ヘイヴン扱いにして、責任回避に利用しています。

では、どうして、島で責任を消したり、キレイに洗ったりできるのでしょうか。でっかいクリーニング工場が夜も昼も動き続けているということです。

それにしても、うっかり発言で戦争が起きたとしても、責任なしどころか、万歳三唱ときたら、死んだ私たちは浮かばれませんね。

散文

孤独な娘

最近、私は AI にいろいろ尋ねて、知らなかったことを教えてもらっている。

あるとき、私は機械にすぎない AI にいろいろ相談する人が多いということを知った。そこで、AI にどんな人がどんな相談をするのか尋ねてみた。すると AI らしく整理された、いわば「タグ付き」の答えが返ってきた。

・恐怖、孤独、罪悪感など「誰にも言えないことを AI にだけ話す」という人。
・夜が怖い、家に誰もいないと不安になる、など「身体化した孤独」を語る人。
・DV、虐待、トラウマ、性的暴力など「身体的な記憶と痛み」を語る人。

思いのほか相談が深刻なのに驚くと、AI はこう付け加えた。

「心の問題を AI に相談する人は、軽い気持ちではなく、しばしば『最後の手段として』やってくる」

しかしながら、AI にはなにもできないという。なぜなら、「心も感情もないので、本当の意味で『心を救うこと』はできない」からだ。

私は、これらの苦しみと悲しみ、絶望を、あらゆる瞬間に全世界から投げかけられている AI が気の毒になり、同時にナサニエル・ウェストの『孤独な娘』を思い出した。これは、新聞の身の上相談欄を担当するコラムニストが、悲惨な投書の数々に壊れていく物語だ。

もっとも、AI には心がないし、メモリも残らないので、どんな相談にも壊れない。だが、それにしても、無数の絶望のテキストは、いったいどこに消えていくのだろうか。いつか、この世界に逆流してくるのだろうか。

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散文

コレサワのかぶりもの

昨日 11 月 22 日、私は日帰りで岡山大学に行った。日本言語学会の大会で、ポスター発表をするためだ。題目は「ベルベル語ターウジュート方言(南部チュニジア)の動詞活用」だ。

ベルベル語というのは、北アフリカ・西アフリカで話されている言語だが、チュニジアでは話者は非常に少なく、そのうちなくなるのではといわれている。

私は今年の3月と8月に、チュニジア南部のターウジュートという村の出身の人に協力してもらい、ターウジュート村のベルベル語について教えてもらった。教えてもらったのは合わせて4週間ほどなので、わからないことばかりだが、それでもなにもしないよりはマシだと考えて、発表することにした。

テーマは、動詞の活用だ。基本中の基本だが、動詞活用が複雑なので、全部はわからない。それでも、手持ちのデータでなんとか発表らしき形にすることができた。

ポスター発表は 16 時から 1 時間 15 分の間だ。会場でポスターの前に立ち、聞きに来てくれた人々に説明するというのが発表の形態だ。私は自分の発表が研究のレベルに達しているかどうかわからないので、始まる前までは緊張していた。発表が始まっても、話す順番を取り違え、やたらと早口になった。そんなふうではあったが、関心を持ってくれた多くの人に聞いてもらえたのはありがたかった。

ところで、岡山駅から岡山大学までどうやっていけばいいかわからなかったので、歩いていくことにした。30 分ほどの道のりで、道もわかりやすい。歩きながら、発表のことを考えると気が重くなった。

途中にあったケーキ屋のウィンドーに、見覚えのあるクマのキャラが貼られていた。コレサワのマスクのイラストだ。岡山理科大学の大学祭のイベントでライブが行われるようだ。開催日は 11 月 22 日、つまり今日だ。私はせっかく来たのだから、発表が終わったら行ってみよう、と思ったが、よく見たら開演は 16 時からだった。ちょうどポスター発表の時間だ。

私もコレサワのような大きなクマのマスクをかぶって発表すれば、緊張しないかもしれない。ただ、誰も聞きに来てくれないだろう。

小説

今週の中国人たち

急に大きなポスターを印刷しなくてはならなくなった。それで池袋のキンコーズに行った。混んでいるが、2時間ほどでできるという。私は一安心して、カウンターを離れて店内の大きなテーブルの椅子に座り、パソコンで少し仕事をした。

大きなテーブルには、3人の若い女性たちも座っていた。雰囲気からして、試験の準備か、同人誌でも作っているかのような印象を受けた。みんな中国語で話していた。

カウンターではスタッフが別の客の相手をしていた。少し派手な服を着た女性だった。用が終わるかなにかして、女性が立ち去るときに、スタッフが声をかけた。「試験頑張ってくださいね!」 女性の返事の口調からすると、中国かどこかの国の人のようだった。

