旅・観察

ベルベル語への旅(1)

私は、いつかチュニジアのベルベル語話者にベルベル語を教わりたいと思っていた。だが、それはなかなか難しかった。チュニジアのベルベル語話者は非常に少なく、チュニスのどこかで偶然出会えるとも思えなかったし、知り合いを辿ってもつながりはなかった。

もっとも、それはベルベル語話者がいなかったということであって、ベルベル人がいなかったということではない。一時期お世話になった人に、先祖がベルベル人だという人がいた。彼は自分の顔を指した。「アラブ人とは違うだろ」

私にはその違いはよくわからなかった。だが、チュニジアには、彼のようにベルベルのルーツを忘れずにいる家族がたくさんいることと思う。それは重要なことで、私にも非常に興味深かったが、ベルベル語を学ぶことにはつながらなかった。

その後、私はチュニスである女性と知り合い、アラビア語を教わる機会を得た。聞けば、彼女もベルベル系の家族の出で、今も南部に一族が暮らしているという。彼女自身はアラビア語しか話せないが、母はベルベル語も話せるとのことだった。

彼女はとても親切な人で、私がチュニジア南部に関心を持っていると知ると、ガベスにいる知人を紹介してくれた。その知人を頼って私がチュニスを出発したのは、2024 年 3 月 22 日のことだった。

(写真:ガベスにある魚のモニュメント)

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チュニジアのベルベル語(5)

近代以降のチュニジアで、ベルベル語の使用が記録されている場所は 4 カ所ある。そのうちのひとつでは、すでに話者がいないとされている。タターウィーンとジェルバは、最近も文献が出ていることから、話者がいることは間違いない。

問題は (b) のガベス西部のマトマータだ。ここにはズラーワ、ターウジュート、タマズラットの 3 つの村があるが、目につくのは 1900 年にドイツで出版されたタマズラットの古い研究ぐらいだ。そのせいか「現在も話者がいるかは不明」などと言われるほどだ。

本当に話者はいないのだろうか?

もちろん、いる。ただ、研究が乏しいか、あっても入手しにくいせいで、あまり知られていないだけのようだ。

ネットを探せば、タマズラットの例文集と語彙集が見つかる。タマズラット出身のベルベル語話者がまとめたものだ。

それに、私自身、2024 年 3 月にマトマータに行ったとき、ベルベル語を話す老人に出会った。もっとも、その人がどこの出身かは聞きそびれた。

そして、2025 年 3 月、私はチュニスでひとりのベルベル人の男性を紹介された。その人は 3 つの村のひとつ、ターウジュートの出身で、私はこの出会いをきっかけに、ようやくチュニジアのベルベル語の世界に足を踏み入れることができたのであった。そのいきさつについては、別のタイトルで書くつもりだ。

(写真:タマズラットの表示。2024 年 3 月撮影)

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チュニジアのベルベル語(4)

ベルベル語の本を手に入れた話のついでにいえば、チュニジアのベルベル語は (a) のガフサ東部では消滅したと考えられている。2 つのベルベル村があり、そのうちのひとつ、セネッドのベルベル語の文法書が 1911 年に出版されている(正式な書名は “Étude sur la Tamazir’t ou Zenatia de Qalât es-Sened”)。著者は Provotelle というフランス人だ。分厚い文法書ではないが、この地域のベルベル語の実態を伝える、ほとんど唯一の文献かもしれない。

私がこの本を手に入れたのも、チュニスの本屋だった。もう 20 年前のことだ。新刊と古書を売っている本屋で、チュニジアで刊行されたフランス語の本が並ぶコーナーで見つけたのだった。製本も緩くなっていて、すぐにもバラバラになりそうだった。もしかしたら 1911 年から買い手を待っていた可能性だってある。私はためらうことなく購入した。そして、その本は私の書架のどこかでさらに長く待たされることとなった。

だが、昨年のこと、その本が急に引っ張り出された。なぜなら、私は運よく、チュニジアのベルベル語を学ぶ機会を手に入れたからだ。この「運よく」を説明するには、まだ触れていなかった (b) のガベス西部マトマータのベルベル語の話に戻らねばならない。

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チュニジアのベルベル語(3)

