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道を渡りし者(8)

いや、別にこの町を出るのに、駅や道路を通らなくっちゃいけないわけではない、と暗い草原を駆け抜ける自分を想像していたとき、私の携帯にメッセージが届いた。それは上司からだった。

《いったい何をしでかしたんだ。契約を打ち切ると、先方が激怒してこっちに連絡してきた。事態を収集するまで戻ってくるな。さもなければ》

今日会った社長は市長派だったのだ! 赤信号を無視したばかりに、いま私は職を失おうとしている。これはいったいどういうことだ……。

「いや、ちがう! 簡単じゃないか!」 私は叫んだ。急にわかってしまったのだ。

「吉田さん、なんてことはないです。明日、10時にその赤信号に行きましょう! 平気ですよ。渡らなければいいのです。赤信号で待ち、青信号で渡ればいいのです! これで私はただの人間になり、すべては元通りになります。平穏無事にこの町を出ていけるでしょう」

だが、吉田の深刻な顔つきは変わらなかった。「ええ、私もそう考えていたのです。それしかないといえます。ですが、ただひとつ問題があるのです」

「なんです」

彼は言いにくそうに口を歪めた。「だまされたと怒り狂った暴徒があなたを吊し上げ、八つ裂きにすることでしょう……」

進むも地獄、進まぬも地獄。いまや赤信号も青信号も私を苦しめにかかっている。

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道を渡りし者(7)

扉を開けると、罵声とともに若い男が姿を現した。

「おまえか!」と私を指さした。「インチキ野郎め! どうやってだまくらかしたか知らねえが、この俺には通用しない! ペテン師め!」

吉田がとりなすように闖入者に駆け寄り「野上さん! そんなことはありません。誤解なんです。誰も渡ってはいませんよ」

「うるさい!」と一喝するとは再び私を睨んだ。私は彼がかなり酔っていることに気がついていた。「いいじゃねえか! 上等だ! 明日、どっちが本物かどうか、決着をつけようじゃねえか!」

「野上さん、それは!」と吉田。

「黙れ! こいつは俺たちの町をコケにしたんだ。俺たちの町をバカにしやがったんだ! 絶対に許さないぞ! 明日、午前10時だ! 国道の薬屋の信号にこい! どっちが本当に奇跡を起こせるか、勝負だ!」

そして野上は「逃げても無駄だぞ!」と捨て台詞を吐きながら、来た時と同じように騒がしく夜の闇の中に消えていった。

私はことの次第がいっさい理解できず、吉田の青ざめた顔を見つめるばかりだった。彼は喘ぐように言った。

「あそこはひっきりなしに車が通る道で、赤信号で渡ることなどできない。死だ!」

「吉田さん、あいつは、あの狂人は誰なんです」

「あれは……現市長の野上さんのひとり息子、章雄だ……札付きのドラ息子だ」

「てことは……」

「市長があなたを潰しにかかってきた、ということだ。ただ……」

「ただ?」

「章雄は素行があまりにも悪くて、親父も見放したと聞いていたが……」

「なんにせよ、逃げるしかない!」と私は慌てて玄関に向かった。

すると吉田はため息をついてソファに腰掛けた。「もう無理です。駅には市長の一派が待ち構えていることでしょう。この町を出るあらゆる道路もいまごろ警官が目を光らせているはずだ。あなたはこの町から出ることはできないのです」

町全体が赤信号になって私を足止めしようとしているのだ。そして、私は、赤信号を渡る勝負に警察が協力しているというこの町の異常性に震えるばかりだった。

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道を渡りし者(6)

「へえ、そうなの」と私が男の子に返すと「そうだよ。市長が渡ったんだ」

「今の?」

「うん、市長すごいんだ。それでみんなが市長に選んだんだ。学校で習ったよ」

吉田が割って入った。「黙りなさい。大人の話に口を挟むんじゃない」

息子を追い払うと、吉田は苦々しげな顔で言った。

「市長が渡った。そう言われているのですが、これははなはだ疑わしいのです。何人かの人々はインチキだと主張し、回数に入れていないのです。私の見るところ信頼のおける人々です。もっとも、実際のところは分かりません。じつは私はよそ者なので……そうです。私はあなたと同じように赤信号が渡れることを知っているのです。ですが、この地ではひた隠しにして暮らしています」

「まったく信じ難い」と私は少し腹が立ってきた。「赤信号を渡るなどという簡単なことができない世の中などバカらしいではありませんか。むしろ逆に、赤信号を堂々と渡って、ギャフンと言わせてやりたくなりました!」

