旅・観察

外貨の禍い(2)

出国審査カウンターを出たら、そのまますぐにセキュリティ・チェックに進めると思ってはいけない。そこではひとりの制服を着た男が待ち構えていて、行手に立ち塞がるのだ。

「パスポートを見せなさい……」 見せない選択肢があろうか。

黙ってパスポートを渡すと男は奪い取って、こんなふうに尋問してくる。「ドルは持っていないか、ユーロは持っていないか」 そしてその後に衝撃的な言葉が続く。

「もし持っていたら、国外に持ち出すことはまかりならぬ」

もちろん、私とて、チュニジアの通貨が国外に持ち出せないことと、外貨でも持ち出し禁止の額があるのは知っている。だが、それは数十万円の話で、私が持っているのは、ドルとユーロ、日本円合わせて 10 万円にも満たない。そんな額が外貨持ち出しの対象になるとは考えられない。だからもちろん答えは「いいえ、(そんなお金は)持っていません」だ。

すると、男は、リュックを開けという。私は中身を見せる。あるときなどは、脇にあるドアのない小部屋に連れて行かれて、荷物を調べられた。

「本当にないのか?」

「ありません」

本当はポケットの財布に数万円分入っている。そこまで調べられたらおしまいだが、いつか男が諦める瞬間が来る。それは私のリュックの中にどっさり本が入っていたり、医薬品の袋が入っていたりすると、「こいつは貧乏そうじゃわい」と思うのか、パスポートをつっかえして、私を放免してくれるのだ。

旅・観察

外貨の禍い(1)

私はそれほどいろいろな国に行ったことがあるわけではないが、チュニジアはとても良い国だと思う。道の舗装は凸凹で、雨の後には汚い水が澱んでいるし、仕事がなくて若い人は苦労してるしで、さまざまな問題に直面してはいるが、それでも心優しい人々が多く、食べ物もとてもおいしい。そんなわけで今年の夏も私はチュニジアに行くのだが、そういう私にもひとつだけ、チュニジアでとてもイヤなことがある。

それは旅のいちばん最後のとき、チュニスの空港から帰途に着くために出国する時に起こる。

ここで、チュニジアの出国の手続きについてまずまとめておく必要がある。他の国とほとんど変わらないと思うが、おおよそこんな具合だ。

まずはカウンターでチェックインだ。搭乗券をもらいスーツケースなどを預ける。次は搭乗券とパスポートを提示して、セキュリティ・ゲートを通過。すると、出国審査の広間に出る。そこにはいくつかのカウンターが並んでいて、人々はその前で列を作っている。その列に並んでいると、自分の番が来る。審査カウンターにパスポートを出してスタンプが押される。そして、そのカウンターを通過し、その先にあるセキュリティチェックに並ぶ。そこで手荷物検査とボディチェックが終わると、無事、出国手続きは終了。あとは免税店で買い物をしたりして、搭乗時間まで自由に過ごすだけだ。

このプロセスの中で、私がいちばんイヤで、また非常に腹立たしいことが起こる。どこかというと、審査カウンターを出た直後、セキュリティ・チェックの直前だ。つまり出国したのかしてないのか定かでないキワキワの空間で起きるのだ。

散文

灼熱の地

7 月末から 2 週間、チュニジアに行って、いつものように調査を行う予定だ。今回、私が期待しているのは、チュニジア南部で話されているマイノリティ言語の調査だ。「期待している」というのは、必ずしも思ったとおりにいかないこともあるからだ。

調査そのものをどこで行うかもまだ流動的だ。チュニスで腰を据えてするのもいいが、南部に行って実際の生活を学びながらというのもいい。

ただ、問題は暑さだ。「夏に南部に行く」と私がチュニスの人に言うと誰もが口を揃えて「やめろ」と止めるぐらいの暑さだ。私が行こうと思っている村では、45 度を超えるそうだ。

