苦い文学

iPhone 15

新しい iPhone が発表された。iPhone 15 と名づけられ、もうじき発売だ。

私が今使っているのは5年前に買ったもので、バッテリーも劣化して、ひどい時には1時間で20%以下になってしまう。

画面もヒビだらけだ。端の方が粉々に割れているので、セロハンテープで補修を施してある。しかも、この状態で2年以上使い続けている。

そろそろ買い替え時なのはもちろんだ。というか、今年の初めから9月の発表のときを待っていた。なので発表されるとすぐに予約をした。

もっとも、予約が殺到しているのでいつ手に入るかはわからない。だが、こっちは2年間、待ち続けているのだ。数ヶ月伸びても別に気にもならない。

それどころか、予約した今、新しい iPhone を手に入れるのが怖くなってきた。というのも、そのぶん、自分が死に近づいているような気がするのだ。これは私のように長いスパンで買い換える人間が持つ感覚であり、1年や2年で買い替える人にはわからないかもしれない。

棺に収まった私の写真を撮るのは、どんなバージョンの iPhone だろうか。iPhone 50 PLUS だろうか? それとも、iPhone 83 MAX PRO だろうか?

苦い文学

天国への道

私は死に、ありがたいことに天国行きと決まり、天国の門にいたる行列に並んでいた。

しかし、その行列、並大抵のものではないのだ。ずっとずっと先まで続いていて、天国の門など見えやしない。もしかしたら自分は最後尾なのでは、と不安になって(というのも生前、「最後尾の男」という長編小説を読んだことがあったからで)振り向く。いや、そんな心配などないくらい後ろにも行列が続いていた。

こんなに天国行きの人がいるなどとは思いもよらなかった。もし知っていたら、生前たくさんの人とうまくやることができたかもしれない……。

列は順調に進んでいた。だが、やがて私たちの列に並走する別の列が出現した。その列は私たちと同じように前進していた。そして、2つの列が肩を並べるほどに接近したとき、向こうの列の連中が叫んだ。

「おいおい、割り込みするな。俺たちの後ろに並べ!」

私たちも負けじと怒鳴った。「割り込みしようとしているのはお前らだ。間抜けな奴の後ろに並んだのを後悔するがいい!」

私たちは互いに肩で押し合い、小突きあい、突き飛ばしあった。「ここまできて後ろに並べるものか! 地獄に堕ちろ!」 こう私たちの誰かが叫ぶや、双方の怒りが爆発し、殴り合いになった。

もみくちゃになり、あわやと思わせる瞬間もあったが、私たちのほうがより本当に天国にふさわしかったものらしい。連中は蹴散らされ、ついに後ろのほうに潰走した。私たちは勝鬨を上げた。

「俺たちが本物なんだ! 列の本流を死守した!」

そして、再び列は穏やかに順調に進んでいった。ある地点で列は3つに分かれた。私たちは互いに別れを告げ、それぞれ選んだ列に進んでいった。

そして、さらにその列はいくつかに分かれ、さらに分かれ、分かれ……。

気がつくと私はひとりで暗い坂道を下っていた。

苦い文学

流れ去るもの

この歳になってようやく気がついたのですが、すべてのものは変わりゆき、同じものなどなにひとつないのですね。

もしこの真実を早めに悟っていれば、僕の人生ももっとマシなものになっていたかもしれません。

とはいえ、機会はいつだってあったのです。子どもの頃、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず云々」を読んだとき、どうして僕は理解しなかったのでしょうか。

さらに、貴兄の愛してやまないジョージ・ハリスンの「ALL THINGS MUST PASS」を若い頃からあれほど聞いたにもかかかわらず、その真実は僕の心にまったく響かなかったのです。

