散文

普遍人間発生装置(5)

説明文が物語の時間の流れを止めるというのは、これが、その時間から独立した説明を導入するからだ。「川は穏やかに流れ、囁くような水の音は心浮き立つようでした」という文の働きは、おばあさんの行為、川の様子、桃の出現という出来事の継起を作るのではなく、おばあさんの行為から桃の出現へという物語の流れをいったん止めて、川の描写を挿入することにある。

説明の「なお、当時は男は山に行き、女は川に行くのが一般的な就業形態でした」も、コメントの「これはおそらく、洗濯機がないか、洗濯機を使わないエコな暮らしを実践していたものと推察されます」も、同じように物語の時間を止めることで挿入される。

そして、説明文のもうひとつの特徴は、物語文とは動詞の形・文型などの点で異なるということだ。まず動詞の形からいうと、物語文は物語を進める文だから、基本的には動詞は過去を表す形になる。つまり、日本語ならばたいていの場合「〜した。〜した。」と過去形の連続によって、出来事の継起が表される。いっぽう、説明文は「〜する、している」という非過去形となることが多い。また「〜していた」という過去になる場合もあるが、その場合は出来事というよりは、何かの属性を表している(すなわち「川は穏やかに流れた」ではなく「川は穏やかに流れていた(そういう川だ)」)。

さらに、文型の点でも違いがある。物語文は出来事を表すため基本的には動詞が述語となる。いっぽう、説明文では形容詞や名詞が述語となる。このような文法形式は、同時にまた、物語文と説明文を区別し、両者の混同を防ぐという役割を果たしている。

説明文と言語形式の関係でもうひとつ大事なのは、説明文の導入と終了を、言語的な標識で明示することがあるということだ。説明の例における「なお、当時は」の「なお」は説明文がここから始まるということを、またコメントの例における「それはともかく」は説明文が終わったということを示す標識として機能している。

物語を語るさいには、こうした物語文と説明文の双方が必要だ(これは物語論で出てくる物語の筋を担う前景と、それ以外の背景にゆるく対応している)。カッコ、なお、この()も説明文の標識だが、普通、話し言葉ではあまり活用しない、カッコとじ。

風刺・戯文

移民のせいで治安が悪化

黒鍬市には昔、数名の外国人が住んでいたが、コロナの時に仕事がなくなって出て行ってしまった。それ以来、市にはひとりの外国人も住民登録していない。

もっとも、市からは外国人だけでなく、若い人も流出してしまっていた。このままでは黒鍬市が消滅してしまう、という危機感から、若い人が帰ってくるように市は U ターン事業を始めたが、いっこうに効き目はなかった。そこで、市長は議会でこんな提案をした。

「若い人は無理でも、若い外国人に住んでもらうホームタウン政策を実施するのはどうだろうか。なんといっても数年前は外国人が住んでいたのだから」

何人かの議員は賛成したが、他の議員たちは猛反対した。

「得体の知れない外人を連れてきてどうしようというのだ!」「移民が来ると治安が悪化する!」「黒鍬が乗っ取られてしまう!」

これら議員たちの言い草があまりにひどいので市長もカッとなって言い返した。

「頭が硬くて古くさいケチどもだ!」

それ以来、黒鍬市は、市長派と反対派の議員で真っ二つに割れてしまった。なにしろ小さな市だから、それだけでは収まらない。市民同士までいがみ合う始末で、とうとう夏の盆踊りで暴力沙汰まで勃発した。もうヤクザの抗争みたいで、敵と見れば容赦ない。夜の道など危なくて歩けないのだ。

今や黒鍬市は、移民がひとりもいないのに、移民のせいで治安が悪化した町として、全国的に有名になっている。

音楽

ポールの等式

数学には未解決の問題がいくつもある。リーマン予想や P≠NP 予想などには懸賞金すらかけられている。

もっとも、数学者たちの努力と天才も並々ならぬものがあって、フェルマーの最終定理やポアンカレ予想といった難問も解決済みとなったし、これからも AI の活用により次々と難問の数学的証明がなされていくであろう。

最近、イギリスの科学誌 “Mother Nature’s Science” でこれら数学上の難問の特集が組まれた。同誌によれば数学史上最大の難問とは「ポールの等式(もしくはポール予想)」だということだ。ポールの等式とは次のようなものであるが、いかなる数学者もこの証明に成功したことがないのだという。

  lt = lm

これだけだと素人には何のことだかわからないが、これは次のようなことを意味しているのだという。

And in the end the love you take is equal to the love you make
(結局のところ、受け取る愛は作り出す愛に等しい)