だからその村の人は昼は外に出ない。朝早く起きて朝の 9 時までに放牧を終わらせてしまう。それから家に帰って、夕方の 5 時まで寝るそうだ。村に 3 つしかない食料品店も朝 9 時に閉まってしまう。だから買い物もそれまでに済ましてしまうのだそうだ。

そんなところに行って、人々に迷惑をかけずに調査ができるものなのか、私はわからない。そもそも私の体力が持つだろうか。そう思って、今のチュニジア南部の最高気温を調べてみた。

東京のが高かった。

もちろんチュニジアのほうはこれから上がるのだろうが、にしても大丈夫な気がしてきた。

研究

アラビア語チュニス方言の「情報的に余剰な与格」

 今度の日本言語学会第160回大会で、私は「アラビア語チュニス方言の「情報的に余剰な与格」」というタイトルで発表させていただくことになった。

 与格というのは「〜に」を表す格であるが、この与格には、感情表現に関わる変わった用法があることがいろいろな言語で知られている。チュニス方言でも同様な用法が見られるが、今回の発表ではこの与格が、言わずもがなの余計な情報を表している時に特殊な表現となるということを述べる予定だ。

 しかし、詳しくはサイトを見ていただければ分かるが、新型コロナウイルスのため、大会の開催は中止となった。予稿の公開のみとなるが、発表者の任意参加で、2020年7月1日(水)~7日(火)の間、YouTubeで研究発表の動画を配信することになっている。

 私はまだこの動画は準備していないが、配信に間に合うように学会に提出するつもりだ。今回の学会では動画の視聴は誰でもできるので、また詳しいことが分かり次第お知らせしたい。

チュニスの香水屋
旅・観察

現代のフダーウィー:チュニジアの語り部(7)

 ビデオは、騒がしい場所で撮影したこともあり、聞き取りにくいところもあった。またそもそもわからない言葉もたくさんあった。そこで、今年の2月にスーサを訪問する時は、このビデオのインタビューや語りについてシェドリーさんに解説してもらおうと考えていた。

 2月21日に私はチュニスに着くと、シェドリーさんの友人のJさんにmessengerで連絡を取った。というのも、シェドリーさんはFacebookなどを使わないので。すると、Jさんからこんな返事が返ってきた。

 「シェドリーさんは亡くなりました」

 かくして、昨年の夏の映像記録はかけがえのないものとなったのであった。

 私はスーサに着くと、そのビデオをコピーしてJさんに渡した。映像編集の仕事をしているJさんは、ビデオを編集して、フダーウィーのフェスティバルで上映してくれるとのことだった。

 シェルギーさんのお墓に行きたいと思ったが、スーサの町から少し離れたところにあるというので、今回はやめにした。

 さて、他にフダーウィーの活動をしている方に会いたかったが、Jさんによれば今はスーサにはいないとのこと。そこで彼が紹介してくれたのが、フェスティバルの運営に関わっているLさんというスーサ文化委員会の方だった。Lさんは忙しいなか時間を割いて、フェステバルについて話してくれた。フェスティバルは、例年5月に行われるが、今年は、4月末に開催する予定だという。

 私はLさんにこう言ってみた。

 「僕もフダーウィーとして参加できませんか」

 ちょっと無謀な提案だったが、ありがたいことに快諾してくれた。フダーウィーのことを知りたいのなら、自分でやってみなくては、だ。語るのは日本の民話、そのチュニス方言版ということになった。そこで、今後の手はずなどを決めて、私はスーサを発ったのだった。

 しかし、このコロナだ。4月にチュニジアどころではなくなった。

 はなはだ精彩を欠く私の肩書にフダーウィーが加わるのはまだまだ先になるもようで、それまでは手洗い・うがい・換気に専念するほかあるまい。

(おしまい)

スーサのおしゃれなカフェ、Dar Kmar。ここもフェスティバル中はフダーウィーの舞台となる。
旅・観察

現代のフダーウィー:チュニジアの語り部(6)

