旅・観察

現代のフダーウィー:チュニジアの語り部(1)

 フダーウィー(Fdaoui)というのは、チュニジアの語り部のことで、私がこのフダーウィーにどんなふうにして出会ったかについて書こうと思う。

 だが、その前に、チュニジアの言語と文化について簡単に述べておこう。

 アラビア語には大きく分けて2種類のものがある。1つは、コーランの言語の特徴を受け継ぐ文語アラビア語だ。この言語はイスラームの宗教・政治などの公的な場面で用いられる言語であり、多くのイスラーム諸国で公用語とされている。

 もう1つは、口語アラビア語、すなわち、日常生活で用いられるアラビア語だ。現代アラビア語方言ともいわれるこの言語は、文語アラビア語とは異なり、公的な場面で用いるものではないとされる。そのため、文語アラビア語に比べて価値の低いものと考える人もいる。しかし、文語アラビア語が学校で学ぶ言語であるのに対し、この口語アラビア語は自然と身につける「母語」だ。だから、その方言が話される地域の言語生活や文化を知る上では重要な価値を持つ。

 現代アラビア語方言は、中央アジアからアフリカまで広い地域で話されており、遠く離れた地域では互いに理解することができないほど異なっている。チュニジアの方言は、リビア、アルジェリア、モロッコなどの北アフリカ諸地域の方言とともにマグレブ方言に分類される。チュニジア内部にも様々な方言があるが、チュニス方言は首都チュニスの名がついていることからも分かるように、この国を代表する方言で、チュニジア方言といえばふつう、チュニス方言を指す。

(つづく)

モナスティールの墓地(2019/08)
散文

コロナ・ネイション

 一年ぐらい前から、息苦しさというか、胸の辺りの圧迫感を感じるようになった。血圧が高めなのでそのせいかと思ったら、違うようだ。10日間のチュニジア訪問から帰ると、ますます強く感じるようになった。もしかしたら呼吸器系の病気かもと思って、近くの病院に行った。

 初診の受付で
「息苦しいのです」
 といったら、どこからともなく看護師が現れて守衛室のようなところに監禁された。コロナを疑われているのだ。検温と問診。10日前にチュニジアから帰国したというと、すぐに追い出された。熱も咳もないし、息苦しさはコロナ以前だったが、問答無用でつまみ出されたのだ。

 病院の裏口で途方に暮れてうずくまっていると、ひらひらと紙切れが舞い降りてきた。手に取ってみると、「帰国者は保健所に電話せよ、さまなければ酷い目に遭うぞ」と記されている。
 私はただちに電話をかける。

 「はい、保健所です」
 「えー、帰国者の殺処分はこちらでしょうか」
 「は?」
 「いえ、帰国者はさっそくこちらに電話せよと言われたもので。病院に行ったのですが、診察してくれなかったので、どうしたらいいかと思ってお電話を差し上げたのです」
 「そうですか、でどちらに行ってらしたのですか?」
 「チュニジアです」
 「チュニジアですか……まことに残念ですがコロナ検査は受けられません」
 「いえ、別に検査を受けたいのではないんです。診察を受けたいんです」
 「どちら経由ですか」
 「ドバイ経由です」
 「うーん、中国をかすりもしていませんよ。それでよく検査を受けようだなんて思いましたね!」
 「いえ、そうではなくて」
 「せめて中国に片足なりとも突っ込んでおられたら違うんですがね……」

 いやはやコロナにあらずんば人にあらずだ。
 翌週、別の病院に電話して事情を話すと、診察してくれるという。肺のレントゲン、肺機能検査、心電図、心エコー、これらの検査の結果、息苦しさの原因は腹の出過ぎだという診断が下された。

チュニス、2020年3月1日撮影
旅・観察

コロナの壺

楠勝平「おせん」(1966、『彩雪に舞う…』2001、青林工藝舎)

 2月21日から3月2日にかけて、チュニジアに行ってきた。現地を出たのが3月1日だから、9日間ほど滞在したことになる。
 チュニジア行きは、12月に計画したもので、当然ながら、コロナウィルスのことなど頭になかった。
 コロナが広がるにつれ、行くべきかどうかずいぶん迷った。自分がすでに感染していて、チュニジアで発症してしまったり、友人たちに移してしまったりしたらどうしようとか、あるいは、フランスでのアジア人に対する様々ないやがらせが報道されていたから、フランス語圏でもあるチュニジアでそんな目に会ったらどうしようとか。
 そうした可能性のうちもっとも悲しいことだと思われたのは、親しい友人たちが、コロナを恐れるあまり、掌返しで私を拒絶するという事態だった。ふと楠勝平の漫画「おせん」が思い出された。
 貧しい町娘のおせんは、裕福な恋人と戯れている間に、高価な壺をうっかり割ってしまう。するとおせんはその瞬間、顔色を変えて恋人が割ったと責め出すのである。恋人はこれにショックを受け、そして二人の仲も壺のように壊れてしまうというわけだ。
 できればそんな物悲しい経験をしたくはない、と思いつつ訪れたチュニジアであったが、実際は滞在期間中に出会ったどの人も暖かく迎えてくれた。ホテルやレストラン、電車でも不愉快な思いをすることはなかった。コロナの壺は割られていなかったのだ。私と会ったり、そばにいたりするのを不安に感じた人もいただろうが、それをあからさまにする人はほとんどいなかった。
 これは、本当にありがたいことだった。
 それどころか、街を歩くとしばしば「コロナ! コロナ!」という温かい励ましの声すらいただいた。きっと、育ちの良い子どもたちや、前途有望な若者たちに違いない。ただし足早に通り過ぎたのでどうだかしれない。

旅・観察

スーク・イル・ビルカ

 チュニスのメディーナにあるスーク・イル・ビルカ(Souk el-Berka)は、現在は宝石店が立ち並ぶが、かつては奴隷市場であった。チュニジアの口承文芸の「親を売る者」という物語では、少年が馬を買うために親をスーク・イル・ビルカに連れて行って競りに出す場面がある。

 「みんな、新しい着物と馬が必要だ。立派な行列を作ってスルタンの御前に出られるようにな」(と寺子屋の先生が言います)。
 少年たちは喜び勇んで出て行きます。商人の子は帰宅して父に言いました。
 「お父さん、先生がこんなことを言いました。お父さん」
 「息子よ、私になにができるというのかい。昼と夜の食事を才覚するのもやっとなのに」
 少年は泣き出しました。
 「他の子たちはできて、どうして僕だけダメなの。他の子たちは行くのに、どうして僕だけダメなの。みんななんて言うだろう。このままじゃ僕はずっと友達の笑いものだよ」
 こんな調子が、一日、二日、三日と続きまして、ついに哀れな父親は音を上げました。
 「どうしたらいいか教えてやろう。外に出て私を売りなさい。私と引き換えに手にしたもので馬を買うのだ」
 「お父さんを売るだって? 死んだほうがマシです」
 「私を売れと言ったのだ。これは命令だ。歯向かう気かい」
 そこで、少年は父親を市場に連れて行きます。当時は、ビルカ・スークでは奴隷の売買をしておりました。そこにいる競売人に「この老人を競りにかけてください」と言いますと競りの始まりです。

アル・アルウィー物語集第1巻「親を売る者」