散文

みんなの収容生活

 10万円の特別定額給付金が配られることになった。日本人だけでなく、住民基本台帳に記載されていれば、外国人ももらえるという。この「外国人」には難民として認定された人も含まれる。

 では難民として認定されていない在日外国人はどうなるのか。

 例えば、入管に収容されている人や、仮放免で外に出ている人々がそうだ。

 そうした人々は、給付の対象にならないのだという。

 そこで、支援団体が集まって、これらの人々にも10万円給付されるよう、キャンペーンを行なっている。私は個人として署名した。

 いろいろな意見はあろうが、緊急事態宣言下で生活するつらさは一緒だ。

 また、大事なことだが、現在の我々の生活は、入管の収容所の生活と似ていなくもない。被収容者ほどには制限されてはいないものの、かなりの自由が奪われている。また、入管の暮らしと同じく、いつ終わるのかもわからない。

 もっとも我々も愚かではないから、そうした暮らしの中で何らかの楽しみを見つけ、作り出して過ごしている。この「引きこもり」生活のための助言や提案もネットで多く見られる。

 だが、総集編と再放送を繰り返すテレビが徐々に鮮やかさを失っていくように、我々の生活もいつかは色褪せていくかもしれない。そうしたとき、我々はどのように耐え凌ぐことができるだろうか。

 そのヒントを入管の被収容者の経験が与えてくれる。ほとんど自由を奪われた中、出る希望もほとんどない中で生き抜いてきた人々の経験が、我々に役に立たないことがあろうか。

 入管に収容されていた人々の経験は、我々の社会の財産でもある。これを有効に生かさない手はない。

 そう思うと、10万円ぐらい渡したって、惜しいどころか、お車代だって追加で出したいぐらいで…… 

散文

夜が明けたら

 コロナウイルスの蔓延により、小松左京の『復活の日』に関心が集まっているという。細菌によって人類が滅びかける話だ。

 しかし、この状況で小松左京といえば、私が思い出すのは「夜が明けたら」という短編だ。

 この作品では、世界が急に闇に閉ざされ、もう決して朝が来なくなったにもかかわらず、「夜が明けたら」とついつい思ってしまう人間の絶望が描かれる。我々は「コロナが終わったら」と言いつつも、それはもうありえないのではないかとどこかでもう思い始めているが、それと同じだ。

 いつ終わるともしれない自粛生活。これはまた、入管での収容生活にも似ている。もちろん、我々は、家を出ることもできるし、電話も、ネットもある。好きなものを食べ、買うこともできる。だが、入管に収容されている人々のように、これがいつ終わるのか分からないのである。

 この点が刑務所との大きな違いだ。刑務所には刑期がある。だが、入管の収容には、刑期はない。罪を犯して入れられているのではないからだ。だから、出る理由がなくては出られない。そして、その出る理由を決めるのは、入管の誰かで、被収容者ではない。つまり被収容者は自分の運命に対してまったくの無力なのである。

 刑務所の囚人は、頑張れば出られるが、入管の囚人は頑張ろうと頑張るまいと出るのには関係ないのだ。こうした状況で、最低でも1年、長ければ3年以上、収容され続けるのは、どういう気持ちだろうか。どれだけの無慈悲な「夜が明けたら」が繰り返されたことだろうか。

 私はこれらの人々のこうした入管での経験に興味がある。どんなことを考えていたのだろうか。どんなふうに希望を見出したのか。コロナが終わったら、聞きに行こう。いや、終わるのかな……

散文

コロナの決死圏

 牛久に収容されているビルマ人から電話がかかってきた。彼にとってはこれが3度目の収容で、2回目の収容の時から私は彼の身元保証人をしている。

 「今、みんな、仮放免で出てます。早く仮放免の申請お願いします!」

 必死の訴えだ。

 入管が恐れていることは、今、収容所でコロナが発生して、ニュースになることだ。だから、「コロナになるなら外でね」というわけで、仮放免許可を積極的に出しているという可能性はある。また、被収容者も支援団体も入管内での密を危惧して働きかけている。

