散文

自己肯定感で人生が変わる

私は昔、まだ子どものような考えをしていたころ、自信とか自己肯定感とかについてよく思いを巡らせた。というのも、そうしたものを持っている人は、人生からより良いものを手に入れられると思っていたから。そして、それらが欠乏気味だった私は、やや悲しく思っていた。

そこで、私は、自信のある人の行動や心理をよく観察することにした。また、どうして自分にそれがないのかについても考察した。そして、その結果、驚くべきことが分かった。自信のある人は、そういうふうに生まれついていたか、そういうふうにいられる環境に育ってきたのだった。いっぽう、そうでない人は生まれつきそうか、そうでなくさせる環境に育ってきたのだった。つまり、自信とか自己肯定感とかの有無は、その人間にはあまり関係がないことのようなのだった。

だから、自己肯定感が何かを「引き寄せ」たとしても、それは、いろいろな条件が重なって、その人がたまたま自己肯定感が高くあったからにすぎない。また自己肯定感の欠如が何かを「引き寄せ」なかったとしても、それは、やはりいろいろな条件が重なって、その人がたまたまそういう人となったからにすぎない。引き寄せは、ただ本人の意思とは関係なく、自動的に発生するようなのだった。

それよりも、と私は思った。誰でも常に引き寄せることができるものや、自信や自己肯定感の有無に関係なくめったに引き寄せることができないもののほうが重要ではないか、と。

そんなわけで、それ以来、私は自信や自己肯定感について考えるのをやめた。そのおかげで、少なくとも私は、自己啓発本に無駄な出費をせずに済んでいる。自己肯定感が私の人生を変えたのだ。

散文

頭のよさ

世の中には頭のよい人がたくさんいて、私はいつもうらやましく思っている。頭のよい人は社会的地位も高いし、尊敬されている。どんな人もすぐに論破してしまう。よいことづくめだ。そんなことを考えているうちに、次のようなことを思いついた。

頭のよい人は頭が悪くならなくてはならない。もし悪くならないのならば、その頭のよい人は頭が悪い。

頭がよいということは、頭が悪い人が他にたくさんいるということだ。つまり、たくさんの頭の悪さのおかげで頭がよくなっている。とすると、頭のよい人がその頭のよさのおかげでこれら頭の悪い人よりもよいものを得ているとするならば、そのよいものを頭の悪い人にも分け与える義務が生じる。

その義務を果たす方法は二つある。ひとつは、税金や支援などを通じて、いろいろな事情で頭が悪くならざるをえなかった人々が頭の悪い状態から抜け出るような機会を作ることだ。また、いま頭が悪くなくてもこれから頭が悪くなる可能性がある人にも、そうならないような手立てを講ずることも大事だ。

もうひとつは、頭のよさの基準を広げることで、これはまさに、頭のよい人だからこそできることだ。現行の頭のよい人だけが頭がよいとされるのではなく、その基準そのものにいろいろな頭のよさも含められるようにするのがいい。そうすると、これまで頭が悪いとされて涙を飲んできた人も、やはり頭がいいと評価されるようになるはずだ。

そして、これらの義務を遂行することによって、頭のよい人は次第に頭が悪くなっていく。というのも、新たに頭のよい人が増えるにつれて、もともと頭のよい人が占めていた地位は、それだけありきたりなものになっていくからだ。

しかし、それこそが頭のよい人のすべきことだ。もしそれができないのならば、頭が悪いというべきであろう。

散文

こどおじのアポリア

昨日、大久保にネパール料理を食べに行った。そのとき友人から聞いたのだが、日本はこどおじで溢れているのだそうだ。こどおじというのは、子ども部屋に住んでいるおじさんのことだ。そして、友人によれば、そもそもにほおじ(日本に住んでいるおじさん)が多いのだから当然なのだそうだ。

また、ネットで話題になっているとかいう「こどおじのアポリア」についても教えてもらった。

二部屋しかない家があるとする。子ども部屋があってそこにおじさんが住んでいる。もうひとつの部屋にはその両親が住んでいる。

何年か経ち、その両親が死ぬ。おじさんはそのまま子ども部屋に住み続ける。やがておじさんは結婚する。おじさんは妻と子ども部屋に住み続ける。しばらくすると、子どもができる。