(d) のジェルバ島は、古代から名の知られた場所で、現在も夏になると観光客でいっぱいだ。私は昔、バスツアーで数時間立ち寄ったことがあるだけだ。また、2023 年の夏に、急にジェルバ行きを思い立って、チュニスの旅行代理店に駆け込んだら、ハイシーズンで航空券はなかった。どうせ、ホテルもレストランもお高いんでしょ、と諦めた。

そんなわけで、私にジェルバでの見聞はないに等しいが、一般には、チュニジアの中でも独自の文化をもつ土地として知られている。ベルベル人がいて、ベルベル語がまだ使われているということだけでなく、ユダヤ人のコミュニティも古くからある。また、あるチュニジア人作家は、ジェルバ人は見栄っ張りなので客間だけを豪華にする、などという話を愉快そうに語っている。

ヨーロッパでもよく知られた観光地なので、ジェルバのベルベル語はチュニジアの他の地域よりも関心を集めてきた。本格的な文法書はないが、論文はそれなりにある。最近でも、ジェルバのガッラーラのベルベル語で物語を記録した本が出版されている(しかも YouTube で音声も聞ける)。

私がこの本を手に入れたのは、チュニスのバルシャローナ広場前の本屋だ。チュニジアのアラビア語方言の本を探していると言ったら、「面白い本があるぞ」と、店主が勧めてくれたのだ。ベルベル語を調べ始める前のことだったが、こういうものは、その時に買わなければ、次に手に入るかどうかわからない。

(写真:ジェルバのベルベル語の物語集の表紙から。上から順にアラビア文字表記ベルベル語、アラビア語、ティフィナグ文字表記ベルベル語)

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チュニジアのベルベル語(2)

チュニジアのベルベル語話者数は正確には不明だ。人口の 1 %にあたる 12 万人とする説もあるが、新しい研究では、その半分ぐらいだとされている。6 万人としても少ないが、もうひとつ重要なのは、チュニジアのベルベル語は、ひとつの言語ではないということだ。いくつもの変種があるため、個々の話者数はもっと少なくなる。

チュニジアのベルベル語は、南部のいくつかの小地域にのみ残っている。だいたい以下の 4 つの地域に分けられる。ガフサ、ガベス、タターウィーンはいずれも南部の都市で、ジェルバ島は有名な観光地だ。

(a) ガフサ東部(トゥマーグルト、セネッドの 2 つの村)
(b) ガベス西部のマトマータ(ズラーワ、ターウジュート、タマズラットの 3 つの村)
(c) タターウィーン(シュニンニー、ドゥウィーラートの 2 つの村)
(d) ジェルバ島(6 つの村)

このうち (a) のベルベル語はすでに消滅してしまったといわれている。もっとも、私自身で確かめたわけではないので、断言はできない。いずれにしろ、現在、ベルベル語が使われているのは (b) 〜 (d) ということになる。(c) のタターウィーンのベルベル語話者は、先行研究を見るかぎり、数百人規模のようだ。私自身、2024 年の 2 月、現地の友人とシュニンニーとドゥウィーラートを旅したとき、ひとりのベルベル語話者に出会ったことがある。

(写真はシュニンニー・ドゥウィーラート間の風景。2024 年 2 月撮影)

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チュニジアのベルベル語(1)

ベルベル語は北アフリカを中心にサハラ砂漠に広がる地域で話されている言語グループだ。使用領域が広大で、交流も限定的なため、各地のベルベル語は独自の発展を遂げてきた。なので、ひとつの言語というよりも、ゆるやかにつながる大きな言語グループといったほうがいい。

もともと北アフリカはベルベル語話者の地域であった。とはいえ、地中海沿岸はフェニキア、ギリシア、ローマと古くから文明が発達した地域だったから、ベルベル人たちはさまざまな民族からの影響を強く受けてきた。

「ベルベル語」というのも、ギリシア語の「バルバロイ」に由来するという。この語は「言葉のわからない野蛮人」のような意味があるため、各地のベルベル人たちはそれぞれもっとふさわしい名称を使用している。

ベルベル人の社会を大きく変えることになったのは、7 世紀のアラブ人の到来と、それにともなうイスラームの受容だ。アラビア語話者であるアラブ人が北アフリカに定住するようになり、アラビア語の使用も広がっていった。アラビア語は、ベルベル語に比べて宗教的にも、文化的にも、経済的にも優位であったから、各地のベルベル人もアラビア語を話すようになり、ベルベル語は徐々に使用領域を減らしていった。

