散文

ワイルドの『獄中記』を駁す(2)

realise には「認識する」「実現する」などの意味があるが、『獄中記』ではこの語に「表現(expression)として実現する」という意味も担わせている。ワイルドは芸術家だから、この「表現」とは芸術的表現でもあるが、後半で展開されるキリスト論では生き方に近くなる。いずれにせよ、生きるということを深く考え、理解した上で、ひとつの形を与えることといえる。こうした観点からすれば『獄中記』自体もワイルドによる Whatever is realised のひとつだと捉えることができる。

もっとも、『獄中記』で語られるのは、そうした深い思索ばかりではない。アルフレッド・ダグラスについてはそうとう辛辣に非難しているし、自らの不幸への嘆きもいくども繰り返される。責められるべきはダグラスばかりではないだろうし、苦悶の叫びにもそれなりの自己演出もあろうかと思う。

だが、罪とすらいえない行為で、ひとりの人間が名声と財産と家族と自由を失い、破滅に追いやられたということは、それがワイルドであろうと誰であろうと、痛ましいことだ。

それにしても、『獄中記』で驚かされるのは、自分を破滅に追いやった理不尽さへの追及ぶりだ。文章は長く粘着的で、言うべきことを言い尽くそうとする執念深さがある。

私も理不尽な思いをしてきたが、忘れるように努めている。徹底的に反論をして相手を打ちのめしてやりたいとも思うが、それには莫大なエネルギーと時間が必要だ。そんなことに費やす暇はない。

おそらくワイルドも、刑務所に入れられなければこんな長い手紙を書こうなどとはしなかっただろう。実際には釈放から三年後に病没してしまうが、投獄されなければ、長生きして別の作品をたくさん書いていたかもしれない。これもまた痛ましいことだ。

旅・観察

外貨の禍い(8)

チェックインをし、空港制限エリアに入り、出国審査の列に並ぶ。列の中から、カウンターの向こうにある空間を探る。保安検査の列の手前で、深緑色の制服姿の男が、誰か別の職員と話していた。

この男だ。生と死の境にある三途の川で亡者の衣服を奪い取る奪衣婆よろしく、国境のあわいに現れて、旅人から外貨を奪い取るあの男だ。もう塞の神と呼んでもいいだろう。

私は列に並んでいる間じゅう、この男の動向を観察していた。男は、カウンターの列の前を行ったり来たりして、姿を消したかと思うと、再び私のカウンターの前へとやってきて、旅人たちに目を光らせていた。すると、ひとりの男性の旅人がやってきた。塞の神はその男の前に立ち、パスポートを取り上げる。いよいよその現場が見られる、と私は固唾を飲んだが、いきなりにこやかに話しはじめたではないか。そして、2 人はまるで友人のように別れたのだった。

いったいなにごとが起きたのだろうか? あの旅人はいったいどんな手を使ったのだろうか? だが、なんの手を使ったにせよ、それは私には関係なさそうだった。私にあるのはただ外貨申告書だけだった。

そんなことを考えているうちに、私の前の男の審査が始まった。もうすぐ私の番だ。

私の審査が終わったタイミングで、あの男がどこか別のカウンターのほうに行っているということはないだろうか? 私がそんな当てにならない僥倖を願いはじめたまさにそのとき、塞の神が高齢の女性に襲いかるのが見えた。

男の詰め寄りに、その女性は驚いた表情でパスポートを差し出した。なにやら抗議の身振りもしている。だが、それもむなしく男に荷物を開けるように命じられたようだ。

私がカウンターに呼ばれたのはそのときだ。私は審査を受けながら心ここに在らずで、早く終われとばかり願っていた。職員があの女性にかかりきりになっている間に、さっさとこの境界を越えてしまえばいいのだ。

審査が終わる。私はカウンターを通過する。塞の神はまだ例の女性を追求している。このままセキュリティチェックに並び、その向こうに逃げおおせれば、もはや男の手は届かない。

セキュリティチェックのゲートは 2 つあった。私はそのどちらかを選ばねばならなかった。いっぽうのゲートの前では、あの職員と女性がやり取りしていた。私はとっさの判断でもうひとつの別のゲートを選んだ。

だが、これが失敗だった。

苦い文学

ホログラム

お金を下ろしたら、新一万円札が出てきた。じっくり見ていると、銀色の帯の部分で渋沢栄一が顔を動かしているのに気がついた。

暇なので、何度も渋沢栄一を動かしていると、渋沢栄一が怒り出した。ものすごい形相で私をにらみつけた。かまわず紙幣を揺すると、怒った顔のままで動いている。私は大笑いした。

