散文

笑い話の解説(4)

解説のポイントは残すところあと二つ。今回が山場だ。チュニジアでは標準アラビア語と方言が話されていると以前書いたが、そのほかにも使われている言語がある。代表的なものはフランス語で、標準アラビア語よりも役に立つ場合がある。

だが、この解説で取り上げるのは、チュニジアの限られた場所で使用されている少数言語、ベルベル語だ。アラビア語の遠い遠い親戚だが、まったく別の言語だ。前回出てきた「雌牛」はベルベル語では次のようにいう。

θaːfuːnaːsθ「雌牛」

これは、南チュニジアのターウジュートで使われている形で、ターウジュートはこの笑い話の舞台だ。θ は英語の third の th の音だ。雄牛の形と比べればわかるように、女性形は θ —— θ で挟み込んで作る。

aːfuːnaːs「雄牛」
θ-aːfuːnaːs-θ「雌牛」

このルールが飲み込めた人は、次は s-θ の発音にチャレンジしてほしい。私はできない。

それはともかく、この女性形の作り方が、笑い話の理解に必要だ。だが、ここまでくれば、私が紹介しようとしている笑い話がどんなものか見当のついた人もいるかもしれない。おそらくそれは正しい。なので、それだけじゃないぞ、ということを示すために、私は最後の解説でこの笑い話のかわいさも伝えたいと思う。

旅・観察

カレン人の教会(4)

牧師は説教台に立ち話はじめるや、手にしたコーヒーカップから、次々とカップを 3 つ取り出した。説教の小道具だったのだ。

そのそれぞれカップには、ビルマ語がマジックで書かれている。

「精神、心、体です」と通訳が教えてくれた。そして、さらに 3 つのカップが取り出された。もしキリスト教の知識があれば、もうこれらのカップになにが書いてあるか、おおかた予想がつくだろう。「父」「聖霊」「子」に決まっている。

話の内容はといえば、神がメッセージを伝えるのは「精神」に対してだが、人間はこのメッセージを聞かずに「心」と「体」のおもむくままに行動してしまう。なので、戦争をはじめとするさまざまな諍いが生ずる、というものだった。

牧師はタイのメーソートで、ビルマ内戦のため親を失ったり、逃げてきた子どものための施設を運営している。説教にはそこでのエピソードが交えられ、楽しいものであった。

キリスト教や教会については、私はほとんどわからないが、このカレン人の教会は、穏健にして明朗なものであったことを強調しておきたい。なにしろこういう世の中だから、外国人の宗教集団と聞くと、狂信者たちが、血の滴るイケニエに噛みつきながら、憎々しげに日本人を呪っているものと思い込む日本人がいるといけないから。

さて、礼拝が終わると、諸報告がある。これは日本の教会でも同じで、活動や会計の報告をするのだが、初めて教会に来た人の紹介をするのもこの時間だ。この日も、新しくやってきたカレン人たちや、タイの牧師に会うためにやって来たカチン人やチン人の若い人が立って、出身地や来た理由などを話した。

そして、私の番が来た(本当は初めてではないが)。まず司会がマイクでビルマ語で私について話す。それを通訳の人が教えてくれる。

「この人はカレン人と長いつきあいの人です。この人はクリスチャンではありません……」

いきなりのアウティングだ。隠しているわけではないが、マイクで大々的に言わなくてもいいのに、と思った。(おしまい)

苦い文学

妖怪傘なし

夏の日の夕方、太陽の翳りとともに湧き出してきた湿った空気が、不気味に街を覆うかもしれない。そんな不穏なときには、決して外に出ないほうがいい。妖怪たちが狙っているからだ。

夕暮れどき、高層マンションの一室から外出しようとして、こんな経験はないだろうか。部屋にいながら、なんとなく外が雨っぽいなと感じたものの、はっきりとはわからないので、窓から外を見下ろすのだ。

