散文

地獄の言語学入門(1)

この世界に学び、身につけるべきことは数あれど、そのうちでも私が学んだといえるのは言語学だけだ。もっとも、専門家というほどでもないが、それでも学んだことには変わりはない。

言語学というと、一般にどのようなイメージを持たれているのだろうか。私にはよくわからない。そもそも興味をもつ人は少ないし、学べる場所もかぎられている。だから、なにが面白いのかさっぱりだろう。こんなありさまだから、役に立つとも、有益だとも思われてはいない。

それに、近ごろでは AI にすっかりお株を奪われてしまった。言語学が言語の奥義を極めることにありとすれば、それはもうペラペラと倦むことなく喋り続ける AI によって実現してしまったのだ。いまさら言語学になんの用があろうか。しかも、こいつときたら、何ヵ国語でも話すことができる。言語学どころか、語学すら不要になってしまったのだ。

確かに、このありさまでは、言語学などまず学ぼうとは思わないだろう。世間的にいえば、それはもう時代遅れで無意味な学問なのだ。いや、それでいい。学問などそのようなものだ。そもそも全員が全員、価値を理解する必要などない。一部の人だけで十分だ。私はそんな心持ちでいたのだった。

だが最近、私は考えを改めた。言語学をこのような低い地位に放置しておくことは、実はこれからの社会にとってたいへん有害なのだ。(つづく)

苦い文学

手かざし裁判

中学生のころ、私は本屋に行くためにひとりでお茶の水に行き、駅前で「手かざし」にひっかかった。話しかけてきた大人の相手を真面目にしていたら、合掌させられ、その男に手かざしの上、祈られるハメになったのだ。

罠にハマった、と思ったが、かといって逃げ出すほどの勇気もなかった。そのまま白昼、人の行き交う駅前で、いたたまれない思いをしたのだった。

今から思えばどうということもないが、当時の子どもだった私にとってはこの経験は恥辱そのものだった。そして、その日以来、私は街でどんなに声をかけられても無視してしまう体になってしまった。

だが、街での声かけは悪いことばかりではない。ポケットティッシュや試供品を配っているときもある。相手によって臨機応変に対応できればいいのだが、無意識のうちに体が強張ってしまうのだからしょうがない。だから、もう何十年も街でティッシュを受け取ったことはない。おそらく死ぬまで変わらないだろう。

いったいどれくらいの損失だろうか? 仮に1日1個として試算すると、最低でも50万円以上は失っている。しかも、配布されるポケットティッシュには通常、有益でお得な情報が記されたミニチラシが入っている。それにより得られた利益も失われたと仮定すると、もう損失は計り知れない。

「手かざし」教の団体を相手どり、裁判を起こして、必ずや損害賠償させてやる———街でティッシュをもらい損ねるたびに、私はいつも誓うのだ。

苦い文学

本物の富士山(箱根の旅5)

その親切な地元民は、コンビニに群れ集う外国人観光客全体を大きな身振りで指し示した。

「ここにいる外国人をよく見てください。お国がお分かりになるでしょうか。中国、ロシア、ミャンマー、北朝鮮、ベラルーシ……おかしいと思いませんか?」

「ええ、たしかに! アメリカやイギリス、フランスなどの観光客はまったくいないのですね」

「その通りです。つまり、このコンビニにわざわざ観光に来るのは、どうやら権威主義的・非民主主義的な国の人々だけなのです」

「いったいなぜ?」と私が首を捻ると、地元の日本人はただちにその疑問を解消してくれた。

「これらの国では情報は隠されたり、検閲されたりしているのが当たり前なのです。なので、これらの国から来た観光客たちは、富士山を見るのならば、なんの妨げもなく観光できる富士山よりも、遮断されて見えない富士山のほうが、より本物らしく思えるのです」

「はああ」と私は感心して言った。「ちょうど、我が国の政治家が私たちを蔑んでいるので、それが慣いとなって私たちも、自分たちをバカにする政治家でなければ政治家ではないと思い込んでしまっているのと同じですね」

「ええ、そうです。国民を尊重する政治家が現れると、喜ぶどころか、怒り出す体たらくですから、そのうち、日本人もこのコンビニに富士山を見にやってくるようになることでしょう……」