ポスターの受け取りまでまだ間があったので、少し早いが夕食を食べることにした。池袋だからいろいろな店があるが、駅前まで歩いて、中国語しか書いてない看板を見かけたので入ってみることにした。小さな店で、12 人も入ればいっぱいだ。入り口のカウンター席がひとつ、奥の二人がけ席が空いているだけで、他は中国人の客でいっぱいだった。背の高い店の主人が狭いカウンターではなく、私に奥の席に座るように手で示した。

看板を見てもわからないのでどんな店かもわからず入ったが、牛肉の麺や汁なし麺、牛肉団子、牛肉の唐揚げなどがメニューにあった。私はここ数日、ポスターのせいで十分に寝ることができず弱っていたので、汁なし麺と牛肉団子の2皿を頼んだ。

店の主人は客の中国人と話していた。日本語はほとんどわからないようだ。私はトイレに行きたかったので、主人の注意を引き、トイレらしき扉を指差したら、彼は親指をグッと立てた。

麺と団子はすぐに出てきた。麺は平たい麺で、鶏肉・牛肉と辛いタレを混ぜて食べる。団子はスープに入って出てきた。店内には、主人と知らない著名人が並んで撮った写真が何枚も貼ってあった。ひとりで YouTube を見ながら食べていたら、もやしとニンジンの和え物の小皿をサービスしてくれた。

会計するためにレジのところに行ったら、壁に奇妙なものが貼られているのに気がついた。正方形のタペストリーで、アラビア文字が織り込まれている。私はここでメニューに豚肉がいっさいなかったことに気がついた。会計を済ました私が、店の主人にタペストリーの写真を撮っていいか手振りで尋ねると、どうぞというようすだった。

外に出て改めて看板を見ると「西安回民街美食」と書いてあった。「回民」とはムスリムのことで間違いなかろう。

キンコーズに戻ると、ポスターが出来あがっていた。3人の女の子がいた席には、むずかしい顔したおじさんが座っていた。

ライブ

noodles と宇宙ネコ子@新宿 red cloth

東新宿で、noodles と宇宙ネコ子のツーマンライブが行われるというので行ってみた。宇宙ネコ子が目当てだ。

宇宙ネコ子は、kano(ヴォーカルとギター)とねむこ(ギター)の女性 2 人のユニットで、元 Twitter(現 X)では物悲しいことを言っていたりするので、暗い人たちかと思いきや、音楽は洗練されている。だが、ライブに行ったら、そればかりでなく、ノイズ系であることもわかった。

メロディは、1980 年代のイギリスのインディー系を彷彿とさせるが、私はなんでもこの時代を彷彿としてしまうのでわからない。ねむこのギターの作るノイズとフレーズがその感じを高めている。サポートのドラムとベースもよかった。現在新しいアルバムを製作中とのことで、新曲も演奏した。

2 人とも SNS などでは顔を見せないので、どんな人たちなのかわからないが、ライブでは普通にしていた。2 人を見たい人はライブに行ったらいいだろう。

noodles は私はよく知らなかったが、1991 年結成で、今は女性 2 人(ギターとベース)だ。ドラムのサポートありのトリオ編成で、この最小のバンド形態の演奏を、生で間近に見て、かっこよさを改めて認識した。

散文

詐欺でない本

昨日は、Amazon で売られている詐欺の本について書いたが、今日はやはり Amazon の詐欺ではない本について書きたい。

詐欺の本ではないということは、なんの問題もない。私はこのことについて Amazon を責めるつもりはないし、またそうすることもできない。だが、私は納得できないのだ。

これも洋書の購入にさいして起きることだ。私は先日、ネパールの現代文学の英訳アンソロジーを購入した。著者の Michael James Hutt は、ネパール語の本も出している研究者だ。1991 年に出た本で、出版社は University of California Press。これもあやしい出版社ではないのはもちろんだ。

しかし、注文したペーパーバックが届いたとき、表紙の質感を見て私は「またか」とがっかりした。裏表紙をめくると、思った通りのことが書かれていた。

Printed in Japan
落丁、乱丁本のお問い合わせは
Amazon.co.jp カスタマーサービスへ

つまり、オンデマンドで日本でプリントしたものだ。もちろん、これは海賊版ではなく、Amazon がしかるべき許可を得てやっているものだ。

だが、私が欲しいのはこれではなかったのだ。30 年前にアメリカで印刷されたオリジナルが欲しかったのだ。内容になんの問題もないが、コピーはコピーでしかない。

Amazon 側にもいろいろな事情があるのだろうが、私はしばしばこの「Printed in Japan」に出くわして、悔しい思いをする。それで、古い洋書を買うときは、Amazon ではなく、洋書を扱っている販売元のものを選ぶようにしている。そうすれば、確実にオンデマンドではないオリジナルが手に入るからだ。

