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主語なき時代へ

主語賛成派と主語反対派の抗争はますます激化していきました。状況をさらに悪化させ複雑にしたのは、海外諸国の介入でした。

主語反対派は、主語のない言語が用いられている国々から強力な支援を受けていました。これらの国々は、主語を自国の政体を脅かす危険成分だと分析していたのでした。

いっぽう、主語のある言語が使われる国々はこぞって主語賛成派の支援を表明しました。多くは民主主義の確立した国々であり、我が国での主語をめぐる争いを主語退潮の危機と捉えたのでした。

両勢力とも拮抗した状況が続き、このまま内戦に突入かと思われましたが、あるできごとが事態を大きく変えました。

主語反対派の勢力と我が国の保守勢力とが合流し、大きな政治勢力となったのです。反主党と名乗るこの勢力はたちまちリベラル勢力と主語賛成派を駆逐し、とうとう権力を掌握しました。

反主党は政権を奪うや、主語廃止令を発布し、主語の粛清に乗り出しました。そして同時に、これまでどの政治勢力もなしえなかった改憲に取り組みました。日本国憲法は GHQ の指示により、無数の主語で汚染されている不純な憲法だというのです。

その結果、我が国の憲法は次のように純化されました。

(旧憲法前文) ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
(改正憲法前文) ここに存することを宣言し、この憲法を確定する。

新しい憲法が発布されたこの日、私たち国民から主語と主権が永遠に奪われたのでした。

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主語の抗争

日本語の主語の有無をめぐる壮大な社会実験は、被験者が急に英語しか話さないようになったため失敗に終わり、その後、主語賛成派と主語反対派の対立は深まるばかりでした。

この対立がついに暴力沙汰を引き起こしました。学会での議論の最中、主語賛成派がカッとなって主語反対派の頭をポカリと殴ったのです。そして、こう怒鳴りました。

「主語がないというのなら、お前は誰が殴ったかもわからないはずだ!」

そして、殴られてフラフラしている主語反対派に追い打ちをかけました。さらなる一発をお見舞いしてこう叫んだのでした。

「覚えとけ! これはお前たちが否定した主語の分だ!」

主語反対派たちはほうほうのていで逃げ出し、学会主流派となった主語賛成派は勝利宣言を出したのでした。

ですが、この事件からしばらくすると、主語賛成派の幹部たちが次々と襲撃を受け、殺害されるという事件が発生しました。これがいわゆる「主語なき殺人事件」です。こう呼ばれるのは、犯人はいかなる手がかりもの残さなかったためでした。

警察の懸命の捜査にも関わらず、犯人が逮捕されない事態に、ついに残された主語賛成派が行動に出ました。主語反対派の仕業だと確信する彼らは、大規模な報復を開始したのです。

その結果、武力抗争が勃発しました。両者の抗争は拡大し、ついには無辜の市民が攻撃の目的語になる痛ましい事件すら発生したのでした。

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主語の実験

日本語に主語があるのか、はたしてないのか……これまでこの問題について数々の議論がなされ、論文が発表されてきました。

主語があるという主語賛成派はこう言います。「どんな行為にもそれをなす人がいるのだから、主語がないなんてありえない」

いっぽう、主語がないと言ってはばからない主語反対派はこう反論します。「日本語には英語のような主語はないし、主語のない文だってある。日本語には主語など必要ない」

この論争に終止符を打つべく、いま大規模な試みが行われようとしています。実験を主催する大富豪、後澤呆作代表は語ります。

「これは壮大な社会実験です」

実験の主役となるのは吉田二郎さん(66)です。地下に建設された空間で、これから1年間のあいだ外部との接触を断ち、たったひとりで過ごす予定です。

「食事も排泄もすべてエコシステムの中で完結しています。退屈じゃないかって? 運動設備も娯楽もなんでも揃っていますから、退屈する暇なんてないでしょうね」

こう笑う吉田さんがこの地下施設でチャレンジするのは、主語なしの生活です。

吉田さんの地下施設での様子は、逐一地上でモニタリングされ、主語のチェックが行われることになっています。

「主語が検出されてもされなくても、この実験によって主語論争に決着をつけることができるはずです」と後澤代表は期待に胸を膨らませています。

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ストレスチェック

今年、平助はある学校で、非常勤として授業を一コマ担当した。前期だけだから、契約期間も9月いっぱいで終わりとなった。すると、10月になって、その学校からこんなメールが送られてきた。