記事では、この等式の証明のためになされてきたさまざまな試みについても述べられているが、あまりにも専門的すぎて私にはわからない。ただ、ある数学者が「これからもわたしたち数学者たちはこの難問の解決のために、幾晩も『ひとりぽっちのロンリー・ナイト』を過ごさねばならないでしょう」と述べていたのが印象的だった。

苦い文学

キャンセル・ジェネレーション

むかしむかし、ひとりの娘がいた。

娘は笛吹きがお気に入りで、よく笛の音を聞きに行ったものだったが、あるときその笛吹きが犬を蹴っているのを見かけた。娘は怒って言った。

「もう聞かない」

また、芝居小屋の主に弱い者いじめの過去が明らかになった。娘はよく芝居を見に行ったものだったが、こう言った。

「もう見ない」

今度は芸能人のダブル不倫が発覚した。娘は言った。

「もうファン辞めた」

テレビ局も時に間違いを犯す。だが、娘は厳しかった。

「もう見ない」

そしてこの世では誰もが失敗をする。駅員の対応が悪ければ「もう乗らない」。銀行で待たされれば「もう使わない」。学校でイヤミを言われれば「もう行かない」。回転寿司で誰かがいたずらをすれば、「もう食べない」

そんなこんなで行くところもなくなった。

家にこもっていると、だんだんイライラがつのる。落ち着こうとミルクを注いでいると、うっかり手もとがくるって、ミルクがこぼれてしまった。娘は右手に言った。

「もう使わない」

右利きだったから、左手だけでは何もできない。そんなわけで左手にも「もう使わない」

両手がなくて何ができよう。歩こうとしてバランスを崩して倒れると、足に向かって「もう使わない」

ジタバタしながら娘は次々に宣言していった。「もう見ない!」「もう聞かない!」「もう考えない!」

そしてもう何もできなくなったので、じっとしていた。

見かねた母親が、どこかから車椅子を見つけてきて、動くことも、もの言うこともできない娘を乗せると、市役所に行って尋ねた。

「娘を障がい者として認めてください」

担当者は即座に返事をした。「 NO です」

これを聞くと母親は泣きながら「NO、NO、NO、NO、NO」と歌い出した。

すると、その歌に合わせて娘が踊り出したではないか。しかも、高らかに歌い出した。

なんとすばらしい歌と踊りだろう。人々は娘に拍手喝采した。

だが、市の担当者は、2人を追い出すと、難しい問題を抱えた人のために働きはじめた。

風刺・戯文

天狗の主張

私たち天狗は、人跡まれな山の奥深いところに暮らすものですが、そのせいか皆さんの間には、私たちに関する間違った知識が流布しているように見受けられます。

その大いなるものを挙げますと、私たちの「鼻」についての誤解です。皆さんは、天狗と聞きますと、いわゆる「長い鼻」を想起されるのではないかと思いますが、これは実は鼻ではないのです。

ちょっとご覧ください(と、Zoom で画面共有)。皆さんが「鼻」と呼んでいるものはこれですが、その付け根にご注目ください。これです。小さな盛り上がりがあるでしょう。これが本当の鼻なのです。鼻孔もちゃんとあります。

それでは、皆さんが「鼻」と呼んでいる部分は何なのでしょうか。これは実はメロン体という脂肪組織なのです。

メロン体と言いますと、イルカの頭部にある感覚器官で、音波によってエコローケーションを行うものです。私たちの「鼻」もこれと同じ機能を果たしておりまして、山奥の暗がりを飛び回る時などに、もっとも有用なのであります。

なお、このメロン体、イルカなどの額にあることからも想像できますように、実際は額の下部が発達したものだと、近年、判明いたしました。名実ともに鼻ではないということがご理解いただけたでしょうか。

それともうひとつ、皆さんの誤解を解いておきたいのですが、私たち天狗のこのメロン体は、年を重ね、経験を積むごとに長く伸びてまいります。つまり、長く立派なメロン体を所持しているということは、尊敬に値する人格者であることの証なのであります。

そのようなわけで、鼻高々なる人物を評するに「天狗になった」などと皆さんが言われるのは、私たちにとって大変心外であり、悔しさのあまり涙するものもいるほどなのです。

なにしろ私たちは「伸びるほど、こうべを垂れる天狗かな」と諺に言うほどなのです……、ちょうど法螺貝が鳴りましたので、このあたりでお話は終わりにさせていただきます。