くすんだ街路は人気がない。そこに、ひとりの男が現れ、歩き去っていく。傘は差してはいない。そこで、傘を持たずに下に降りることになる。

すると、あろうことか、大雨が降っているのだ。路面じゅうで雨が跳ね返り、激しい音を立てている。見れば誰もが傘をさして行き来している。

では、あの窓から見た男はいったい……? これぞ「妖怪傘なし」の仕業。この妖怪は、マンション上層階の住人に傘を持たずに外出させて、びしょ濡れにするのが面白くてたまらない。この妖怪に出会ってしまったら、おとなしく部屋に引き返すのが身のためだ。

「濡れてもいい。このまま行こう」などと、外に駆け出してはいけない。

そのようなことをした者はたちまち「妖怪傘なし」と転じて、どこかの高層階の一室から外を見下ろしているだれかを惑わせることだろう。

苦い文学

「間違いない」ができるまで

「私がやりました」と彼は罪を認めた。だが、警察はそれでは満足しないようなのだった。

取調官は机をドンと叩いた。「それじゃダメなんだよ! ちゃんと言え!」

彼は怯えながら答えた。「だから、私がやりました。すみません」

「口答えするな! そんなんで済むと思うなよ!」と取調官はさらに机を叩いた。すると、背後にいた別の取調官が制止した。「まあ、そうムキになるな」

「ですが、先輩……」

「俺に任せろ」とその取調官は彼のほうを向いた。「お前は自分の罪を認めてるようだな」

「はい。罪を償うつもりです」

「きいたふうな口を聞くんじゃんねえ。ことの次第によっては、その罪の償いってのも怪しくなるぜ」

「ですが、私はやったと認めているのです」

「うーん、やった、やらないんじゃないんだ。残念ながら。ほら、あの言い方があるだろう。知らないか、テストで答えが正解じゃない、不正解だ、これをなんというかい」

「バツですか」

「ちがう!」

「……間違い」

「その通り。そいつを使って『やった』ってことを言ってほしいのさ」

「え?」

「つまりだ、こう言うじゃないか。ナニナニしたのは……」

「あっ、間違いない。そうです、間違いないです」

「そうだ!」 取調官は同僚のほうを向いて怒鳴った。「なにをボヤボヤしてんだ。調書、調書だ、早く!」

……そして、翌日、新聞にこんな記事が載った。

〈都内の飲食店で料金を払わずに逃走したとして50代の無職の男が逮捕された。容疑者は警察の調べに対し「食い逃げしたのは間違いない」と容疑を認めている。〉

苦い文学

もっと悪い癖

『チュニジアの昔話と詩(Tunisische Märchen und Gedichte)』は、北アフリカのアラビア語研究の創始者の 1 人とも言える Hans Stumme が 1893 年にライプツィヒで刊行した本だ。当時のチュニジアの物語と詩がチュニジアのアラビア語で記録され、ドイツ語の訳がついている。

その中に、「悪い癖」という短い笑い話が載っている。こんな話だ。


ある家に客がやってくる。夫は 2 羽の鶏を妻に与え、料理するように言う。妻は料理しているうちに食べてしまう。子にも与えると、もっとくれと泣き出す。妻が殴ると子は「おじいさんが教えた悪い癖はやめろ」という。これを聞いた客が「悪い癖とはなんだ」と尋ねると、妻は「客の耳を切り取って料理することだ」と答える。これを聞いた客は逃げ出す。妻は夫に「客が鶏を持って逃げた」と言う。夫は追いかけて「2 つのうち 1 つ渡せ」という。客は「追いついたら 2 つともくれてやる」と言って逃げる。


100 年以上前に記録された物語だが、2017 年 8 月にチュニジアで私はほとんど同じ物語を聞かせてもらった。

ただし、私が聞いたバージョンでは、切り取られるのは「客の耳」ではなく「客の睾丸」になっていた。実はもっと悪い癖だった、というわけだ。