これは、偽造防止のためのホログラムで、世界に先駆けて日本の紙幣に採用されたのだ。

私は渋沢栄一とのコンタクトに挑戦することにした。

「クソジジイ」

栄一は声は出せないが聞こえるらしい。膨れっ面をした。

「ごめんごめん」と私が謝ると機嫌を直したようすだ。「日本の経済の基礎を作った方だと聞いています。いくつもの会社を作って、大金持ちになったそうですね」

こういうと、うなずきながらニコニコし出した。いい調子だ。

「それで、お願いなんですが、お金持ちになる方法を教えてください。今すぐお金が欲しいんです」

渋沢栄一は頼もしげにうなずくと、手を叩いた。すると、私が片手で持っている1万円札が2枚に増えた。栄一も2人だ。そして2人の栄一はたがいに目くばせしてもういちど手を打った。すると、4万円になった。

「すごい! 渋沢先生、すごい!」

4万円は8万円に、8万円は16万円に……私は歓喜して両手で札を掴んだ。だが、両手には1枚だけ。渋沢め! ホログラムでまんまとだましやがったのだ! 偽造防止のホログラムが偽札を偽造するとは!

プリプリする私をみて、渋沢は大笑い! それから一瞬で北里柴三郎の顔に変わると、もう動かなくなった。

苦い文学

携帯ショップ(3)

見ているうちに、バッテリーの残量が3パーセントから2パーセントに変わった。若者は、背負っていたリュックからモバイルバッテリーを取り出し、その携帯に接続した。

2人が戻ってくるまではもうわずかしかない。若者は焦るが、パッテリーの回復は遅い。3パーセント、4パーセント、5パーセント。ジリジリ待つうちにようやく10パーセント。それからゆっくり上がって13……16……19パーセント……あとちょっとで赤を脱し、緑色に……。

そのとき、奥のほうから声が聞こえた。若者はあわててバッテリーを取り外すと、ドアから外へと駆け出した。

どこをどう走ったか覚えていないが、夜の森の中でつまづき、転び、その拍子にかなりの高さを転落した。立ちあがろうともがいたが、足が動かない。助けを求めたが、その声は虚しく森に消えていくだけだった。

そして、身動きのできないまま、何日かが過ぎた。もはや声も出なかった。空腹と渇きと痛みのなか、若者は、結局は自分の運命を変えることはできなかったと悟った。

だが、そのとき、上のほうで人の声が聞こえた。

若者は最後の力を振り絞って叫んだ。

……生還したのち、若者は大容量の急速充電バッテリーを持っていくども山を歩き回ったが、二度とあの携帯ショップに出会うことはなかった。

苦い文学

久米仙人

世俗の生活に疲れ果てたので、仙人になろうと思った。それで、このコロナ禍をものともせずに旅に出て、仙人の山にたどり着いた。

見上げると、山は険しく、夏だというのにその頂は霞に隠れている。この霞の向こうには桃源郷が広がり、仙人たちが自由自在に空を飛び回り、毎日、楽しく暮らしているのだ。

そう思うと気がせいたが、もう午後3時近かった。今から登るのは危険だと判断した私は、少し引き返して、麓の小さな町で一泊することにした。

町は、山に向かう時には気が付かなかったが、なんとなく奇妙な印象を与えた。私は汗をかきかき、宿を探して歩き回った。ときたま、町の人々を見かけた。下校中の小中学生たちが騒がしく私のそばを駆け抜けて行った。

町の様子を知れば知るほど、ますます違和感が募っていった。やがて、一軒の旅館を見つけ、玄関を入ると、年配の男が出てきて、部屋に案内してくれた。

その男は旅館のあれやこれやについて説明してくれたが、その口調や物腰は穏やかだった。私は少し不躾かもと思いつつ、彼に尋ねた。

「さっき、町を少し歩いたのですが、ひとりも女性を見かけませんでした。小中学生も男の子しかいませんでした。すこし不思議に思えますが……」

「ああ、この辺りでは、女は家にいるものと決まっているので。学校に行くのも男だけ。女の子は家に先生がやってきて面倒を見るんで」

理由を尋ねると、男はこともなげに答えた。

「女が外をうろついていると、仙人様たちが迷惑だというのでね。この辺りの昔からのしきたりです。なにしろ、仙人様あっての町なので」

「じゃあ、どうしても女性が外出しなくてはいけないときは?」

「そのときは黒い布をすっぽりかぶって出かけます。ですので、今日みたいな暑い日は女は決して出やしません」

「では、この町では買い物も洗濯も男性の仕事なんですね」

「ええ、ですが、最近では男も外では黒い布をかぶるように、と仙人様サイドから町に要望が出ているそうで……これも時代の流れでしょうかね……」