散文

美魔女と地頭

美魔女というのは「年齢を重ねても美しい女性」のことで、しばらく前から使われるようになった言葉だ。

日本語には「美人」とか「美女」とかの言葉があるのに、どうして「美魔女」という言葉が存在するのだろうか。美しければみな美女でいいではないか。そうならないのは、最初に「年齢を重ねても美しい女性」と書いたように、美魔女という言葉には「美しさは本来若い人のもの」という前提があるからだ。

私たち日本人は、ある程度の年齢以上の女性に美しさがあるとき、そこに「若くないにもかかわらず美しさを手に入れる魔力」が働いていると想像するのだ。

もうひとつ似た言葉に「地頭」がある。「地頭がいい」というのは、その人本来が持っている頭のよさのことをいうようだ。それならば「頭がいい」で十分ではないか、という気もするが、そうはならない。というのも、「地頭がいい」という言葉が前提としているのは、「学校では評価されない頭のよさがあり、それは単に頭がよいということよりもずっといいことだ」ということだからだ。

そんなわけで、「地頭がいい」と口にすることは、「学校なんかクソ喰らえ」と叫ぶのに似ている。私たちはみな学校に苦しめられてきたから、そう言いたくなるのもわかる。

だが、人間の知性にはいろいろなよさがあっていい。それに、学校の評価に言いたいことがあるからといって、それを否定するほどでもない。学校が必要な人は世界にたくさんいるし、学校だって私たちが卒業したときのままではない。常に変わり続けている。

要するに、「美魔女」にしても「地頭」にしても、これらの言葉が前提としているのは、非合理的な考え方だ。つまり「美魔女」の場合は若さを美しさと結びつけ、「地頭」の場合は人間の頭のよさを単純化し過ぎている。こうした非合理な思考は、いわば魔術的だ。私たちはこの魔術を使って「美魔女」と「地頭のいい人」を出現させたのだ。

だから、こうした魔術が解かれたとき、美魔女も地頭のいい人も、ちょうど御伽話のように、ただの美人と頭のいい人に戻るにちがいない。

小説

道を渡りし者(9)

私は吉田一家(夫婦と一人息子)とともに夕食を食べ、入浴を済ませた。

珍客にすっかり興奮してしまった息子は、私を独占し、自分の持っているすべてのゲームを見せるまで寝ないと言って聞かなかった。結局、母親に寝室に連れて行かれるまで続いたこの触れ合いが、どれだけ私の不安な心を慰めたことだろうか。

それから私は無口になり、吉田もやはりおし黙ったまま、ときどき携帯を見つめていた。夜はますます重苦しくなり、耐えかねたように彼は立ち上がると、私を和室に案内した。そこで一夜を過ごすのだ。

「襲われたりしないでしょうか」

「大丈夫です。いまや噂は町中に広がり、明日の朝の勝負を知らない人はいません。これは明らかに仕組まれた政治ショーです。あなたに害を加えて困る者がいるとしたら、ほかならぬ市長たちでしょう」

そして、私はひとり横になり、いくども寝返りを打ちながら、明日のことを考えていた。

どのような形でその「勝負」とやらが行われるかはわからない。だが、いかなる場合でも、道路を先に渡るのはあの野上の息子でなくてはならない。

もし私が先に渡ってしまえば、騒ぎはかえって大きくなり、私はますます苦境に追い込まれるだろう。だから絶対に先に動いてはいけない。

あいつを先に行かせるのだ。それでもし渡ってしまったら? 人々は興奮し喝采をあげるだろう。狂乱状態に陥り、それこそ私に襲いかかり、八つ裂きにしようとするかもしれない。

だから、絶対その前に、私は動かなくてはならない。野上に向かってひれ伏し、叫ぶのだ。「あの方こそ本当の奇跡を起こすものだ!」と。そしてさらに大声でこう告げるのだ。「私がここに来たのは、私よりはるかに偉大な者が赤信号を渡るためである!」 これだ!

だが、もし渡れなかったら? もちろん、そのときは私も渡らない。たとえ渡れたとしても渡れないふりをするのだ。私は野上のほうを向き、手を差し伸べるだろう。握手をし、健闘を讃えあい、友として別れることだろう。次の正月には彼から年賀状が送られてくるかもしれない。美しい思い出の記念として……だが、私は返事を出さないだろう……

いつしか私は眠りに落ち、そして朝がやってきた。