 そこで、去年の夏のチュニジア調査のさい、スーサに行ってみることにした。スーサは、チュニジア第3の規模の都市で、それほど大きくはないが、やはり歴史のある都市だ。インターネットの記事によると、スーサの図書館がフェスティバルの運営に関わっているようだった。そこで、地図を見ながら図書館に行ってみることにした。だが、目当ての場所に行ってみても工事中の建物があるばかりでなにもない。しばらく歩いてから、近くのカフェで尋ねてみると、まさしくその工事中の建物が図書館なのだった。改築中というわけだ。

 これで手掛かりが失われたわけだが、歩き回っている最中に、スーサ文化委員会の建物を見つけたので、そこに行ってみることにした。

 建物に入ると、受付らしき人がいる。フダーウィーのフェスティバルとフダーウィーのことを尋ねる。受付の人がフェスティバルについて答え始めると、どこからか1人の年配の男性がふらりと現れて私のそばに立った。なんだめんどくさいジジイが出てきたな、と思う私に、受付の人はこういったのだった。

 「彼もフダーウィーだよ」

 私がフダーウィーに会ったのはこうした次第であった。

 この人はウェルギー・シェドリー(Ouerghy Chedly)という方で、俳優をされているとのことだった。つまり、俳優としての活動の一環として語り部としても活躍されているのであり、伝統的なフダーウィーとは異なる。

 しかし、それはちょうど遠野で語り部として活動されている方が昔の語り部とは異なるのと同じだ。つまり、一度廃れかけた語り部の文化を復興しようという世界的な潮流の中で捉えなくてはならない。

 そして、スーサで毎年開催されているフダーウィーのフェスティバルも、世界の語りの文化の交流発展の場として企画されたものとのことだった。期間中は、アラブ世界の語り部のみならず、ヨーロッパの語り部が、スーサの様々な場所でその話芸を披露する。

 また、語りに関するシンポジウムも開催され、研究発表もあるという。このフェスティバルは、北アフリカでは最初のもので、これまでに19回開催されてきた(ちなみに、ジャスミン革命で騒然としていた2011年には開催されなかったという)。

 さて、その翌日の2019年8月14日、シェドリーさんと彼の行きつけのカフェで会うことになり、その日の午前と、8月16日の午前、彼の友人たちに囲まれながら、フダーウィーについてお話を伺い、また、いくつかの物語をビデオで記録することができた。(つづく)

インタビュー中のシェドリーさん。

旅・観察

現代のフダーウィー:チュニジアの語り部(5)

 アブデルアズィーズ・アルアルウィーというチュニジア人のジャーナリスト・作家がいる。彼は1930年代のチュニジアの近代文学運動(タハト・スール)グループのメンバーの1人であり、チュニジア独立後は、チュニジアのラジオのパーソナリティとして活躍した。特に、1950年代から60年代にかけてラジオ番組でチュニス方言で語った物語群は有名で、これらは彼が自ら聞いたり集めたりしたチュニジアの伝統的な物語からなる。彼の死後、これらの物語を採録した4巻本が出版されたほか、テレビドラマ化されたりし、また現在でもYoutubeなどでそのラジオ音源を聴くことができる。

 これらの物語がどのようなものかというと、子ども向けのおとぎ話もあるにはあるが、その多くが、大人向けの寓話や人情話、笑い話、宗教説話、謎解き物語、歴史物、現代物などで占められている。チュニジアの人々の暮らしや考えを知るためには格好の資料だが、なによりも読んでいてとにかく面白い。

 チュニジアには、かつてはフダーウィーという伝統的な語り部がいた。フダーウィーは、市の立つ日やお祭りの日、あるいはカフェで様々な物語を語るのをなりわいとしていた。現代人であるアルアルウィーは、職業的なフダーウィーではなかったが、彼の活動はこうした伝統に根ざしたものだ。