ですが、今になって後悔しても遅いのです。肝心の僕の人生そのものがすべて過ぎ去ってしまった今となっては。

しかも、お笑いください。このような死を待つばかりの身となっても、僕はすべてが流れ去るという事実から顔を背けていたいのです。

なんと愚かなことか、とお思いでしょうね、きっと。なにしろ僕自身も呆れているくらいなのですから。

ですので、この途方もない愚かさに免じて、貴兄より毎年お誘いいただいている「夏の流しそうめん大会」を、今年のみならず、来年も再来年もずっと固辞させていただくことをお許しください。

苦い文学

閉じ込め

この夏、近くのショッピングモールに車で行った。駐車場に車を止め、降りてドアを閉めたとき、見知らぬ男に声をかけられた。

「ちょっと待って!」

警備員のように見えた。もしかしたら間違ったところに駐車したかと思い、ドギマギしていると、男は「ちょっとドアを開けなさい」と高圧的に言ってきた。

「なんでですか」

「いや、だから早く開けなさい!」

「だから、その理由を聞いているのです」と私はムッとして尋ねた。

「理由も何もない! 危ないんだ!」 男は私を押し退けると、ドアハンドルに手をかけ、ガタガタさせて開けようとした。

「ちょっと何をするんです」 突き飛ばすと、男は怒鳴った。

「今この瞬間にも中で子どもが死ぬかも知れないんだ!」

「子どもなんていない!」

だが男は食い下がった。「いや、いる! この暑いなか、買い物の間に車に中に放置されてたらまちがいなく熱中症で死ぬぞ! 苦しんで、泣きわめいて、だれにも気づかれずに!」

男は叫び始めた。「助けてください! 子どもが車に閉じ込められています! 助けてください!」

通りかかった人々が叫びを聞きつけてこっちにやってくるのが見えた。私はしかたなくドアを開けた。男は車内をじっくり見て、子どもがいないと納得すると「ああ、助かった」と言って立ち去った。

不愉快な気持ちのまま買い物を済ませ、駐車場に戻った。するとなにやら騒然として、人だかりができている。救急車も止まっている。

「車に閉じ込められていたんだそうだ!」「危うく助けられたって!」 人だかりに入り込むとそんな声が聞こえた。

もしや、あの男が救出したのか。自分の感じた不愉快も、これで埋め合わせがついたかのような気がした。

すると、あの男が担架に乗せられて救急車に運び込まれるのが見えた。ぐったりしていた。

勝手に車に入って閉じ込められたと勘違いして卒倒したそうだ。

苦い文学

不徳

私は犬を飼っている。マンション暮らしなので、たまには自由に走らせてやりたくて、車に乗せてドッグランに連れて行った。

その日は日曜の昼だというのに、奇妙にもほかに誰もいなかった。人の吐息のような湿気のある空気が立ち込めていて、私はしきりに汗を拭った。

それでも犬は元気に走り回っていたが、不意に私のところに怯えて逃げ込んできた。ドッグランのスタッフが大きな黒犬を連れて入ってきたのが見えた。

私は、震える犬を撫でながら、自分自身も得体の知れない不安を感じた。そして、スタッフのほうに再び目をやったとき、彼が連れているのが犬ではないことに気がついた。

それはシェパードほどもある黒い軟体動物だった。

スタッフは私に近づいてきた。その生き物も身をくねらせながらその脇を進んできた。私はとっさに犬を抱き上げた。その生き物はおぞましかった。

「すいません。今日はもう閉園です」と彼は言った。

私はうなずき、彼が連れている「もの」について尋ねた。

「ああ、これはフトクです」

「フトク?」

「ええ、急に訓練しなくてはいけなくなりまして、申し訳ありませんが……」

相手の態度に非日常的なところがなかったせいか、私は好奇心が湧いてきた。

「そのフトクとはなんなのですか? はじめて見ました」

「ああ、まともな人なら見ることはありませんよ。これは、不徳の致すところの不徳です」

「不幸の不に徳川の徳の?」

「ええ、ときどき不徳が不始末をしでかすので、飼い主の方が訓練してほしいと」

私は理解した。「つまり、不徳の致さぬようにしてくれと」

スタッフは笑った。私はその笑い声を聞きながら、犬を抱いて足早にドッグランを立ち去った。「私の不徳の致すところ」とは、こう言う人間にとってみれば「私の犬がやったこと」と言うのと変わらないのだ、という事実に驚きながら。

