ライブ

第十九回 街裏ぴんく漫談独演会「ワンスアゲイン」

昨日土曜日、義太夫節のフリーマーケットで床本を買ったのち、渋谷のさくらホールで開催された街裏ぴんく漫談独演会に行った。あまり考えていなかったが、義太夫節も漫談も語りだ。

といっても、街裏ぴんくの漫談についてそれほど知っているわけではない。ただ、評判がいいので一度、生で聞いてみたいと思っていた。それで独演会のチケットを予約した。ただ、その前に今年の五月七日、にぼしいわしの A-dashi 事務所ライブ「フーフー#5」にも出演するというので、行ってみた。それを見て独演会がますます楽しみになった。

私は語りがどんなふうに成立するかに興味がある。言語的側面から捉えるとやりやすいが、声の調子や表情、動きなどの身体表現なども大事な要素だ。だから、生で見なくてはならない。だから、独演会に行かなくてはならない。遊びではない。だが、そう考えると行きたくなくなるので、遊びとして行った。

そして、独演会はとても面白かった。

街裏ぴんくの漫談はたいてい具体的な地名に語り手がいるところから始まる。そこに何か奇妙な出来事が起きて、語り手が巻き込まれる。同時に聞き手も、街裏ぴんくの提示する少し間の抜けたファンタジーの世界に運ばれていく。

この変な世界は展開自体も面白いが、語り手自身もときどき脱線して余計なことを言い出すのが面白い。しかし、もっとも笑いが大きいのは、奇妙な世界の登場人物が言う一言だ。これがどこかずれていて、吹き出さずにはいられない。街裏ぴんくらしさが出ているピークの作り方だと思った。

また、声色や身振り手振りだけでなく、全身を使って舞台中を飛び回る。これを二時間半続けるのだから非常に大変だ。聞いている方も疲れてしまうので、街裏ぴんくも気をつかって「楽にして聞いてください」と言っていたくらいだ。

義太夫節でも漫談でも、その他の話芸でも、演技や三味線があるとはいえ、中心にあるのは語りだ。その語りだけで、不思議と独特な空間が立ち上がってくる。これが語りの醍醐味であり、私の関心のあるところだ。

街裏ぴんくの独演会にもその不思議な空間が確かに存在していて、彼の着るピンクの衣装が奇妙な輝きを発したり、別の色に見えたりした。

苦い文学

富裕層の習慣

富裕層といわれる方々には、共通する習慣があります。お金を大事にする、無駄遣いをしない、というのはもちろん富裕層ですから当たり前のことですが、このほかにもたくさんあります。なかでも私が富裕層の方々を見るにつけ、いつも感心させられ、見習いたいものだ、と思う習慣が3つあります。それは、新しいことに挑戦する、失敗を恐れない、感謝の心を忘れない、というものです。

富裕層が挑戦? などというとびっくりする人もいるかもしれません。ですが、みなさんも、富裕層の方々が宇宙旅行に飛び出したり、海底探査に乗り出したり、見ず知らずの人々にお金を配っているのをみたことがおありではないでしょうか。お金は、好奇心いっぱいで常にチャレンジしている人に集まってくるのです。

ここで、私がお会いした富裕層のあるお方のチャレンジについてお話しさせてください。この方が関心を持たれたのはまさに「富裕層の習慣」でした。ご自分も富裕層であるそのお方は、富裕層の習慣を実践することで本当に人が富裕層に仲間入りできるのかどうか、果敢にも実験で確かめようと考えたのでした。

このお方は、スラム街に人を送り、数名の貧しい子どもを連れてきました。そして、「富裕層の習慣」を教え込んだのでした。たとえば、時間を大切にする習慣、貯金よりも投資を優先する習慣、モノよりも経験を重視する習慣、グチをこぼさない習慣……その好奇心旺盛なお金持ちは、貧民の子どもたちにありとあらゆる富裕層の習慣を身につけさせると、地下の小部屋に閉じ込めました。そして、ビデオカメラを通じて、これらの子どもたちが富裕層になるかどうか、観察をしたのでした。

結論から申し上げますと、実験は失敗に終わりました。子どもたちは、富裕層になる兆候を見せずに、あえなく飢え死にしてしまったのでした。

私は、富裕層とはなんと素晴らしい方々だろう、と思わずにいられないのですが、その富裕層の方は、失敗したことを残念に思いませんでした。それどころか、喜んだのです。なぜなら、それは新しいことに挑戦した証拠だからです。そればかりではありません。そのお方は、子どもたちへの感謝の言葉すら口にしていたのです!