子どもは成長する。やがてひとつの部屋で暮らすのが窮屈になってくる。おじさんは子にいう。

「さいわい、この家にはもうひとつ部屋がある。お前はその部屋に移りなさい」

子どもはその部屋で暮らしはじめる。そして、おじさんになる。やがておじさんは結婚し、子どもができる。その子どもが成長し、おじさんはいう。

「さいわい、この家にはもうひとつ部屋がある。お前はその部屋に移り、祖父母と一緒に暮らしなさい」

月日が経ち、その子もおじさんになる。このとき、この家にこどおじは何人住んでいるだろうか。

この難問にはAIも歯が立たなかったそうだ。こどおじの方々に聞くしかあるまい。

散文

贅沢なレジャー

AIに聞けば、なんでも答えてくれる。もちろん間違いもあるかもしれないが、チェックすればいいだけの話だし、そのうち、AIの間違いもなくなるだろう。いや、AIの間違いは間違いだと見做されなくなるだろう。

難しい本の内容も、AIが簡単に説明してくれる。あらすじも教えてくれる。言語の壁も粉砕された。どんな言語もすぐに翻訳してくれる。

だから、本など読む必要はない、外国語など勉強する必要はない、と主張する人が出てくるのも当然だろう。これに対して、思考力が……とか、リテラシーというものは……など言い立てる人もいるが、そういう人もこっそりAIを使っている。いや、その高尚な見解すらAI由来成分がたっぷりだ。

もっとも、私は読書や外国語学習がなくなるとは思わない。むしろそれらは、AIが普及したのちは、富裕層のみに許された贅沢なレジャーとなるのではないかと思っている。読書も外国語学習も時間と労力を必要とする活動だ。そして時間と労力をそんなことに費やせるのは、富裕層しかいない。

昔、山登りは何か生活の必要に結びついた労働だった。そして、そのような労働の必要のなくなった現代では、山登りは、装備や入山料など、大金をはたける人だけができる贅沢な遊びになってしまった。そして、私たちは、コスパが悪いという理由で山登りなどゲームやVRで十分、と笑っている。だが、実際にはお金もなければ休みもないで、登山口にすら辿り着けない。

読書も外国語学習も同じだ。じっくり精読したり、単語を暗記したりしている間に、空腹が耐え難くなってくる。休憩時間にAIに聞くのが私たちにはお似合いだ。AIはもう貧困層の印というわけで、AIフリーの読書と外国語学習が、お金持ちのステータスとなるのも当然の成り行き。

もしかしたら、渋谷松濤の「アッカド語講読サークル」に高貴な人々が集う、そんな時代も来るかもしれない。

「奥様! サルゴン大王の碑文、もうお読みになって?」

「ええ、とても素晴らしいものでしたわ!」

「それはそうと、今日は伯爵はお見えにならないのね!」

「そうなの! なんでも『資本論』(ヴェルケ版)に夢中だとかで!」

散文

知を見る人々

私は最近、頭のよさについて考えている。一般的には、頭がいいことは得だ。いい大学に行けるし、いい仕事に就けるし、収入も多い。人が集まってくるし、幸福だ。だが、頭のいい人が得をしているということは、私のようなそうでない人は損をしているということだ。悔しいので、いろいろと考えているうちに、頭のよさについての単純な物語を思いついた。


ある研究者が、とても難しい問題を考案し、とても難しい問題ができたということを人々に発表した。それから研究者は、このとても難しい問題を小学校に持っていって、小学生に解かせた。するとひとりだけ正答した児童がいた。人々は「まさに神童だ」と驚いた。

次に高校生たちにこの問題を解かせた。するとやはりひとりだけ正解を出した生徒がいた。人々は「これこそ天才だ」と感心した。

今度は、研究者は難しい大学に行って、そこで問題を与えた。ひとりの学生がたちまち片付けてみせた。人々は「やっぱり優秀だ」と納得した。

それから国会に向かい、政治家たちにとても難しい問題を提出した。すると、ヤジを言うほどの短い間にひとりの政治家が正解を答弁した。人々は「頭の回転がなんと速いのだろうか」と喜びあった。