「ああ、それだけはやめてください。この問題は簡単ではないのです」

「なにが簡単ではないんです」

「市長ですよ。市長は赤信号を渡るという奇跡を起こしたことにより、今の権力の座に着いたのです。お分かりですか。この町で赤信号を渡るということは、市長に対する挑戦とみなされるのです」

私は思わず唸った。

「だから、私はあなたをここにお連れしたのです。あなたは市長の支持者に殺される可能性だってあったのですよ」

吉田はそれきり口をつぐみ、まるで心の中に灯った赤信号を凝視するかのように考えに沈んでいた。私もやはりこの異常な1日を振り返らずにはいられなかった……。

もうずいぶん前から騒ぎ声が聞こえなくなっていた。吉田の言うとおりだったのだ。外を見ると、闇が黒い液体のように家を浸しつつあった。吉田は急に鋭く息を吸った。

「もう、大丈夫でしょう。今からなら、余裕で東京に帰れますよ」

私はカバンを手に立ち上がり、こわばった体を伸ばした。

「駅までお送りしましょう」と吉田が言ったとき、扉が激しく叩かれ、その向こうで誰かが怒鳴った。

「おい! 出てこい! そこにいるのはわかってるんだ!」

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道を渡りし者(5)

男はこれまでの非礼を詫びながら、吉田と名乗った。

「今、この私の家にいれば安全ですが、あのまま外にいたら危なかったのですよ。人々はあなたにむりやり赤信号を渡らせようとしていたかもしれません。車がビュンビュン走っているのもおかまいなく、ね。それどころか、手荒いことをしでかす連中だって黙っていないでしょう。あなたはこの町をひっくり返しかねなかったのです」

「しかし、まったくなぜなんです。車の通っていない赤信号を渡っただけではないですか。それともほかに私がなにかしたとでも?」

「いいえ、まさしく赤信号です。この町では赤信号では人間は止まるものと決まっているのです」

「いや、日本中どこでもそれは同じですよ。交通ルールは一緒なのですから。ですが、車も走っていないのに立ち止まっているのは、時間の無駄ではないですか」

「これは私の言い方が良くありませんでした。この町では、赤信号では人間は止まるべき、とか、止まらねばならない、とか、そんなものではないのです。それは倫理の問題です。町の人間にとって、赤信号はただ単に渡れないのです。それは私たち人間が、水の上を歩けない、あるいは、空を飛べない、といったことと一緒です。そうした意味で、この町では、赤信号では人間は止まるものと定められているのです」

「だから、町の人々は奇跡だと……」

「そのとおりです。それは奇跡、奇瑞なのです。この町では、有史以来、人間が赤信号を渡る奇跡が2回あったと信じられています。ひとつはこの町にやってきた弘法大師が旱魃に苦しむ村人たちを救うために祈祷を行ったさいに、赤信号を渡ったと言われています」

「そんな昔に赤信号が!」

「ええ、意外に古いのです」

「2回目は、いつだかの大震災のさいに、赤信号のため逃げられずにいる人々を、観音様が不思議な力で渡らせて、無事に避難させたということです」

「ありがたや……しかし、たった2回とは……」

「2回です」

そのとき、先ほどお茶を運んできた少年が後ろから口を挟んだ。

「2回じゃないよ、3回だよ。みんな言ってるもん」

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道を渡りし者(4)

私が呆然としていると、男は私の肩に手を置き、居間のソファに座るようにうながした。10歳ぐらいの少年がお茶を運んできた。私が口をつけると、再びものを投げつける音が聞こえた。

「大丈夫」と男。

「突き破ってくるのでは?」

「そのようなことはありません。赤信号を渡ることのできない人々にそのような蛮行が果たしてできるでしょうか。しばらくすればみな立ち去るでしょう」

「赤信号! いったい私が何をしたというんです」

「それは、もちろん、赤信号を渡ったからです」

私は絶句した。「それだけでこんな騒ぎになるなんて!」

「大丈夫ですよ。そのうちにいなくなるでしょう。今、あの人々がどんなふうに考え始めているかわかりますか? 自分が見たことがだんだんぼんやりと、それこそモヤにかかったようになってきているのです。あんなありえないことが本当にあったのだろうか? 夢では? 疑いがじょじょに大きくなってきているのです。しかも、私たちの町にはいくつかの理由から、そうしたことは起こり得ないし、起こってはいけないと、考える人たちがいるのです。あの中にもいます。すると、人々は互いに、だんだん、無意識のうちに、いや意識的にといってもいいでしょうか、異常な出来事を否定にかかるのです。見間違いでは? 目の錯覚では? いや、確かに青だった。赤なんかじゃなかった! というか、そもそもあそこに信号などなかったぞ! そうだ、道すらなかった! なーんだ、と……。もう少しお待ちになってください。そのうち、自分たちがなぜこの家の前にいるかも忘れてしまい、散っていくにちがいありません」