 チュニジアの伝統的な物語の出版は、アラビア語よりもむしろ、フランス語で多くなされており、その中にもいくつかフダーウィーに関する記述を見出すことができる。フダーウィーは、ラジオやテレビの普及により、姿を消していったとも書かれている。

 私はこのフダーウィーというものに会ってみたくなった。姿を消したというが、遠い田舎でひっそり語り続けているかもしれない。そこで、調査に協力してくれるチュニジア人に、今もフダーウィーがいるかどうか聞いてみた。その答えはといえば、

 「いないね。アルアルウィーがフダーウィーを殺したのさ」

 しかし、この「Video killed the radio star」ばりの言葉だって本当かどうか知れたものではない。私はさらにインターネットでいろいろ調べてみた。すると、チュニスから150キロほど離れたスーサという町で、毎年フダーウィーのフェスティバルが行われているというではないか。(つづく)

アルアルウィー物語集第1巻表紙(第2版)
旅・観察

現代のフダーウィー:チュニジアの語り部(4)

 イスラーム以後の歴史については、私はいくつかの王朝が入れ替わったことぐらいしかわからないが、ハフス朝のイブン・ハルドゥーン(14世紀)とその著書『歴史序説』ぐらいは知っている。チュニス生まれのこの大学者の銅像は、チュニスにきた人なら必ず目にするものの一つだ。もっとも最近は、その前に「I♡TUNIS」という無粋なモニュメントができて、その存在感は弱化しつつあるようだ。

かすむイブン・ハルドゥーン像

 この時期のチュニジアでもうひとつ大事なことがある。アル・アンダルース文化の流入だ。アラブ人はイベリア半島をイスラーム化し、壮麗な文化を築き上げたが、レコンキスタにより15世アルハンブラ宮殿で知られるグラナダが陥落すると、多くのスペインのイスラーム教徒たちが北アフリカに逃亡した。チュニジアもそうで、音楽や建築などさまざまなアル・アンダルース文化がこれらの「難民」たちによってもたらされた。

 難民といえば、もっと古い難民たちも北アフリカにはいる。それはユダヤ人で、かなり古い時代からディアスポラとして北アフリカの諸都市で暮らしてきた。これらの人々も、独自のアラビア語方言の話者で、チュニスのユダヤ人方言に関する研究書も出版されている。

 ハフス朝の後、チュニジアはオスマン帝国の支配下に入り、その結果、多くのトルコ語の語彙がチュニジアの言語に入ることとなった。19世紀後半からはフランスの植民地となり、これは1956年のチュニジア独立まで続いた。フランス語は、宗教以外のあらゆる分野、すなわち行政、文化、教育、出版などで用いられ、チュニジアの言語生活に大きな影響を与えた。それは現在でもそうで、フランス語が流暢に話せることは、あるレベル以上の社会生活を送るためには必須の能力となっている。

 ここで、これまで述べたことをまとめると、チュニジアの言語と文化は、単純に言えば、アラビア語とイスラームであるが、より詳細に見ると、それらは、ベルベル、フェニキア、ローマ、地中海(イタリア、ギリシャ、スペイン)、トルコ文化、フランス文化の影響の上に成立している、長い歴史と多様な背景を持つ文化であることがわかる。

 こうした文化的深みと多様性は、口承文芸の世界にも反映されていて、スペインやフランスの民話との類話もあれば、イソップ物語に似た動物物語もある。千一夜物語でおなじみのハールーン・アッラシードが、いかにもチュニジアらしい舞台背景の中で活躍するといった物語もある。また、ユダヤ人コミュニティで伝承されている物語も多く記録されている。(つづく)

ローマ時代のモザイク(スーサ考古学博物館)
旅・観察

現代のフダーウィー:チュニジアの語り部(3)