そして、あのおぞましい生き物がいかに哀れかと気がつき、自分の犬をいっそう抱きしめた。

苦い文学

奇跡

先日、映画館に行ったら、観客席で車椅子の人と男の人が言い争っていた。

二人とも興奮しているので事情がよくわからなかったが、どうやらこういうことらしい。

観客席には車椅子の人が鑑賞できるようなスペースが設けられている。それは観客席の中央にあり、その前は通路になっている。

立っている男はチケットを予約するとき、前が通路の席にしたいと考えていた。というのも、前に座席がないし、足を伸ばせるからだ。

だが、その日のその回は通路前の席はいっぱいだった。そこで、彼は車椅子のスペースの後ろの席を取ることにした。車椅子の客が来なければ、少なくとも前は開いていることになるからだ。

だが、劇場に入ってみると、車椅子の客がいるではないか。そこで彼は車椅子の客が車椅子いらずになるようにと念じに念じた。

すると、奇跡が起きた。車椅子の客がいうには不思議な直感に動かされたということだが、気がついた時にはすっくと立ち上がって、歩き出していたのだという。

彼はそのままポップコーンを買いに行き、戻ってくると、当然のことながら車椅子に座った。これが男の気に食わなかった。

「歩けるようになったのに、車椅子にまた座るのはおかしい!」

口論が始まった。「おかしい」「いや、おかしくない」「普通の座席に座れ!」「いや、この席を私は予約したのだから動かない」

業を煮やした男が、車椅子の客を押し除けて自分が車椅子に座ろうとしたところで、警備員に摘み出された。

このできごと以来、私は奇跡を信じるようになったが、同時に奇跡を信じなくもなった。

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日本版DBS

【ザンゲー通信 記者の論点】
教師による子どもたちへの性犯罪が後を絶たない。

学校だけではなく、学習塾も性犯罪の舞台となった。被害にあった子どもを思うといたたまれない。

このような状況で、我が国でも「日本版DBS」の論議が活発になっている。「日本版DBS」とは性犯罪歴のある人物が学校などで働けないようにするシステムだ。

だが、「DBS」は性犯罪を完全に抑止するわけではないことも指摘されている。というのも、これから新しく性犯罪を犯そうと教職についた「まだ見ぬ性犯罪者」については防ぎようがないからだ。

また、教師による性犯罪の増加も問題だ。この調子だと、たとえ「日本版DBS」が開始されたとしても、もう登録も追っつかなくるのではと懸念されている。

しかも、増加率を考慮に入れると、やがては教師全員登録という事態にもなりかねない。

もっとも、そのときには子どもに対する性犯罪はゼロになっている可能性が高い。というのも、もはや我が国には子どもはひとりもいなくなっているはずだから。

苦い文学

「せよ」の魔力

私たちは「しろ」といわれても絶対にしない。なぜならとても失礼だからだ。

だから、「して」とか「してください」とか「しなよ」とか「しろって」とか、他にもたくさんあるが、こういうふうに言われてはじめて、私たちは「しようかナ」とか「するか」という気分になる。