「ストレスチェックのお知らせ」

メールを開くと「必ずストレスチェックを受けてください」と書いてあり、どうやら常勤の教員や職員が対象のようだ。契約の終わった非常勤には関係ない、と平助はメールを削除した。しかし、2週間後、またメールが来た。

「【周知】ストレスチェック実施のご案内」

今度も削除すると、1週間ほどのちにさらなるメールが送られてきた。

「【重要】ストレスチェックのご案内」

メールには、「*このメールは現在実施中のストレスチェック未受検者の方に送っています。」とあり、ストレスチェックの URL が貼り付けられていた。そこまでいうのなら、と平助はリンクに飛んでストレスチェックを受けることにした。

60 問ほどの質問があって、そのそれぞれに「そうだ まあそうだ ややちがう ちがう」のどれかで答えるのだった。

1問目「非常にたくさんの仕事をしなければならない。」
2問目「時間内に仕事が処理しきれない」

どうやら質問は、常勤向けのようだった。非常勤暮らしの平助は、やるせない思いを抱きながらも答えていくと、こんな質問が出てきた。

12問目「私の部署内で意見の食い違いがある」

もう無理だ、と平助はタブを閉じた。

それから数日後、メールがやってきた。

「【緊急】ストレスチェックを受けましょう!」

平助はもう確信していた。連中は非常勤を相手にストレス発散しているのだ、と。

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架け橋

架け橋になりたい、という真っ直ぐな思いを胸に、東南アジアの小国、カナベアにやってきたある若者は、最貧部の農村に行き、日本で集めた古着や文房具を村人たちに配りました。

すると、村のリーダーが若者に声をかけました。「私たちはあなたのしていることに感謝しています。ですが、一部の人々はあなたに何か悪い意図があるのではないかと疑っています。これから長老の家に行って、あなたの目的を話してくれませんか」

若者は長老の家に連れて行かれました。色黒で、シワだらけの老人の小さな目が鋭く見つめていました。

「私がこの村で支援活動を行うのは他意あってではありません。カナベアと日本の架け橋になりたいだけなのです」

村人が長老に通訳しました。すると、長老は小さな目から涙を流しました。

「私たちはあなたがこの地にやってくるのを長い間待ち望んでいました。あなたこそ、村の聖者が予言した人に違いありません。あなたのおかげでこの地の人々は救われることでしょう」

この言葉を通訳から聞いた若者もまた感動しました。すると、村人たちが若者に掴みかかり、ねじ伏せ、ロープで縛り上げました。あまりのことに若者は一言も発することはできませんでした。

村人たちは若者をリヤカーに乗せて運んで行き、川のほとりで下ろしました。そこには真新しい橋がかかっていました。

「日本政府の支援によって建てられた橋です」と村人。「この橋は私たちの生命線です。なぜなら、流れがはやくて危険なこの川を渡るには、この橋しかないからです。いにしえの賢者の予言によれば、橋になりたいという異国の若者が来るので、その人を橋のたもとに埋めるがよい、そうすれば、橋は完成し、破壊されることは決してないだろう、ということです」

すでに穴はできあがっていました。村人たちは若者をその穴に放り投げると、上からどんどん土を被せました。

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新しい痴漢

昼下がり、都会へと向かう電車のその車両には、私とスーツを着た男のほか誰もいなかった。私は座席の端に座り、その男は向かい側の座席の反対側の座席に座っていた。銀の手すりにもたれかかって、目を閉じていた。眠っているようだった。

電車が赤頭駅で停車すると、警官たちがどかどかと乗車してきた。驚いて見ていると、警官たちは向かいの乗客を取り囲んだ。

「痴漢の現行犯だ! 逮捕する!」

叩き起こされた男は警官たちを見上げた。警官が男の腕を掴んで立ち上がらせようとすると、男は身を固くして抵抗した。私は思わず声をかけた。

「ちょっと、待ってください! 事情は分かりませんが、その人はこの車両にずっといました。私が証人です」

すると警官のひとりが私に言った。「お騒がせして申し訳ありません。この男は普通と違うのです。痴漢とは触るだけではないのです。見たり、匂いを嗅いだりする間接的な行為も痴漢です」

