散文

普遍人間発生装置(2)

また、アクセントだけでなくイントネーションも表記することはできない。「来る」にも、いくつものイントネーションがあり、それによって意味が変わってくる。なにかが来るのを見て言う「来る」も言い方によって、来るものが危険なもの、痛み、意外なものなどに変わる。「来ないほうがいいよと言っているのにそれでも来たいのか」という呆れた「来る」もあれば、「来ないでと願っていたが結局、来てしまうのか」という諦めの「来る」もある。もちろん、疑問や誘いの「来る」にもいろいろあるだろう。これらのニュアンスを表すためにいくつかの補助的記号が発達している。次のようなものだ。

「来る。」
「来る!」
「来る?」
「来る……」
「来る……?」
「来るー」
「来る〜」

いろいろあるが、どれも具体的なイントネーションを伝えるわけではない。イントネーションや発音の記号に見えるが、実際には言葉の解釈を指示する記号としての役割のほうが強い。その意味では、むしろ「(笑)」や「www」といったものの仲間だし、さらにいえば顔文字やスタンプの使用にも関係している。

アクセントやイントネーションのほかに、文字にするとなくなってしまうものはたくさんある。声の質、高さや強さ、速さや間の取り方などがそれだ。これらは文字を太くしたり、フォントを変えたり、サイズを大きくしたり、下線を引いたりして、なんとなくは指示することはできる。スタンプは表情や身振りを書き言葉で指定しようとする努力のひとつであるが、これも記号に過ぎない。また、距離や息遣いなどはそもそも無理なようだ。しかし、いずれにせよ、こうした手段を使えば使うほど、一般的な書き言葉のイメージから外れていくことは確かだ。

散文

普遍人間発生装置(1)

私は結局、大学には受からなかったのだが、昔、予備校に通っていたことがあった。そのとき、現代文の読解問題に「話すように書くことなどできない」と主張するものがあった。誰の文章だかはっきりしないが、そのとき「精神の運動」という言葉が出てきたような気がするから、石川淳かもしれない。

それはともかく、この主張の内容は確か、話し言葉と書き言葉の論理は違うからというようなものだったと思う。それももちろん大事だと思うが、私が今、話すように書くことはできない、と考える理由のひとつは、当たり前のことながら、口から出た言葉を全て文字に表すことはできないからだ。

日本語話者は慣れてしまっていて気がつかないが、日本語の書記法はアクセントを表すことができない。ビルマ語やタイ語にはアクセント(の一種)を表す補助記号があるのと対照的だ。とはいえ、それで日本語を読むとき困るということはない。ひとつには漢字があるからだ。「はし」だけではどう読めばいいかわからないが、「橋」「箸」と漢字を使えば発音するのには困らない。漢字がアクセント記号の代わりにもなっているともいえる。また、漢字がなくても、文脈があればたいていわかる。「このはし渡るべからず」と書いてあれば、一休さんでなくても「箸」ではないことぐらい察することができる。