小説

道を渡りし者(4)

私が呆然としていると、男は私の肩に手を置き、居間のソファに座るようにうながした。10歳ぐらいの少年がお茶を運んできた。私が口をつけると、再びものを投げつける音が聞こえた。

「大丈夫」と男。

「突き破ってくるのでは?」

「そのようなことはありません。赤信号を渡ることのできない人々にそのような蛮行が果たしてできるでしょうか。しばらくすればみな立ち去るでしょう」

「赤信号! いったい私が何をしたというんです」

「それは、もちろん、赤信号を渡ったからです」

私は絶句した。「それだけでこんな騒ぎになるなんて!」

「大丈夫ですよ。そのうちにいなくなるでしょう。今、あの人々がどんなふうに考え始めているかわかりますか? 自分が見たことがだんだんぼんやりと、それこそモヤにかかったようになってきているのです。あんなありえないことが本当にあったのだろうか? 夢では? 疑いがじょじょに大きくなってきているのです。しかも、私たちの町にはいくつかの理由から、そうしたことは起こり得ないし、起こってはいけないと、考える人たちがいるのです。あの中にもいます。すると、人々は互いに、だんだん、無意識のうちに、いや意識的にといってもいいでしょうか、異常な出来事を否定にかかるのです。見間違いでは? 目の錯覚では? いや、確かに青だった。赤なんかじゃなかった! というか、そもそもあそこに信号などなかったぞ! そうだ、道すらなかった! なーんだ、と……。もう少しお待ちになってください。そのうち、自分たちがなぜこの家の前にいるかも忘れてしまい、散っていくにちがいありません」

苦い文学

卒業文集

毎年、全国の小学校で無数の卒業文集が作られるが、これらのうち、価値のある卒業文集はごくわずかだ。

では、その価値のある卒業文集とない文集の違いはなんだろうか。もちろん犯罪者が子どもの時になにか書いているかどうかの違いだ。

しかも、ただ書いているだけでは十分ではない。その後の犯罪と結びつくような一言や、ちょっと風変わりなコメントがあれば価値はますます高くなる。クラスメートが子ども時代の犯人について何か面白いコメントを書いているのにもいいポイントがつく。

あるいは逆に、その後の犯罪の予兆をまったく感じさせない作文もこれはこれで高ポイントとなる。

こうした特徴があれば、昼のテレビ番組でその卒業文集が取り上げられるのは間違いない。文集としてはまずまずの成功といえるだろう。さらに、ジャーナリストがその文集を記事や本で取り上げたらもう大成功だ。

こうしたすぐれた文集にすべく、教師は、日頃から子どもたちの行動に気をつけ、将来的に犯罪を犯すと見込んだ子どもには積極的に作文指導を行うべきであろう。

苦い文学

肛門時代

トイレで噂話をしていると、個室からご本人が登場————-というのは韓国ドラマの「あるある」だ。大ヒットドラマ『愛の不時着』ではこれにひねりが加えられて、楽しいシーンとなっていた。

実は、最近私も個室にいるあいだ同じような経験をして、この時は閉口した。なので、トイレで噂や秘密を言いたくなるのは、日本も韓国も関係ないということなのだろう。

古代ローマの公衆浴場のトイレでは、互いに顔を見ながら排便できた、というが、これは特殊な例で、複数の人間が同時にトイレという施設(あるいは化粧室)を利用すること、そこに連れションしたり、噂話をしたりなどするというのは、近代に入ってからではないだろうか。

幼児はトイレトレーニングを通じて排泄を管理することを学んでいくが、この「肛門期」と呼ばれる時期の経験が人間の性格に多大な影響を及ぼすと考えたのが、フロイトだ。

私は精神分析についてはよくわからないが、われわれがトイレで本当のことを打ち明けたくなるのは、それが一種の排泄であるからだろう。われわれにとって尿や便ほど本当のモノはないのだ。

そして、われわれは普段は軽々しく本当のことを漏らしたりしないのは、トイレ以外のところで漏らさないのと同じだ。

もちろん、一人で排泄するのならば余計なことなど言わないのだが、近代の多人数向けのトイレではそういうわけにはいかない。つい、連れに真実を排泄してしまうのだ。

ここで私は提案したいのだが、例えば裁判をトイレ内でもよおすというのはどうだろうか? そうすれば、誰もが真実を話すにちがいない。

開廷とともに、肛門を開き、閉廷とともに肛門を閉じる。多少の臭いは気になるかもしれないが、そんな時代が来るかもしれない。

(そういえば、アメリカの富豪、ロバート・ダーストが殺人を告白したのも、トイレ内でだった。確かにトイレでは人はさらけ出すのだ。)