散文

地獄の言語学入門(10)

さらに音声学には実利的な側面もあるのを見逃してはならない。これは獄中だけにかぎったことではないが、獄中においてもっとも利益を生ずる。

音声学を学べば、世界中のいかなる言語音であれ、人間であるかぎり原理上は誰でも発音できるということがわかるようになる。そして、音声学を通じて発音の仕組みを学ぶことによって、音声学を学んだことのない人よりも、異言語の発音を模倣することがずっと容易になる。

つまり、あなたは初めて出会った異言語の話者の言葉の断片を、その目の前でほぼ正確に繰り返すことができるのである。これがいかなる効果を生み出すであろうか。

ひとことで言えば親しみだ。

あなたの見事な真似っぷりを見たその異言語の話者は、あなたに親しみを感じずにはいないのだ。これはその言語がマイナーであればあるほど効果を発する。なかには感極まって「ブラザー!」と呼びかける者もいるくらいだ。ただし、当然ながら、英語ではこの効果はほぼゼロだ。

さて、この音声学的実演がもっとも効果を発するのが牢獄内だ。獄中はさまざまな言語の話者で溢れていることをすでに指摘した。英語や中国語は言うに及ばず、なかには聞いたこともないような言語の話者が、牢名主としてふんぞりかえっている場合だってある。

そんなとき、その牢名主にへりくだりながら近づいて、その言語の挨拶かなにかを、音声学的に正確な発音でうやうやしく真似したらどうなるだろうか?

たちまち牢名主のお気に入りだ。

パンのかけら、スープの残り、タバコの一本にもありつけるかもしれない。音声学が暮らしを向上させた瞬間である。

苦い文学

しがらみのない政治

吉田百郎がついに県会議員に当選した。「しがらみのない政治」というたったひとつの政策を提げて、利権と忖度にまみれ、裏金と暴言に毒された県議どもに挑み、勝利したのだ。

「みなさんのおかげでしがらみのない政治がついに実現しました!」

当選の一報を受けて、吉田は事務所でこう語りかけた。目の前には、吉田が立候補表明して以来、全力を尽くして選挙を戦ってきた支援者たちが満面の喜びを浮かべて詰めかけていた。熱烈な拍手が沸き起こった。

そのとき、これらの支援者を前にして、吉田百郎は、あらゆる応援を捨て去った。ちょうど蛇が皮を脱ぎ去るようなものである。さらに吉田百郎は、有権者の票を捨て去り、諸々の県民と県の諸々の問題を捨て去った。ちょうど蛇が皮を脱ぎ去るようなものである。

こうして吉田は、あらゆるしがらみを脱し、それにより有漏にして有為なる世界を択滅した。そして、無為にして無漏なる涅槃へと到達し、解脱に至った。

なお、県選挙委員会によれば、吉田百郎の失職にともなう補選は、今月17日に告示され、24日に投票が行われる予定である。

苦い文学

iPhone の修理

iPhone の背面が割れてしまったので、彼は丸の内の Apple Store の予約をとった。時間ぴったりに行き、店員に見てもらうと、3 時間ほどで修理できるという。彼は携帯を預けて Apple Store を出た。

どうやって時間を潰すか。彼は丸の内は不案内だったから、電車でとりあえず秋葉原に行くことにした。東京駅に行くが、彼は Suica がないことに気がついた。iPhone に入っていたのだ。慌ててバッグを探したが、現金はまるでなかった。

そこで、彼は喫茶店にでも行こうと考え、東京駅の外に向かって歩き始めたが、すぐに現金がないことを思い出した。こうなったら、散歩でもしよう、と彼はぶらぶらと歩き出した。その日は晴れて、気温の高い日だった。

散歩をしばらくすると、彼は時間が気になってきた。もうそろそろ引き返したほうがいいかもしれない。時間を見ようと彼は iPhone を探し、ないことに気がついた。

「時計を見つけよう」 彼は歩き回って探した。しかし、どこにも時計はないのだった。そして、さまよい歩いているうちに、自分がどこにいるかわからなくなった。

彼は、地図で自分の位置を確認しようと iPhone を探したが、なかった。

困り果てた彼は、家族に電話をしようと iPhone を探したが、なかった。

喉が渇いてきたので、自販機でお茶を買おうとしたが、iPhone も現金も、なかった。

「公園なら、水が飲めるかもしれない」

彼は探し始めたが、どこにあるか見当もつかなかった。太陽はますます照りつけてくる。汗が止まらない。渇きと飢えで、彼は頭がくらくらした……そして、それきり彼は行方しれずとなった。

