研究

Function of the Diminutive in Narrative of Tunis Arabic

Diminutive(指小辞、指小形) というのは、名詞などに「小ささ」の意をつけ加える手立てのことで、日本語なら「刀」>「小刀」、「道」>「小道」の「こ」をつけることがそれにあたる。この Diminutive は単に「小ささ」だけではなく、ネガティブな評価をともなって使われたり(小僧、小役人)、複雑なニュアンスを表すのに使われることもある(こざっぱり、小腹が空いた、こ憎たらしい)。

この Diminutive が、アラビア語チュニス方言の物語の中でどんなふうに使われているかを調べたのがこの発表だ。物語の主人公にとって重要な役割を果たす物が初めて登場するとき、Diminutive で現れる(ことがある)ということを話した。

発表したのは、2024 年 8 月 8 〜 9 日に、ソウルの慶熙大学で開催された The 2024 Seoul International Conference on Linguistics において。

英語での口頭発表ははじめてで緊張したが、質問やコメントもあり、なんとか乗り切ることができた。発表を終えて、大学近くのコーヒーショップでコーヒーを頼んで待っていたら、スピーカーから BOL4 の曲が流れてきた。せっかくソウルに来たのに街歩きもできなかったが、コーヒーと音楽という、ある意味ではソウルの名物を同時に味わうことできて、私は満足したのであった。

(写真:ソウルのビルに映し出された大広告、韓国ならではの二人だ)

苦い文学

ぶつからないおじさんたち

「ぶつかりおじさんという概念が誕生して以来、おじさんたちの外出はますます不穏なものとなった。

そもそも、犬も歩けば棒に当たるの諺の通り、外に出てまったくぶつからないというのはありえない。ことに足腰の衰弱のためフラつきがちで、わずかな凸凹にもつまづきがちなおじさんには至難の業なのだ。だが、不寛容な現代社会は、おじさんが不注意にも他人の肩をかすめた程度でも、「ぶつかりおじさん」のレッテルを貼りつけるのだ。

そこで、おじさんたちが安全に外を歩けるようにするためのいくつかの方法が考案された。

まず、「おじさん歩行中」というステッカーを体中に貼り付け、周囲の注意を促す方法が提案された。だが、これは、おじさんたちの拒絶反応によって迎えられた。「初心者マークじゃあるまいし!」「ヘルプマークなんてみっともない!」 おじさんたちにとって、自分たちが弱者であるという考えは我慢ならなかった。

次に、人の少ないオフピーク通勤の活用が推奨された。だが、おじさんたちはこれもガンとして拒否した。なぜなら自分の人生がすでにオフピークであることを認めるような気がしたからである。

さらに、おじさんがぶつからないようにするためのトレーニングも開発された。柔軟体操を通じて体をほぐし、敏捷性を向上させるためのメニューが開発された。しかし、おじさんたちは「ストレッチなんか女子どものやることだ!」と嘲笑った。自分たちにふさわしいのは、派手でかっこいいものだけだと思い込んでいたのだ。

そこで、もっと運動性の高いトレーニングが開発された。それは押し寄せる障害物を巧みに交わしながら前へと進む訓練法だった。

おじさんたちはすぐさまこの過激な訓練法に夢中になった。おじさんたちはみな「豚だ! 豚!」「少年院の力石徹だぞ!」と興奮したが、若者たちはなんのことかさっぱりわからなかった。

苦い文学

最後の政党

どうして、次から次へと変な政党が生まれるのだろうか。とんでもなく悪辣な政党ができたと思ったら、その次の次の選挙には、それをはるかにしのぐ狂気の政党が登場する。そのせいで、先行する悪辣政党もかすむくらい。いや、悪辣どころか、良識あふれる人々とすら見えてくる。

我が国の政党はこんなふうにエスカレートしていく一方なのだろうか。つまり、悪辣、残虐、狂気、無責任の点で、既存政党を常に超えていく政党が絶えず登場し続けるのだろうか。

もしそうだとしたら、その先の先に現れる政党とは、いったいどんな公約を掲げ、いったいどんな陰謀論に取り憑かれ、いったいどんな選挙妨害を行い、いったいどんな嘘をつくというのだろうか。

すくなくとも、ある段階では、選挙活動として殺人を公然と行う政党が現れるだろう。だが、そんな恐ろしい政党ですら、その次の選挙では、もっと恐ろしく不埒な政党に「良識をわきまえろ!」と怒鳴るようになるのだ。

いったいその政党はどんな政党だろうか。私にはわからない。だが、ずっとずっと先、はるか未来にどんな政党が出てくるかはすこしわかる。

その政党は、選挙活動で大声をだしたり、妨害したり、暴動を煽ったり、殺人をそそのかしたりなどしない。人類と宇宙の歴史を終わらせるために、時の流れにとどめを刺すだけだ。