 牛久の仮放免許可は出るのが遅いし、一発で出ることはないので、申請はまだいいやと思っていた私はさっそく、書類の作成に取り掛かった。作成といっても、申請書に2カ所ほど署名して、仮放免理由書を書いて(といっても文面は使い回し)、市役所に住民票と課税証明と納税証明を取りに行くだけだ。

 だが、その市役所が人で溢れていた。

 職員を少なくしているため対応しきれてないのだ。人々は不機嫌さと不安の混じり合った表情で受付の前で立ち尽くしている。そこに、マスクをしていないジジイがふらふらと紛れ込んでくる。ソーシャル・ディスタンスなどあざ笑うかような太々しさだ。緊張感がぐんと高まる。イライラも! もう一触即発だ!

 こんな危機をものともせず、決死の覚悟で集めた書類だ。ぜひ一発で許可をお願いしたい。

旅・観察

現代のフダーウィー:チュニジアの語り部(7)

 ビデオは、騒がしい場所で撮影したこともあり、聞き取りにくいところもあった。またそもそもわからない言葉もたくさんあった。そこで、今年の2月にスーサを訪問する時は、このビデオのインタビューや語りについてシェドリーさんに解説してもらおうと考えていた。

 2月21日に私はチュニスに着くと、シェドリーさんの友人のJさんにmessengerで連絡を取った。というのも、シェドリーさんはFacebookなどを使わないので。すると、Jさんからこんな返事が返ってきた。

 「シェドリーさんは亡くなりました」

 かくして、昨年の夏の映像記録はかけがえのないものとなったのであった。

 私はスーサに着くと、そのビデオをコピーしてJさんに渡した。映像編集の仕事をしているJさんは、ビデオを編集して、フダーウィーのフェスティバルで上映してくれるとのことだった。

 シェルギーさんのお墓に行きたいと思ったが、スーサの町から少し離れたところにあるというので、今回はやめにした。

 さて、他にフダーウィーの活動をしている方に会いたかったが、Jさんによれば今はスーサにはいないとのこと。そこで彼が紹介してくれたのが、フェスティバルの運営に関わっているLさんというスーサ文化委員会の方だった。Lさんは忙しいなか時間を割いて、フェステバルについて話してくれた。フェスティバルは、例年5月に行われるが、今年は、4月末に開催する予定だという。

 私はLさんにこう言ってみた。

 「僕もフダーウィーとして参加できませんか」

 ちょっと無謀な提案だったが、ありがたいことに快諾してくれた。フダーウィーのことを知りたいのなら、自分でやってみなくては、だ。語るのは日本の民話、そのチュニス方言版ということになった。そこで、今後の手はずなどを決めて、私はスーサを発ったのだった。

 しかし、このコロナだ。4月にチュニジアどころではなくなった。

 はなはだ精彩を欠く私の肩書にフダーウィーが加わるのはまだまだ先になるもようで、それまでは手洗い・うがい・換気に専念するほかあるまい。

(おしまい)

スーサのおしゃれなカフェ、Dar Kmar。ここもフェスティバル中はフダーウィーの舞台となる。
旅・観察

現代のフダーウィー:チュニジアの語り部(6)

 そこで、去年の夏のチュニジア調査のさい、スーサに行ってみることにした。スーサは、チュニジア第3の規模の都市で、それほど大きくはないが、やはり歴史のある都市だ。インターネットの記事によると、スーサの図書館がフェスティバルの運営に関わっているようだった。そこで、地図を見ながら図書館に行ってみることにした。だが、目当ての場所に行ってみても工事中の建物があるばかりでなにもない。しばらく歩いてから、近くのカフェで尋ねてみると、まさしくその工事中の建物が図書館なのだった。改築中というわけだ。

 これで手掛かりが失われたわけだが、歩き回っている最中に、スーサ文化委員会の建物を見つけたので、そこに行ってみることにした。

 建物に入ると、受付らしき人がいる。フダーウィーのフェスティバルとフダーウィーのことを尋ねる。受付の人がフェスティバルについて答え始めると、どこからか1人の年配の男性がふらりと現れて私のそばに立った。なんだめんどくさいジジイが出てきたな、と思う私に、受付の人はこういったのだった。