私はこの親切な地元民に礼を言うと、ぜがひでも本物の富士を見ねばと心に決めて、その場を離れた。

苦い文学

最強にハッピーな兵士

僕たちの仕事っていうのは、きついし、理不尽なこともいっぱいある。「配置された小隊で咲きなさい」だなんていうけど、心が折れそうになることもしばしば。

でもそれでもなんとかやっていられるのは笑顔があるから。そう思うと、ホント「笑顔って最強の武器」。この武器があれば、絶対に負けないね。

笑顔になれないときでも、口角を上げることが大切。そうすると自然と心まで笑顔になるし。

「彼は手をあげて志願した。彼は銃口をあげて戦った。そして彼は口角をあげて死んだ」

こんな最後だったらいいね。単に戦うだけじゃダメで、想いがなくっちゃ。それこそ「並の兵士は弾を込めるが、良い兵士は想いを込める」だ。

そのためにも銃はちゃんとしておかなくちゃ。「銃磨きは自分磨き」というから、銃の手入れをしたら、自分らしさに磨きがかかったかな、なんて思ったり。

ハッピーでいるためには自分磨きも大事だよね。自分らしくいたいもの。あと、忘れちゃいけない、大事なのは仲間たち。「ハッピーな兵士の3つの特徴」がまさにそれだと思ってる。

ハッピーな兵士の3つの特徴
①『隊長が推しです!』といえる。
②『仲間も推しです!』といえる。
③『推しのためなら死ねる!』といえる。

絶対死ねる。僕はただの兵士で難しいことはわからないけど、絶対に死ねる。自信ある……

(『将軍を信じなくてもいい。将軍に信じられる兵士になりなさい』より引用)

苦い文学

焼き鳥

私はこれまで愛国心を目の敵にしていたが、なぜだか、急に国を愛する心が湧いてきたのだ。そんなわけで、私は先日、都内69店舗展開中の「酒保しらなみ」に行った。今、話題の愛国居酒屋だ。

私は友人とどっかと席に座り、とりあえずのビールを頼むと、ゆっくりじっくり、つまみの選定にかかった。

名物は、五つの素材の味のハーモニー、八紘シチウだとか。「これを頼まなきゃ、非国民だゾ!、のキャッチフレーズでお馴染み!」とメニューには書いてあるが、いったいCMでもやっているのだろうか。私は友人に聞く。

「この八紘シチウってのにするか」

「まずそう」

「じゃあ、やめるか」と再びメニューを見る。すると友人が聞いてきた。「こっちのはどう? この『鳥かえせ』ってのは」

「『鳥かえせ』? ちょっとメニュー見せて。『店主が拉致被害者の帰還を願いながら丁寧に一本一本焼き上げた当店の特製焼き鳥、鳥かえせ』か。いいんじゃない。頼もう」

私たちは店員を呼んだ。「はい、お待たせしやした」と駆けつけてくる。

「えっとね、『鳥かえせ』、二人前お願い」

「あっ、すいません。終わっちゃってまして、普通の焼き鳥ならできるんですが」

「えっ、焼き鳥ができるんなら、『鳥かえせ』だってできるんじゃない、同じ鶏肉なんだから」

「ちょっと、店長に聞いてみます」と店員、調理場の方に駆け込んで、何やら言葉を交わしているようす。そして、戻ってくるとこんなことを言った。

「すいません。鶏肉はあるんですが、店長の拉致被害者の帰還を願う気持ちが切れちゃってて、ちょっと……」

私たちは、もっと愛国的な居酒屋を探すために店を出た。

散文

日本語教育能力検定試験やよのさ(2)

 この試験を受けようと考えた人が必ず迷う問題がある。それは、どこかの日本語教師養成講座に通うべきか、それとも、独学でやり抜くべきか、という問題だ。

 日本語教師養成講座は安くない。60万ぐらい、いやそれ以上かかる。しかも、420時間だ。1年かけても終わらないかもしれない。これに対して、独学ならば、教科書と過去問代ぐらいだ。集中してやれば……ネットを見ると独学3ヶ月で合格したなんて人もいる。60万なんか払うのはバカらしい。

 確かにそうだが、独学が苦手な人もいるし、忙しかったり、子育て中だったりして時間の調整が容易ではない人もいる。そうした人にとっては、強制的に学ぶ時間を確保できる養成講座というのは、大いに利用しがいのある手段だ。

 だから、どちらがいいかという問題については、誰にでも当てはまる答えなどなく、結局は、独学か教室か、という学習スタイルの違いや、忙しさ、経済的事情、養成講座の場所、ライフプラン、そして好みなどいろいろな要素を勘案して、自分にあったほうを選ぶしかないということになる。

 そして、こうして考えること自体が、実は検定試験の内容に直につながっている。

 ところで、まれにこんなことを言う人がいる。独学で合格できるのだから、養成講座など時間と金の無駄だと。しかし、なんでも独学でできるものならば、そもそも日本語教師などいらないのではないだろうか。

ヤンゴンの日本語学校