国会の隣にはテレビ局があった。研究者はそこに行くと、芸能人たちにとても難しい問題をオファーした。タレントたちはギャラが決まるとすぐにこの問題に取り組み、ひとりのスターがベスト・アンサーを早押しした。人々は「ああ見えても地頭がいいのだ」と喝采を送った。

最後に、研究者は町に行き、出会った外国人たちを呼び止めて、この問題を示した。ひとりの外国人が正解を提示した。人々は「なんてずる賢いんだろう」と防犯対策を行なった。

散文

美魔女と地頭

美魔女というのは「年齢を重ねても美しい女性」のことで、しばらく前から使われるようになった言葉だ。

日本語には「美人」とか「美女」とかの言葉があるのに、どうして「美魔女」という言葉が存在するのだろうか。美しければみな美女でいいではないか。そうならないのは、最初に「年齢を重ねても美しい女性」と書いたように、美魔女という言葉には「美しさは本来若い人のもの」という前提があるからだ。

私たち日本人は、ある程度の年齢以上の女性に美しさがあるとき、そこに「若くないにもかかわらず美しさを手に入れる魔力」が働いていると想像するのだ。

もうひとつ似た言葉に「地頭」がある。「地頭がいい」というのは、その人本来が持っている頭のよさのことをいうようだ。それならば「頭がいい」で十分ではないか、という気もするが、そうはならない。というのも、「地頭がいい」という言葉が前提としているのは、「学校では評価されない頭のよさがあり、それは単に頭がよいということよりもずっといいことだ」ということだからだ。

そんなわけで、「地頭がいい」と口にすることは、「学校なんかクソ喰らえ」と叫ぶのに似ている。私たちはみな学校に苦しめられてきたから、そう言いたくなるのもわかる。

だが、人間の知性にはいろいろなよさがあっていい。それに、学校の評価に言いたいことがあるからといって、それを否定するほどでもない。学校が必要な人は世界にたくさんいるし、学校だって私たちが卒業したときのままではない。常に変わり続けている。

要するに、「美魔女」にしても「地頭」にしても、これらの言葉が前提としているのは、非合理的な考え方だ。つまり「美魔女」の場合は若さを美しさと結びつけ、「地頭」の場合は人間の頭のよさを単純化し過ぎている。こうした非合理な思考は、いわば魔術的だ。私たちはこの魔術を使って「美魔女」と「地頭のいい人」を出現させたのだ。

だから、こうした魔術が解かれたとき、美魔女も地頭のいい人も、ちょうど御伽話のように、ただの美人と頭のいい人に戻るにちがいない。

散文

和をもって

このブログのどこかで書いたと思うが、ある人が論語の「四十にして迷わず」について、こう言った。

「こんなことをわざわざ言うからには、孔子は四十になっても迷ったのだ。だから、孔子に及びもつかない私たちが四十を過ぎて迷うのも無理もない。むしろ、大いに迷ったっていいのだ」

この解釈が正しいかどうかわからないが、実際のところ標語は、その逆の事態がはびこっているから意味を持つ。「闇バイトに注意」という警告も、闇バイトが蔓延していなければ意味がない。

聖徳太子は「十七条憲法」の第一条で「和を以て貴しとなす」と定めた。これを根拠に、日本人には和の精神があったと主張する人もいるが、事情はむしろ逆だ。当時の日本人に和の精神などなかったから、聖徳太子はこりゃ和がどうしても必要だ、と憲法のトップに据えたのだ。

その後、結果として、日本人の精神に和が根づいたということもあったかもしれないが、それはあくまでも後世の発展であって、オリジナルの日本精神はアンチ和寄りなのだ。

いや、そんなことあるわけない、当時から日本人が和に生きていたから、太子がそうまとめたのだ、と反論する人もいるかもしれない。

しかし、ほかならぬ聖徳太子の逸話が、これが間違いであることを示している。

もしも、人々が和合し、発言するのにも互いに譲り合うくらいだったなら、聖徳太子は十人の話を同時に聞き分ける特殊能力を鍛える必要などなかっただろう。

苦労してんだ、太子だって。

風刺・戯文

けとさ

日本語は特殊な言語です。なぜかというと、日本人が世にも稀な民族だからです。日本人には和の魂があります。和の魂を持っているのは、日本人だけです。また、礼儀正しさというものを知っています。なので、日本語は和の魂と礼儀正しさがなくては、使いこなせないのです。