 「彼もフダーウィーだよ」

 私がフダーウィーに会ったのはこうした次第であった。

 この人はウェルギー・シェドリー(Ouerghy Chedly)という方で、俳優をされているとのことだった。つまり、俳優としての活動の一環として語り部としても活躍されているのであり、伝統的なフダーウィーとは異なる。

 しかし、それはちょうど遠野で語り部として活動されている方が昔の語り部とは異なるのと同じだ。つまり、一度廃れかけた語り部の文化を復興しようという世界的な潮流の中で捉えなくてはならない。

 そして、スーサで毎年開催されているフダーウィーのフェスティバルも、世界の語りの文化の交流発展の場として企画されたものとのことだった。期間中は、アラブ世界の語り部のみならず、ヨーロッパの語り部が、スーサの様々な場所でその話芸を披露する。

 また、語りに関するシンポジウムも開催され、研究発表もあるという。このフェスティバルは、北アフリカでは最初のもので、これまでに19回開催されてきた(ちなみに、ジャスミン革命で騒然としていた2011年には開催されなかったという)。

 さて、その翌日の2019年8月14日、シェドリーさんと彼の行きつけのカフェで会うことになり、その日の午前と、8月16日の午前、彼の友人たちに囲まれながら、フダーウィーについてお話を伺い、また、いくつかの物語をビデオで記録することができた。(つづく)

インタビュー中のシェドリーさん。

旅・観察

現代のフダーウィー:チュニジアの語り部(5)

 アブデルアズィーズ・アルアルウィーというチュニジア人のジャーナリスト・作家がいる。彼は1930年代のチュニジアの近代文学運動(タハト・スール)グループのメンバーの1人であり、チュニジア独立後は、チュニジアのラジオのパーソナリティとして活躍した。特に、1950年代から60年代にかけてラジオ番組でチュニス方言で語った物語群は有名で、これらは彼が自ら聞いたり集めたりしたチュニジアの伝統的な物語からなる。彼の死後、これらの物語を採録した4巻本が出版されたほか、テレビドラマ化されたりし、また現在でもYoutubeなどでそのラジオ音源を聴くことができる。

 これらの物語がどのようなものかというと、子ども向けのおとぎ話もあるにはあるが、その多くが、大人向けの寓話や人情話、笑い話、宗教説話、謎解き物語、歴史物、現代物などで占められている。チュニジアの人々の暮らしや考えを知るためには格好の資料だが、なによりも読んでいてとにかく面白い。

 チュニジアには、かつてはフダーウィーという伝統的な語り部がいた。フダーウィーは、市の立つ日やお祭りの日、あるいはカフェで様々な物語を語るのをなりわいとしていた。現代人であるアルアルウィーは、職業的なフダーウィーではなかったが、彼の活動はこうした伝統に根ざしたものだ。

 チュニジアの伝統的な物語の出版は、アラビア語よりもむしろ、フランス語で多くなされており、その中にもいくつかフダーウィーに関する記述を見出すことができる。フダーウィーは、ラジオやテレビの普及により、姿を消していったとも書かれている。

 私はこのフダーウィーというものに会ってみたくなった。姿を消したというが、遠い田舎でひっそり語り続けているかもしれない。そこで、調査に協力してくれるチュニジア人に、今もフダーウィーがいるかどうか聞いてみた。その答えはといえば、

 「いないね。アルアルウィーがフダーウィーを殺したのさ」

 しかし、この「Video killed the radio star」ばりの言葉だって本当かどうか知れたものではない。私はさらにインターネットでいろいろ調べてみた。すると、チュニスから150キロほど離れたスーサという町で、毎年フダーウィーのフェスティバルが行われているというではないか。(つづく)

アルアルウィー物語集第1巻表紙(第2版)
旅・観察

現代のフダーウィー:チュニジアの語り部(4)