そのいっぽう、奇妙なことに私たちは「せよ」にはまったくそんなことを感じない。

「せよ」も「しろ」も同じ「する」の命令形なのに、「せよ」と言われても、不愉快にはならないし、それどころかただちに「する!」という気になってしまうのだ。

ある調査によれば、小学校男児30人に「勉強しろ」と言ってみたところ、勉強したのは3人だったのに対して、「勉強せよ!」といったら、28人が勉強をはじめたそうだ。

どうやら「せよ」には不思議な力があるようなのだ。この力ゆえに、私たちは次のような文句をよく目にすることとなる。

「この夏、3Dを体験せよ!」
「新しいポケモンをゲットせよ!」
「次なるミッションをクリアーせよ!」

こういう文句を見るたびに私たちは興奮気味に「する!」と立ち上がるのだ。

とはいえ、注意していただきたいこともある。それは「せよ」の魔力は、男の子か、未熟な成人男性にしか効かないということだ。

女性にはまったく効かない。

苦い文学

うわさレベル

「うわさレベル」という言葉が話題になっています。うわさの「レベル」とはどんなレベルなのでしょうか。さっそく調べてみました!

うわさレベルには0から7までの8つのレベルがあるそうです。ひとつひとつ見てみましょう!

うわさレベル0:まったく聞いたことのないレベルです。例えば、無関係の人々ですね。

うわさレベル1:うわさがあるとかすかに聞いたことがあるレベルです。練習生のレベルですね。

うわさレベル2:うわさを一度くらいは聞いたことがあるレベルです。所属するとこのレベルかも。

うわさレベル3:うわさを一度ならず何度か聞いたことがあるレベルです。関係者のみならず、たいていのマスコミ・メディアはこのレベルで、見て見ぬふりですね。

うわさレベル4:うわさをはっきり聞いたことがあるレベルです。内部のスタッフはこれで決まり!

うわさレベル5:うわさが真実であると確信しているレベルです。ここまできたらもう共犯者?

うわさレベル6:もう「根も葉もないうわさだ」と否定しているレベルです。守るのに必死なレベルですね!

うわさレベル7:「まずい噂が流れている」とおののいているレベル。間違いなく張本人のレベルです!

うわさレベルはこんなにあったんですね!

今回は「うわさレベル」について調べてみました!

「うわさレベルで知っていた」と誰かが言うとき、それがどのレベルなのかをしっかり判定することが大事ですね!

苦い文学

多様性推進局

「多様性は国家の原動力である。国民の多様なあり方が認められる社会であれ」

こう書かれた額が掲げられているオフィスで、私が担当しているのは多様性申請の受理だ。

それはなかなか大変な仕事だった。朝8時半にはオフィスの前に申請者が詰めかけて押し合いへし合いしているのだ。

もっとも、それも無理はなかった。多様性申請が認められないと、就労や給与の点で非常に不利になるのだから。

私はさっそく申請者への対応に取り掛かった。

多様性サービス係に連れられて、今日最初の申請者が前に座った。渡された申請書をざっと見る。「多様性申請の理由」に「同性愛者」と書いてある。

私は彼・女に言った。「あー、同性愛者ですか。残念ながら、これでは通らないですよ。お帰りください」

「そんな、同性愛は認められないのですか」

「ええ、残念ながら」

「多様なあり方を認めるというのに?」

「ええ、我が国にもうどれだけ多様な同性愛者がいると思っているのですか」(申し訳ないが私はもうこの申請者にうんざりしていた。)

「ですが、同性愛者の私は差別されていますよ!」

「ええ、それはあなたがただの同性愛者だからです」

「ただの? ただのってどういうことです?」

「多様な同性愛者があまりにもいらっしゃるので、ただの同性愛者は認められる可能性が低いのです。なぜなら少しも多様性に貢献しないので。では……」

と私が切り上げようとすると、申請者は慌てて引きとめた。

「ちょっと待ってください。私だってただの同性愛者ではありません。こんな経験も、ほら、こんなことも……」

そうやって彼・女は、自分の特別な点を数え上げ、実演してみせた。だが、どれもこれも私がもう何千回も他の申請者たちから見聞きしたものだった。

私はもう耐え難くなった。デスクの下のボタンを押し、多様性サービス員を呼び出して、この申請者を排除してもらった。

おそらく、彼・女はまた来るだろう。この社会に数少ない多様性を引き当てて「ただの同性愛者」ではないということを証明するまで、何度でもやってくることだろう。