例えばひらがなの「い」。私たちは何気なく書いていますが、この「い」は日本人にしか書けないと言ったら驚かれるでしょうか。「い」は「生きる」の「い」、「命」の「い」です。この「い」がなければ、日本人は滅んでしまいます。だからこそ、私たちはこの「い」を書くときに、無意識のうちに、和の魂を込めるのです。

ためしに外国人にこの「い」を書かせてみましょう。彼らにはもちろん和の魂はありません。だから、「い」は書けません。書けたとしても、和の魂を込めることができないので、「い」には見えないのです。「リ」か「( )」のようになってしまいます。つまり、私たち日本人だけが、「い」を作る左右の曲線の間に、丸い魂を入れることで、ちょどよい空間を作れるのです。美しい「い」にすることができるのです。

ちなみに、外国人は礼儀も知りません。私たち日本人は、背筋をピンと伸ばして、凛として生きていますが、外国人はいつもだらしない格好で立ったり座ったりしています。だから、外国人が書く「け」は、日本人のように礼儀正しくまっすぐ立っていられません。

ほら、見てください。左に傾いて「さ」になってしまうのです。

風刺・戯文

当たる

数年前からか、2月末日は日本の研究者にとって重要な日になった。なぜなら、科研費の審査結果が発表される日だからだ。

科研費というのは、「日本中の愛国者が憎んでいる」でお馴染みの研究資金のことだ。これがもらえるかどうかで、研究計画が大きく変わってくるという。ジャンルにもよるが、応募者のうち3割弱しか選ばれないから、厳しい。

私は研究者ではないが、たまたまこの科研費にかかわる機会があったので、2 月 27 日のことは気になっていた。この日に発表されるとはいえ、何時だかはわからない。なので、元 Twitter(現 X)をチェックしたりしていた。

すると研究者たちが「科研費に当たった」という表現は適切か・不適切という議論をしているのが目に入ってきた。ある人に言わせれば、科研費というものは厳正なる審査の結果によるものであるから「当たる」だの「外れる」だの、クジみたいにいうのは不謹慎だというのだ。

いっぽう、科研費の審査は、どの審査員が担当するかとか、他のどの応募書類と一緒に審査されるかとかはわからないのだから、応募者にとっては運としかいえない要素もある、そうなると「当たる」もまったく的外れではない。

普通は「採択される」とかいうのがいいらしいが、これでは硬すぎるということだろう。ほかにいい言葉はないか、私も考えてみたが「略奪する」とか「もぎ取る」とか「ほじり取る」しか出てこなかった。

しかし、なんでもそうだが、科研費は応募しなければもらえない。犬も歩かなければ、当たりようもなかろう。

風刺・戯文

幸せ

私は裕福な家庭に生まれたが、家庭内はいつもケンカばかりで私は幸せではなかった。私は良い大学に入り、そこで受けた教育により、親にも増して裕福な暮らしを手に入れたが、心はどこか虚だった。いくつもの恋の末に、一人の女性を妻とした。初めは甘かった生活も、年月が経つにつれ、苦くなり、私は息苦しくなった。

幸せはお金では買えない。どこかで聞いたその言葉が、私の胸の中に棲みついた。

いくどかの転機を迎え、私はさらに裕福になった。だが、私の心に空いた穴は広がるばかりだった。ある日、朝、ぼんやりとコーヒーを飲んでいるとき、その穴が自分を食い潰そうとしているように感じられた。どんなにお金があっても、幸せはお金では買えないのだ。絶望に慌てふためきながら、私は信頼できる先生のもとに駆け込んだ。すべてを打ち明けるうちに、私の両目から涙が溢れ出た。先生は優しくいった。

「あなたの持っている財力を人のために使うのです」

私はその日から、もてる財力を注ぎ込んで、人々の幸せを破壊しはじめた。金があれば、快活な笑顔を、引きつった顔に変えるのは簡単だった。美しい命を、悲しく萎れさせるのは容易かった。幸せはお金では買えない。だが、幸せはお金で壊すことができるのだ。

そして今、私は、人々の幸せをお金で破壊しているときがもっとも幸せだ。結局、幸せはお金で買えたのだ。

私はかつて不幸だった。苦しんでいた。それも、誰かの幸せだったのかもしれない。