 イスラーム以後の歴史については、私はいくつかの王朝が入れ替わったことぐらいしかわからないが、ハフス朝のイブン・ハルドゥーン(14世紀)とその著書『歴史序説』ぐらいは知っている。チュニス生まれのこの大学者の銅像は、チュニスにきた人なら必ず目にするものの一つだ。もっとも最近は、その前に「I♡TUNIS」という無粋なモニュメントができて、その存在感は弱化しつつあるようだ。

かすむイブン・ハルドゥーン像

 この時期のチュニジアでもうひとつ大事なことがある。アル・アンダルース文化の流入だ。アラブ人はイベリア半島をイスラーム化し、壮麗な文化を築き上げたが、レコンキスタにより15世アルハンブラ宮殿で知られるグラナダが陥落すると、多くのスペインのイスラーム教徒たちが北アフリカに逃亡した。チュニジアもそうで、音楽や建築などさまざまなアル・アンダルース文化がこれらの「難民」たちによってもたらされた。

 難民といえば、もっと古い難民たちも北アフリカにはいる。それはユダヤ人で、かなり古い時代からディアスポラとして北アフリカの諸都市で暮らしてきた。これらの人々も、独自のアラビア語方言の話者で、チュニスのユダヤ人方言に関する研究書も出版されている。

 ハフス朝の後、チュニジアはオスマン帝国の支配下に入り、その結果、多くのトルコ語の語彙がチュニジアの言語に入ることとなった。19世紀後半からはフランスの植民地となり、これは1956年のチュニジア独立まで続いた。フランス語は、宗教以外のあらゆる分野、すなわち行政、文化、教育、出版などで用いられ、チュニジアの言語生活に大きな影響を与えた。それは現在でもそうで、フランス語が流暢に話せることは、あるレベル以上の社会生活を送るためには必須の能力となっている。

 ここで、これまで述べたことをまとめると、チュニジアの言語と文化は、単純に言えば、アラビア語とイスラームであるが、より詳細に見ると、それらは、ベルベル、フェニキア、ローマ、地中海(イタリア、ギリシャ、スペイン)、トルコ文化、フランス文化の影響の上に成立している、長い歴史と多様な背景を持つ文化であることがわかる。

 こうした文化的深みと多様性は、口承文芸の世界にも反映されていて、スペインやフランスの民話との類話もあれば、イソップ物語に似た動物物語もある。千一夜物語でおなじみのハールーン・アッラシードが、いかにもチュニジアらしい舞台背景の中で活躍するといった物語もある。また、ユダヤ人コミュニティで伝承されている物語も多く記録されている。(つづく)

ローマ時代のモザイク(スーサ考古学博物館)
旅・観察

現代のフダーウィー:チュニジアの語り部(3)

 イスラム受容後のチュニジアは、地中海の交易の中心地の一つとして繁栄することになるが、11世紀に、もう一つの大きな事件が起きる。それは、バヌー・ヒラールなどの遊牧民集団の侵入だ。私は歴史についてはわからないので、この事件の背景や影響について言うことはできないが、言語の観点なら少しは言える。

 7世紀にアラブ人がやってきた時、アラブ人は、北アフリカ最初のイスラーム拠点ケロワーンから、各地に都市を作り、広がっていった。そのため、チュニスも、アルジェリア・モロッコの古い都市も始めは似たようなアラビア語を話していたと考えられる。これらの方言は、都市方言(より正確には前ヒラール方言)と言われる。

 しかし、11世紀に侵入してきた遊牧民集団は別のアラビア語の話し手であった。これはベドウィン方言というアラビア語の一種であった。このベドウィン方言と都市方言の対立がアラビア語方言の大きな特徴で、両者の違いをごく大まかにいうと、ベドウィン方言のほうがいろいろと古い特徴を残している。

 さて、これらの遊牧民の侵入の結果、言語についていえば2つの変化が生じた。ひとつは、特にチュニジアで顕著だが、ベルベル人のアラブ化が進んだということだ。もうひとつは、遊牧民と都市住民との間で接触が生じた結果、都市方言がベドウィン方言の影響を受け、変質したことだ。