この過程は現在も進行中であるが、さいわいにもモロッコやアルジェリアではまだ大きなベルベル語社会が存続している。また、この 2 つの国ではベルベル語の地位の向上も進み、それぞれのベルベル語が活発に使用されるようになっている。

もっとも、アラブ化が進んだ結果、すでに消滅したベルベル語も多い。また今現在でも、話者数が減少しているベルベル語使用地域もある。そうした地域のひとつが、チュニジアの南部だ。

(写真はチュニジア南部の都市、ガベスの日の出)

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最後の外貨の禍い(終)

私は台に置かれたスーツケースに手を伸ばした。2 人の税関職員に監視されながら、番号鍵のある面を引き寄せ、ダイヤルを回し、3 桁の番号を揃える。重たいスーツケースを両開きにする。

私はそこにいかなる通貨もないことを知っていた。スーツケースの中に入っているのはただ、服とノート、歯磨きなど……そして本だ。空港に来る前に、店員に勧められるままに購入した本だ。その本がスーツケースの片側にぎっしり並べられていた。

だが、それらのアラビア語の書籍は、税関職員が普通のアジア人のスーツケースに見出すものとしては、もっともありそうになかったものだろう。

税関職員は不審げにこれらの本を一冊一冊取り上げた。「なんだ? これは?」

男は私に目を向けた。「お前はアラビア語を勉強しているのか」

「はい、少し……」

「これは、マフムード・メスアディじゃないか」と一冊のペーパーバックを手に取った。チュニジアを代表する作家の哲学的小説だ。

「どれもこれもチュニジアの小説だ……ふーむ」

男が興味をそそられている様子に、私はつけ込む好機を見出した。

「小説をお読みになるので?」

だが、男の職員はこの問いを無視した。なぜなら、その目はスーツケースの中の2冊の小説に釘付けになっていたからだった。ハスニーン・ベンアンムーの作品だ。彼は2冊の本を取り上げ、タイトルをチェックする。も、もしや御法度の小説では? 手鎖五〇日ものの? と恐れる私に、不満げな声を投げかける。

「ベンアンムーは7冊の長編小説を書いているというのに、なんでお前は2冊しかもっていないのだ!」

「はっ、次に来るときは他のも買います!」

「よろしい! 終わりだ! もうスーツケースをカウンターに戻しなさい!」

税関職員が小説好きで、そして、チュニジアが文化の香り高き国でよかった!

彼は私にパスポートと搭乗券を返すときこう言った。「たびたびチュニジアに来ているようだな! いつでもウェルカムだ!」

かくて私は虎口を脱し、続く出国審査も無事に通過したのであった。じつに孤独な戦いであったが、運命はそんな私をねぎらうことを忘れなかった。ドバイから成田に向かう飛行機では、エミレーツのダブル・ブッキングのおかげで、私はビジネス・クラスに格上げされ、シートでのんびりと寝そべることができたのである。(おしまい)

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最後の外貨の禍い(5)

私がパスポートを渡すと、男は驚くべきことを命じた。

「スーツケースを持ってきなさい」

チェックインカウンターに出したばかりなのに? もうエミレーツのタグがついているのに? 男は私を連れてチェックインカウンターに戻る。男の制服の後ろに「DOUANE」と大きく書かれているのが見えた。税関職員だ。男はチェックインカウンターのスタッフにスーツケースを尋ねる。私は「どうかもう奥のほうに運ばれていてくれ」と願うが、それはまだカウンターの裏にあった。

私はそのスーツケースを引っ張り出して、男の後ろをついていく。男は脇の部屋に私を入れる。女の税関職員がいた。さっき男と一緒にいた職員だ。小部屋の中には大きな台があり、2 人はそこにスーツケースをのせるように命じた。

「いくら持っているのだ。全部出しなさい」と男の職員。

このとき私はリュックを背負い、財布などの入った小さなポーチを肩からかけていた。抵抗するのはかえってよくないと思い、ポーチの中から財布を出し、そこから 1 万円札 5 枚とユーロの札(300 ユーロ程度)を出した。

「こちらに渡しなさい」

これも迷ったが、拒否することはできない。

「これで全部か?」

「全部です」

「他にないのか」

「あ、あります」 私は 30 ディナール(約 1,500 円)ほど入ったビニールの小銭入れを取り出した。チュニジアから持ち出し禁止のこの通貨を自ら差し出せば、多少は心証は良くなるはずとの狙いだったが、税関職員はそれにはまったく興味を示さずに質問してきた。