 イスラム受容後のチュニジアは、地中海の交易の中心地の一つとして繁栄することになるが、11世紀に、もう一つの大きな事件が起きる。それは、バヌー・ヒラールなどの遊牧民集団の侵入だ。私は歴史についてはわからないので、この事件の背景や影響について言うことはできないが、言語の観点なら少しは言える。

 7世紀にアラブ人がやってきた時、アラブ人は、北アフリカ最初のイスラーム拠点ケロワーンから、各地に都市を作り、広がっていった。そのため、チュニスも、アルジェリア・モロッコの古い都市も始めは似たようなアラビア語を話していたと考えられる。これらの方言は、都市方言(より正確には前ヒラール方言)と言われる。

 しかし、11世紀に侵入してきた遊牧民集団は別のアラビア語の話し手であった。これはベドウィン方言というアラビア語の一種であった。このベドウィン方言と都市方言の対立がアラビア語方言の大きな特徴で、両者の違いをごく大まかにいうと、ベドウィン方言のほうがいろいろと古い特徴を残している。

 さて、これらの遊牧民の侵入の結果、言語についていえば2つの変化が生じた。ひとつは、特にチュニジアで顕著だが、ベルベル人のアラブ化が進んだということだ。もうひとつは、遊牧民と都市住民との間で接触が生じた結果、都市方言がベドウィン方言の影響を受け、変質したことだ。

 しかも、遊牧民集団は複数の部族から成り、そのベドウィン方言も単一ではなかった。そのため、各地の都市方言は、自分たちが接触した遊牧民部族の言語の影響を受けることとなり、もともとは似ていた北アフリカの都市方言はそれぞれ異なる特徴を帯びるにいたった。これが、北アフリカの諸都市の方言に違いがあることの、大きな原因の一つとされている。

 チュニジアの方言についていえば、チュニジアはまさにリビア方言とアルジェリア方言の中間に位置づけられ、チュニジアの南部と北西部にはリビア全域に広がるバヌー・スライムという部族の方言の影響が、中部にはアルジェリア東部に広がるバヌー・ヒラールという部族の方言の影響が見られるという。

(つづく)

旅・観察

現代のフダーウィー:チュニジアの語り部(2)

 チュニジアを含む北アフリカは、かつてはベルベル語を話すベルベル人の暮らす地だった。現在のチュニジアでは、ベルベル語を話す人は、アルジェリアやモロッコに比べると非常に少数だが、「自分の先祖はベルベルだ」とか、「この村はベルベルの村だ」とか、そう言う声もしばしば聞かれるように、ベルベルの伝統や文化に対する意識は強い。

 このベルベル語にはいろいろな種類があり、これらはベルベル語派として、アフロアジア語族という大語族のもとにまとめられている。アラビア語は、このアフロアジア語族のセム語派の言語だ。

 紀元前のチュニジアの地に、やはりセム系の言語を話すフェニキア人の植民都市が建設された。これがかの有名なカルタゴだ。このカルタゴのハンニバルとローマ軍との戦争については日本でもよく知られている。というか、日本人がチュニジアについて知るのはだいたいこのカルタゴを通してだ。チュニス近辺には、このカルタゴの軍港の遺跡や、墓地跡なども残っていて、観光スポットとなっている。

 カルタゴ滅亡後は、ローマの属州となり、これまた大いに繁栄した。ローマ時代の遺跡や、モザイクは現在でもチュニジアの重要な文化遺産の一つだ。古代キリスト教の最大の神学者の1人であるアウグスティヌスもこの時期のチュニジア(カルタゴ)にゆかりのある人物だ。

 7世紀にイスラームが勃興し、北アフリカにアラブ人が侵攻してきた時、最初に建設した軍事拠点とモスクがチュニジアのカイラワーン(ケロワーン)だ。アラブ軍に立ち向かったベルベル人女王カーヒナの戦いとその最後は現在まで語り継がれている。(つづく)

フェニキア文字(カルタゴ時代の遺跡、トフェの墓地、2020年2月)