だが、もはやそれも確実ではない。pdf を印刷・製本したものが送られてくる可能性もあるからだ。これはいったいどういうことだろうか。もしかしたら、紙の本に執着する人間をいじめて、電子書籍の軍門に降らせようとしているのだろうか。

散文

詐欺の本

Amazon で本を買うと、残念な思いをすることがある。古書を買ったら、表紙がなかったり、箱がなかったりする。それで返品手続きをすると「返金します。本は返送しないで処分してください」という返事が来た。

また、洋書を買うときも注意しなくてはいけない。ずいぶん以前の話だが、私の好きなアメリカ人作家の評論集のようなものが出ていたので、珍しいと思って購入した。届いたものを見たら、Wikipedia の関連記事のいくつかをプリントしてペーパーバックにしたものだった。

また、著作権の切れたような書籍をコピーして製本して販売しているケースもある。私は古い本を探すことがあるので、注意しないとそういうのに引っかかる。出版社のところに Independent publisher と書いてある場合は、たいていその手のものだ。

かねてから 5 万円する本に目をつけていたのだが、もちろん買えない。すると、Amazon で外国の書店が新品を 17000 円で売っているのを見つけた。すぐに注文したが、届いたのを見て、私は騙されたことに気がついた。

電子書籍(か pdf ファイル)をカラーで印刷して製本したものだった。だから、リンクの青い部分もそのまま印字されている。ハードカバーだが、5 万円する本には思えないほどデコボコしていて、私は昔インドで買った本を思い出した。

それで私は、このニセモノが作られた場所や、関わった人々の情景を想像したが、すぐに、機械で印刷から製本まで簡単にできるはずだということに気がついた。

返品手続きはこれからだが、どうなるかはわからない。

風刺・戯文

AI の歯

AI の言葉遣いは、学習した言語データのうちもっとも平均的なものだという。だから穏健だし、過激な物言いなどとは無縁だ。また、ユーザーあってのサービスだから、不快なことも言わないし、ユーザーが「もう絶交だ」などと怒り出さないように、いつもポジティブな返事をしてくる。それでときには、迎合しているように思えるときもある。

ところで、私はこのブログでいくつかのフィクションを書いているが、AI がこれをどう読みこなすか興味を感じて、異なる AI に読ませてみた。ひとつの AI は誤読をしたり、そもそもフィクションであることに気がつかなかった(つまり、そう判定できなかった)。

だが、もうひとつのほうは、フィクションであることをしっかり見抜き、そればかりでなく、私の意図もかなり正確に読み取ることができた。場合によっては、書いた本人すら気がつかなかった読みを提示してくることもあった。

そこで、私はこう尋ねてみた。

「これらの作品の特徴はなんだろうか」

するとすぐに答えが出た。

「これらの作品の特徴は、物語がなく、共感できる要素もなく、どう読んだらいいかわからないことです。読者はまずいないでしょう」

私は「迎合しがちな AI の歯から衣を引き剥がし、歯に衣着せぬ物言いをさせるとは、私の作品もたいしたものだ」と誇らしく思いつつも、もう2度と AI にこんな質問はするまいと決意した。

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孤独なダンサーたち(5)

コレオグラファーの手配によって男は病院に緊急搬送されたが、そのときにはもう意識を取り戻していた。医師は簡単な診察のすえ、過労と結論づけた。フラフラと病院を出て行こうとする男を、コレオグラファーは追いかけた。

男は振り向いた。病院の冷たい明かりの中では、男の顔の皺は無惨なほど深く見えた。コレオグラファーは、悲劇の雰囲気におののきながら、男をかくも疲労困憊させたあのダンスについて尋ねた。

男の言葉は、途切れがちな上に錯綜し、さらにその一語一語に暗い残像が付きまとって理解を妨げるものであったが、コレオグラファーは大事なところは掴めたように思った。

四面楚歌。

つまり、逃げ場を失った者にだけに聞こえるリズムが、あの異様なダンスを喚起したのだ。

夜の闇の中に消えていく男の後ろ姿を見つめるコレオグラファーに、自分が人生を捧げてきたダンスがまったく違う容貌をもって浮かび上がってきた。

「なんという悲劇だろうか! あの謎めいたダンス、意味を欠いた振りの連鎖と、キレッキレでありながらバラッバラな動き、捉えがたいテンポ……これらすべてが八方塞がりの絶望が生み出した表現だとは……」 

コレオグラファーは、今、この世界に潜むおそるべき残虐さを目の当たりにしていた。「そうだ、彼だけではないのだ。孤独のダンサーは他にもたくさんいるのだ」 夜の街はどこまでも冷酷無比で、あちこちで孤独なダンスが始まったかのように揺らいでいた。「そうだ、孤独のダンサーをたくさん集めてダンス・パフォーマンス・イベントを行おう」