「本当に持っていないのか? 10,000 ドルは?」

「ありません」

「5,000 ドルもか?」

「ないです」

すると、女の職員が私のポーチを指差していった。

「あのポケットの中にありそうだ」

私は自信をもってティッシュとウェットティッシュを見せた。ここで私は、例の外貨申告書を出す機会が到来したと感じた。私は財布から外貨申告書を取り出し、男の職員に渡した。この公的書類は、確かに効果を発揮したようだった。

「よろしい」と男の職員は言った。「では、スーツケースを開けるのだ!」

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最後の外貨の禍い(4)

空港に着くと、私はエミレーツ航空のチェックイン・カウンターに向かった。カウンターは 8 つあり、1 〜 3 がファースト・ビジネスクラスなどの優先カウンター、4 〜 8 がエコノミーだ。エコノミーの列は長い。私は比較的短そうな 8 の列に並んだ。

進まない列の後ろに立っていると、「荷物係」と書かれた青のベストを着たおじさんが話しかけてきた。

「中国人か、日本人か」

私は面倒くさい雰囲気を感じて黙っていた。「ここに並ばないで、3 番目のカウンターに行っていいぞ」

しかし、私はエコノミーだ。うかつに優先カウンターに移動して並び直しになる恐れもあった。私が黙っていると、そのおじさんは別のところに行ってしまった。

だが、列は進まない。カウンターの前にいるのは子どもを連れた家族だ。彼らが問題なのだろうか? しかし、他の列を見るとやはり止まっている。待つしかない。

あの荷物係のおじさんが戻ってきた。「20 ディナール払えば、私が特別に早く終わらせてあげるぞ」

20 ディナールは千円ぐらいだ。私があいかわらず黙っていると、おじさんは続けた。「たった 20 ディナールじゃないか。じゃあ、10 ディナールならどうだ。5 ディナールでも……」

おじさんは立ち去ったが、私は進まない列の中で、20 ディナールのことを考え続けた。列が止まっているのは、乗客というよりも、カウンターそのものが止まっている感じだ。たとえ、お金を払ったとしても、カウンターに支障があるのなら、どうにもならないものはならない。

カウンターのほうを見ると、スタッフとは別の 2 人の男女が荷物のベルコンベアーのところに立っていた。2 人とも、カーキ色の制服を着ている。なんとなく私を見ているように感じた。

列が動き始めた。並び始めて 40 分後に私はようやくカウンターに到着した。スーツケースを預け、搭乗券をもらう。そのまま出国審査のためのゲートに向かう。だがそのとき、背後から呼びかけられた。

「ちょっと待ちなさい。パスポートを出しなさい」 先ほど私を見ていた制服の男だった。

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最後の外貨の禍い(3)

これから書くことは、本題とはまったく関係ないように思える。だが、外貨の禍いの渦中において意外な意味を持つことになったこのことを語らぬわけにはいかない。

私は 8 月 14 日の 14 時の飛行機でドバイ経由で帰国する予定であった。空港には遅くとも 12 時に着いていればいいから、午前中は自由時間ということになる。そこで、私は荷造りを終えると、本屋に行くことにした。

その本屋はそれほど大きくないがきれいで、アラビア語、フランス語、英語の新刊が揃っている。朝の店内に入り、チュニジア文学と書かれた棚の前に立っていると、若い女性の店員が話しかけてきた。

「どういったものをお探しですか?」

私は特に知識があるわけではないのでこう言った。「なにかおすすめのものはありますか?」

店員は最近のものならこれ、現代の古典ならこれ、といくつか勧めてくれた。また、フランス語の本棚でも面白そうなものを教えてくれる。そのうちの一冊を見ると「アラビア語から翻訳」とある。フランス語に翻訳されるくらいならば、いい作品の可能性が高い。

「このアラビア語オリジナルはありますか」

「ありますよ」と持ってきてくれた。

ハスニーン・ベンアンムーという作家の作品だ。チュニジア歴史文学の巨匠らしい。私は店員の勧めるままにベンアンムーの本を 2 冊、すでに取り分けていた数冊の本の中に加えると、会計に向かった。ホテルに戻り、買ってきたばかりの本をスーツケースに放り込む。それからチェックアウトし、スーツケースを引いて空港に向かった。