宇宙が終わる以上、この政党のあとには、もうどんな政党も現れない。そんなわけで、その政党は、最後の政党と呼ばれている。

苦い文学

心のケア

現代では話の終わりには必ず心のケアが出てくる。

「事件を受けて、学校は生徒の心のケアに努めると語っています。では、次のニュースです」

こんなふうな具合だ。

そもそも、私たちは心のケアを持ち出されるともう何も言うことはできない。

心のケアが大事なのはいうまでもないし、大賛成だ。だが、そのいっぽう、私たちは心のケアがいったいなんなのか、どういうことをするのか、まったく知らないのだ。

だから、心のケアが出てくると「これはもう俺たちがどうのこうの言える話題じゃない」という神妙な気分になって、もう話を打ち切ろうという気になってしまう。

だから、面倒くさい話を終わらしたい時などにも「心のケア」が有効だ。たとえば愚痴を聞かされているときなどはテキメンだ。

「心のケアが必要だね……」

これでもう相手は黙ってしまう。怒られている時だってそうだ。

「心のケアに努めます……」 どんな反省よりも効き目がある。

職務質問だって。

「ちょっといい? こんな時間にどこ行くの」

「は、ちょっとそこまで心のケアに……」

苦い文学

未来における光学

未来をさまよいつづける私が辿り着いたのは、木立に囲まれた沼だった。近づくにつれなにやら騒ぎ声が聞こえてきた。

見れば沼には丸い物体が浮かび、その周囲を緑色の人々が忙しく立ち働いているのだった。

沼の岸に立つと、カッパたちだということがわかった。

私が不思議そうに眺めていると、年老いて、頭の皿も干からび気味のカッパが近づいてきて挨拶をした。じつに気の良さそうな顔つきだったので私は尋ねてみた。

「みなさんはいったい何をなさっているのでしょうか」

「私たちカッパにとって重要なプロジェクトが今日はじめて実行されるのです」

「といいますと」

「私たちは人間文明に迫害され、一時は絶滅しかけましたが、今はこのようにカッパの黄金期ともいえる時代を迎えております。私たちは苦難の時代を振り返り、私たちを助けてくれたあらゆる存在に恩返ししようとしておるのです。カッパはもちろん人間にもです」

老カッパは誇らしげに沼の球体を指さした。

「あそこにある物体はタイムマシンです。私たちはあれで過去に赴き、恩人たちに恩返しとしてささやかな贈り物をしようと考えておるのです」

「では、これから過去に出発しようというのですか」 そう言いながら、私は歓喜に震えた。私もこれを使えば自分の時代に戻れるかもしれないのだ!

老カッパは答えた。「ええ、そうです。私たちにとって歴史的な瞬間です」

「で、その恩人とはどのような人でしょうか」

「私たちが最初の恩返しに選んだのは、私たちのことを記録してくれた人間です。『河童』と古代の言語で名づけられたその貴重な記録のおかげで、私たちはいにしえのカッパの生活と意見について知ることができるのです。その人の名前は、なんと言いましたかな、たしか……」

「芥川龍之介では?」

「ええ、たしかそんなような名前でした。アコダガワー……。伝説によれば、アゴダグワーは不幸な人だったらしく、私たちはその不幸を取り除くことで恩返ししようと考えています」

「芥川は自殺したのです」

「ええ、そうです! よくご存知で。古文書によればアグダガワーは『将来に対するぼんやりとした不安』を抱いて自殺したとのことです」

そのとき、沼の中の球形のタイムマシンが回転を始めた。それは速さを増しながら、少しずつ浮かび上がった。

「いよいよですよ。私たちカッパの新しい時代の幕開けです」

私はその不思議な光景を見ながら尋ねた。

「つまり、みなさんは、芥川龍之介の自殺を阻止するために過去へと旅するというわけですね」

「そうです。私たちが用意した贈り物によって彼は自殺を思いとどまり、カッパについてもっとたくさんの記録を残してくれることでしょう」

タイムマシンは恐ろしいほどの速度で回転しながら、奇妙な音を発し始めた。

「その贈り物とはいったいなんなのです」

「最先端のオプチカル(光学装置)ですよ。アギダギワーがこれを目に装着すれば『将来に対するぼんやりとした不安』がくっきりはっきりと見えるようになることでしょう」

その時、タイムマシンが恐ろしい音とともに爆発し、カッパたちの頭の皿がけたたましく鳴り響いた。

たちまち沼は大混乱に陥った。私は背を向けると、未来をさまよう旅を再開した……。

散文

夜が明けたら

 コロナウイルスの蔓延により、小松左京の『復活の日』に関心が集まっているという。細菌によって人類が滅びかける話だ。

 しかし、この状況で小松左京といえば、私が思い出すのは「夜が明けたら」という短編だ。

 この作品では、世界が急に闇に閉ざされ、もう決して朝が来なくなったにもかかわらず、「夜が明けたら」とついつい思ってしまう人間の絶望が描かれる。我々は「コロナが終わったら」と言いつつも、それはもうありえないのではないかとどこかでもう思い始めているが、それと同じだ。

 いつ終わるともしれない自粛生活。これはまた、入管での収容生活にも似ている。もちろん、我々は、家を出ることもできるし、電話も、ネットもある。好きなものを食べ、買うこともできる。だが、入管に収容されている人々のように、これがいつ終わるのか分からないのである。

 この点が刑務所との大きな違いだ。刑務所には刑期がある。だが、入管の収容には、刑期はない。罪を犯して入れられているのではないからだ。だから、出る理由がなくては出られない。そして、その出る理由を決めるのは、入管の誰かで、被収容者ではない。つまり被収容者は自分の運命に対してまったくの無力なのである。

 刑務所の囚人は、頑張れば出られるが、入管の囚人は頑張ろうと頑張るまいと出るのには関係ないのだ。こうした状況で、最低でも1年、長ければ3年以上、収容され続けるのは、どういう気持ちだろうか。どれだけの無慈悲な「夜が明けたら」が繰り返されたことだろうか。

 私はこれらの人々のこうした入管での経験に興味がある。どんなことを考えていたのだろうか。どんなふうに希望を見出したのか。コロナが終わったら、聞きに行こう。いや、終わるのかな……