 しかも、遊牧民集団は複数の部族から成り、そのベドウィン方言も単一ではなかった。そのため、各地の都市方言は、自分たちが接触した遊牧民部族の言語の影響を受けることとなり、もともとは似ていた北アフリカの都市方言はそれぞれ異なる特徴を帯びるにいたった。これが、北アフリカの諸都市の方言に違いがあることの、大きな原因の一つとされている。

 チュニジアの方言についていえば、チュニジアはまさにリビア方言とアルジェリア方言の中間に位置づけられ、チュニジアの南部と北西部にはリビア全域に広がるバヌー・スライムという部族の方言の影響が、中部にはアルジェリア東部に広がるバヌー・ヒラールという部族の方言の影響が見られるという。

(つづく)

旅・観察

現代のフダーウィー:チュニジアの語り部(2)

 チュニジアを含む北アフリカは、かつてはベルベル語を話すベルベル人の暮らす地だった。現在のチュニジアでは、ベルベル語を話す人は、アルジェリアやモロッコに比べると非常に少数だが、「自分の先祖はベルベルだ」とか、「この村はベルベルの村だ」とか、そう言う声もしばしば聞かれるように、ベルベルの伝統や文化に対する意識は強い。

 このベルベル語にはいろいろな種類があり、これらはベルベル語派として、アフロアジア語族という大語族のもとにまとめられている。アラビア語は、このアフロアジア語族のセム語派の言語だ。

 紀元前のチュニジアの地に、やはりセム系の言語を話すフェニキア人の植民都市が建設された。これがかの有名なカルタゴだ。このカルタゴのハンニバルとローマ軍との戦争については日本でもよく知られている。というか、日本人がチュニジアについて知るのはだいたいこのカルタゴを通してだ。チュニス近辺には、このカルタゴの軍港の遺跡や、墓地跡なども残っていて、観光スポットとなっている。

 カルタゴ滅亡後は、ローマの属州となり、これまた大いに繁栄した。ローマ時代の遺跡や、モザイクは現在でもチュニジアの重要な文化遺産の一つだ。古代キリスト教の最大の神学者の1人であるアウグスティヌスもこの時期のチュニジア(カルタゴ)にゆかりのある人物だ。

 7世紀にイスラームが勃興し、北アフリカにアラブ人が侵攻してきた時、最初に建設した軍事拠点とモスクがチュニジアのカイラワーン(ケロワーン)だ。アラブ軍に立ち向かったベルベル人女王カーヒナの戦いとその最後は現在まで語り継がれている。(つづく)

フェニキア文字(カルタゴ時代の遺跡、トフェの墓地、2020年2月)

旅・観察

現代のフダーウィー:チュニジアの語り部(1)

 フダーウィー(Fdaoui)というのは、チュニジアの語り部のことで、私がこのフダーウィーにどんなふうにして出会ったかについて書こうと思う。

 だが、その前に、チュニジアの言語と文化について簡単に述べておこう。

 アラビア語には大きく分けて2種類のものがある。1つは、コーランの言語の特徴を受け継ぐ文語アラビア語だ。この言語はイスラームの宗教・政治などの公的な場面で用いられる言語であり、多くのイスラーム諸国で公用語とされている。

 もう1つは、口語アラビア語、すなわち、日常生活で用いられるアラビア語だ。現代アラビア語方言ともいわれるこの言語は、文語アラビア語とは異なり、公的な場面で用いるものではないとされる。そのため、文語アラビア語に比べて価値の低いものと考える人もいる。しかし、文語アラビア語が学校で学ぶ言語であるのに対し、この口語アラビア語は自然と身につける「母語」だ。だから、その方言が話される地域の言語生活や文化を知る上では重要な価値を持つ。

 現代アラビア語方言は、中央アジアからアフリカまで広い地域で話されており、遠く離れた地域では互いに理解することができないほど異なっている。チュニジアの方言は、リビア、アルジェリア、モロッコなどの北アフリカ諸地域の方言とともにマグレブ方言に分類される。チュニジア内部にも様々な方言があるが、チュニス方言は首都チュニスの名がついていることからも分かるように、この国を代表する方言で、チュニジア方言といえばふつう、チュニス方言を指す。

(つづく)

モナスティールの墓地(2019/08)