「この車両には女性はいませんでした。これもまた証言できます」

「ええ、ですが、この男は触りも、見も、匂いを嗅ぎもせずに、ただ強力な想念のみで痴漢行為を行うことができるのです。しかも別の車両にいる女性に対してです。もっとも新しい痴漢として、この容疑者を私たちはずっとマークしていたのです」

そのとき、別の警官が叫んだ。

「やっ、逃げたぞ!」 警官たちはいっせいに車両からホームに飛び出した。「線路に降りた! 逃げた!」「追いかけろ!」

そのとき静かにドアが閉まった。私と、なにごともなかったかのように再び目を閉じた男を乗せた電車はゆっくりと動き出し、男の幻影を追いかける警官たちを置き去りにして、都会に向かっていった。

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許さないのは人類の罪

私は感謝します。私に再び生きる自由を与えてくれたこの社会に感謝します。

私は人を殺しました。自分でも思い起こすのが苦しいくらい残虐に殺しました。そして、私は逮捕されました。

逮捕されたとき、私にはもう希望はないと思いました。殺人犯として終身刑を宣告され、一生刑務所から出られないと考えていたのです。ですが、違いました。警察に連行されたとき、偉い人が私にこう言いました。

「今、世界では暴力の連鎖が止まらないのだ。暴力が報復につながり、その報復がさらなる報復を呼ぶ。そんなふうに仕返しを続けていたら、どうなると思う?」

「どうでしょう」と私は答えました。「わかりません」

「人間なんてひとりもいなくなってしまうよ。だからこの暴力の連鎖を止めなくてはならないのだ。では、その連鎖を止めるにはどうしたらいいだろうか」

私は何も言いませんでした。

「許すことだ。どんなに苦しくても敵の犯した罪を許すことだけが、報復にストップをかけることができるのだ」

そう言いながら、偉い人は私の手錠を外しました。「さあ、自由に好きなところに行きなさい。私たちの社会は、暴力を根絶するために、すべての犯罪者を許すことに決めたのだ」

私が外に出るための支度をしていると、警察官たちがひとりの男を連れてきました。警察官たちは偉い人に何やら報告をしていました。その男はうなだれていましたが、ふと顔を上げた瞬間、私に気がつき、ものすごい形相で睨みつけ、やがて泣きだしました。

すると、警察官たちはその人を小突き、奥の方に引っ張っていきました。ずっとその人の泣き声が聞こえていました。偉い人は顔をしかめて、私に言いました。「よく覚えておくんだよ。あの男は、自分の子どもを殺されたのだ。それで、犯人を許せない罪の現行犯で逮捕されたというわけだ。許せないというのは、この社会に暴力をはびこらせる重罪だ。きっと終身刑を言い渡されるだろう」

私は偉い人を見て、こう言いました。

「あの人が、私の犯した罪を許さなかったことを私は許します」

それから、外の世界へと飛び出しました。

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入ってもいいですかの撃退(後編)

平助は頭に血が上った。「うるさい、言わなくていいと言っただろ!」と口から出かかったのをなんとかこらえて、「入ってください!」と答えたが、それでも聞く人が聞けば、そこにトゲトゲしさを感じたかもしれない。

結局のところ彼の説明は効き目がなく、「入ってもいいですか」は相変わらずだったのだ。

平助はこの「入ってもいいですか」をいくども浴びたせいかもしれない、学生が入ってくるのを見かけると、ぶるりと体を震わせるまでになった。そうやって「入ってもいいですか」から身を守ろうとしていたのだ。そして、その過剰な反応がかえってこの問題を解決に導いた。

いつものように平助は教室にいた。すっかり過敏になっていた彼は、人の気配を察し、びくりとして、教室の入り口に目をやる。

ネパール人の学生が入り口に立っていた。あの容赦なき「入ってもいいですか」の学生だ。そして、その口がかすかに動いた。「入ってもいいですか、先生」を繰り出そうとしている、と身構えたとたん、平助の口がほとんど無意識のうちに開いた。

「おはようございます」

すると、その学生は「おはようございます、先生」と返事をし、なにごともなかったように教室に入り、着席した。

平助は初めは驚いた。が、すぐになにが起きたかを理解した。「そうなのか、先手必勝だったのか」

今では、平助はどの学生よりも早く教室に入り、教卓の前で学生がやってくるたびに「おはようございます」作戦を遂行し、「入ってもいいですか」を毎朝、撃退している。

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入ってもいいですかの撃退(前編)