10 日後、彼は上野動物園の猿山の中腹で遭難しているところを救助された。

苦い文学

心の時代

かつての日本はエコノミック・アニマルと揶揄されたように、経済一辺倒で、人間性など省みる余裕はなかった。

しかし、社会が成熟するにつれて、経済効率主義に対する批判がなされるようになり、同時に心や人間性というものが見直されるようになった。

そして、いまや心の時代が到来したといってもいいくらいだ。これまで経済的な観点からは解決できなかった問題も、心という観点から取り組めば実に簡単に解決することがわかったのだ。

たとえば我が国を高齢化だといって批判する人がいるが、そうした人は、心が若い人は何歳だろうと高齢者とはいえないことを知らないのだろうか。心の年齢を考えれば、我が国はまだ生まれたてなのである。

また、中国経済の発展や韓国の影響力の拡大を見て、我が国を非難する人もいる。我が国の経済的地位が低下し、社会が貧しくなっているというのだ。だが、そうした人は我が国の国民の心が世界一豊かであるという事実を故意に無視しているのである。

さらに、我が国の女性の地位が低いなどと言いがかりをつける人がいる。そうした人々は、我が国の女性議員の割合が他国に比べて低いことを証拠として挙げるのだが、実に不当なことだ。

というのも我が国の国会議員の半数以上は心が女性だとしたらどうだろうか。それでもそんな批判ができるものだろうか。むしろ女性のほうが多いくらいだというのに。

実際、我が国ほど男女の平等が進んでいる国はないのである。

苦い文学

帝国欲

ロシアがウクライナに攻め込んだのには、ロシア帝国が君臨していた時代をもう一度復活させたいという、プーチンの野望があるのだと、しばしば言われる。

この野望は、時代錯誤の妄想といわれるが、果たしてそうだろうか。

というのも、今の世界では、帝国復活が一大ブームなのだ。その筆頭に挙げられるのは、中国だ。

まったく、今の中国の膨張政策や強権主義を見ていると、かつて世界の中心であった中華帝国を復活させようとしているかのようなのだ。

また、トルコのエルドアン大統領も、かつてのオスマン帝国を復活させようとしているという。こうした政治的立場を「新オスマン主義」というのだそうだ。

それに、我らがビルマ軍事政権だって例外ではない。現在のビルマ民族による少数民族支配を正当化しているのは、「植民地化以前のビルマ王国の時代からビルマ人は非ビルマ民族を支配してきた」という歴史観だ。

おそらくこうした傾向のある国は他にもあるだろうから、そうなると帝国復活をアナクロニズムだと簡単に決めつけることはできそうにない。

となると、気になるのは、帝国界の末席に連なる我が国の動向だ。

帝国欲がまたぞろ湧き出てきて、「ロシアと手を組んで大日本帝国を復活させるべし」などと声高にいう人が現れても、まったく不思議ではない状況なのだ。

旅・観察

おもてなさぬの品川入管記(4)

 私たちに渡された紙は2枚。いずれにも無慈悲なトラップが仕掛けられていたのであった。

 1枚目は次のようなものだ。

           質問票(Questionnaire)

質問:あなたはこれまでに、日本で難民不認定処分を受けたことがありますか。
(英語、フランス語、シンハラ語、ミャンマー語、ベトナム語、トルコ語、ネパール語、ベンガル語、インドネシア語、カンボジア語、中国語、ウルドゥー語、アラビア語、ペルシャ語の訳文)

       □はい      □いいえ
(英語、フランス語、シンハラ語、ミャンマー語、ベトナム語、トルコ語、ネパール語、ベンガル語、インドネシア語、カンボジア語、中国語、ウルドゥー語、アラビア語、ペルシャ語で「はい」「いいえ」)

◆注意事項(NOTICE)◆

事実ではない回答をした場合、すぐに難民認定申請を受け付けられないことがあります。
In case of false answer, your refugee application might not be accepted soon.

作成日              氏名
DATE:               NAME:

 これは要するに、一度不認定になった人が「再申請」するのかどうかの確認のための質問票だ。もちろん読めばわかる。だが、世の中には読んでもわからない人もいるし、慌てるということもある。もし、再申請にもかかわらず、うっかり「いいえ」にチェックをつけでもしたら、はいそれまでよだ。

 なるほど「すぐに難民認定申請を受け付けられないことがあります」程度の被害かもしれない。だが、この「すぐ」は、イエスの「神の国は近づいた」と似た、終末論的な色彩を帯びた「すぐ」だということに留意しておいたほうがいいだろう。つまり、やってこない可能性だってあるのだ!

 とはいえ、こんなものは大したトラップではない。入管神学者の言葉の遊びだ。入管としてもひっかかってくれたらラッキーぐらいなものだ。

 しかし、もう1枚の紙はといえば、そこから放たれる「頼む! ひっかかれ!」の圧のあまりの凄さに、私はひと目見ただけで、ぶるぶると震えだし、失禁し、そのまま気を失ってバタリと倒れたのでした!