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道を渡りし者(3)

男は私を連れて、住宅地の細い道路に入り込んだ。

おかしなことに男は私を決してまっすぐ歩かせなかった。右、左と何度も曲がり、まるで迷路をさまようかのようにくねくねと住宅地の内部に進んでいった。はじめは群衆をまくためにこんなことをしているのかと思った。だが、追跡者たちのひとりが私の背後でこう叫んだとき、そうではないということに気がついた。

「こっちのほうには信号がない! あっちのほうに行かせて、もう一度見せてくれるように頼もう!」

男は、私が信号を渡らなくて済むような道を選びながら目的地に向かっていたのだった。

そして、このころには私は、熱狂しながら自分についてくる人々のことが怖くなっていたから、男にひっぱられるまでもなく、むしろ肩を並べて、いや早足で追い越さんばかりだった。

やがて、男はとある民家の前で足を止めると、門に入り、玄関のドアを開けた。

「さあ! 早く!」

私が飛び込むと同時に男はドアを閉め、素早く鍵をかけた。

外では人々が家の前に集まってきて騒ぎだした。「あーかしんごっ! あーかしんごっ! あーかしんごっ!」と、手拍子をとっている。誰かが空き缶かなにかを投げつけ、恐ろしい音がした。

私はもう生きた心地がしなかった。

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道を渡りし者(2)

その恰幅のいい男は、私を無理やり人垣からひっぱり出すと、そのままどこかに連れて行こうとするのだった。

「さあ、早く行きましょう!」

私は腕を掴んだ男の手を振り払おうとしたが、彼はいっかな離さなかった。

「こっちです!」

「いったいどこに行こうというのです。私は駅に行かなくてはならないのです」

時計を見ると午後3時まであと少しだ。だが、男は「見てください」と、後からついてくる人々を目で示した。いつの間にか増えたようで、人々は私を指差しながら、「奇跡だ!」「神業だ!」「魔法だ!」と口々に叫んでいるのだった。

「もうこうなったら無理でしょう。しばらく私の家で待つしかありません」

「しばらくって!」

「町の人々が落ち着くまでです。大丈夫、今日中に電車に乗れますよ。あんがい忘れっぽいんですから。ただ、今、ひとりで駅に行こうとするのだけはやめてください。危険ですよ」

「危険だなんて! いったいどういう危険が?」

私は尋ねたが、男はそれきり口をつぐんでしまい、ただ私の腕を掴んだまま、群衆から逃げるように歩いていくのだった。

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道を渡りし者(1)

ある仕事で、とある地方都市に行ったときのことだ。

意外に用が早く済んで、どうやら午後3時の電車に乗れそうだった。そうすれば、暗くなる前に東京に着くだろう。私は急いで駅へと歩いたが、途中、目の前で信号が赤に変わった。

左右を見るが車が来る気配もなかったので、私は立ち止まらずに横断歩道を渡った。そのとき、周囲から叫び声が上がった。

前の歩道で信号を待っていた男が叫んだ。「なんてことだ! 赤なのに渡ってるぞ」 私の背後でも誰かが叫んだ。「すごい! すごい!」

私が渡りきると信号が青に変わり、その瞬間、どっと人々が私を取り巻いた。私は自分の行為を咎められるのかと思い、恐怖に襲われたが、人々の顔にはいかなる怒りも憎しみなかった。ただ、そのかわり、驚きと興奮があった。

人々はみな顔を上気させながら私を質問責めにした。「いったいどうやったんです?」「どこからおいでになったのです?」「私にもできるでしょうか?」

しまいには「なんという勇者だろう!」「ヒーローだ!」「魔法使いだ!」などと私を褒めそやしだした。手を打ち鳴らす者もいた。もしここで、ひとりの恰幅の良い男が私を人々から引き離さなかったら、胴上げが始まっていたかもしれない。