とある学校で日本語を教えている平助は最近ある問題に悩んでいた。

彼が担当していたのは朝の日本語初級クラスで、学生は日本に来たばかりのネパール人だ。

平助が早めに教室に入って、教卓で授業の準備をしていると、ネパール人の学生がやってくる。

「おはようございます、先生」

「おはようございます」

これはまったく問題ない。だが、何人かのネパール人男子学生は教室の入り口に立ち決まってこう言うのだ。

「教室に入っていいですか、先生」

「どうぞ、入っていいですよ」と応じながらも、平助は釈然としない気持ちになる。そもそも教室とは学生の場所ではないか。教員室ならばいざ知らず、そこに入るのに教員の許可など必要あろうか。

しかし、ネパールの学生が悪いとはいえない。ネパールではそうした習慣があるのかもしれず、学生たちはただそれにしたがっているにすぎないのだ。

むしろ責任があるのは教員のほうだ。考えてみれば、ネパールと日本の習慣の違い、つまり日本では教室に入るのに教員の許しをえなくてもよい、ということを、きちんと説明したことなどなかったのだから。

事前に教えずして、できないと怒るのは、愚かな教師のすることだ。

そんなわけで平助は、あるとき授業中に「教室に入るときには、なにも言わず入っていいですよ」とていねいに説明したのだった。

そして、翌朝、いつものように平助が教室にいると、学生が姿を現して告げた。

「入っていいですか、先生」

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道を渡りし者(終)

だれもが章雄の登場に驚愕し、動きを止めた。今にも四肢分断されそうだった私に吉田の手が伸び、私を暴漢たちの中から引きずり出した。私は転がるように彼の後ろに隠れた。

この一瞬の静寂ののち、観衆から熱狂の叫びが上がった。「もういちど渡ったのか?」「すごい!」「奇跡だ!」

だが、章雄は「うるせえ!」と怒鳴り、父親を指した。「これだ! この袋(と彼は黒い袋を掲げた)がこいつの奇跡とやらの正体だ! 道の向こう側にいたのは、俺じゃない! こいつが勝手に用意した偽物だ! こいつもこうやって赤信号を渡ったとだましたのだ! お前たちは(と観衆に向かって)こんなものを奇跡と崇め立てていたのか? こんなインチキな人間を市長だと崇め祀っていたのか? こいつは偽善者だ、ペテン師だ! こいつは赤信号など渡りはしなかった! 見ろ! これから俺は本当の奇跡を起こす! 赤信号を渡る!」

おりしも、ちょうど青信号が赤に変わったばかりだった。章雄は車がビュンビュン行き交う道路に向かって歩き始めた。市長が駆け寄って、息子の足にすがった。「やめるんだ! 父さんが悪かった。危険だ! お前の好きなフェラーリでもなんでも買ってやる」

章雄は全身の力を込めて市長を足蹴にした。「俺は、お前の指図は受けない!」

そして、横断歩道の真ん中から道路にダッシュした。車は避ける間もなく、彼をはね飛ばした。彼はアスファルトの上に投げ出され、赤いものが飛び散った。車は方向を見失い対向車線へと飛び出し、直進してきた対向車に衝突した。

あちこちで悲鳴と衝突音が上がった。前方の事故を避けきれずに何台もの車が追突した。歩道に乗り上げた車は、何人もの不運な観衆を巻き込んだ。

一瞬のうちに道路の上に動くものはなにひとつなくなった。吉田の背後から飛び出した私は、赤信号のままの横断歩道をさっさと渡り、駅に向かった。去りぎわ、凄まじい絶叫のなかに「章雄!」という悲痛な叫び声を聞いたような気がした。

途中、刃物やバットを持った男たちが前から走ってくるのにでくわした。「俺たちをだましやがって!」「市長の一家は皆殺しだ!」「逃すな!」と口々に叫んでいた。私は彼らに話しかけ「市長とそのご家族は、まだ薬屋の信号にいるようですよ」と教えてやった。それから、猛スピードで駅に駆け込み、ちょうど来た電車に飛び乗った。(おしまい)