散文

ワイルドの『獄中記』を駁す(終)

ワイルドの悲しみの哲学では bitter / bitterness がのけ者にされていた。そのせいで、多少ばかり甘くなっちゃあいないかい、それが本当の realise かい、というのが私の論駁の趣旨だ。その点では、ワイルドの言葉をもじって、こう言ってやりたいぐらいだ。

Whatever is not realised is bitter.

が、だからと言って私は『獄中記』に苦味がないといっているわけではない。ただ、思想にまで昇華されていないだけで、実際のところ、bitter / bitterness でいっぱいなのだ。その意味では、realise されているかもしれない。もっとも、これはワイルドが意図したことではなかっただろう。

さて、bitter / bitterness の物語は、実は『獄中記』の後も続く。出獄後、ワイルドは刑務所の改善のために二通の手紙を書き、新聞で公開されている。手紙は、刑務所内の子どもと精神を病んだ人の処遇の改善などを強く訴えるもので、二通目はとくに「DON’T READ THIS IF YOU WANT TO BE HAPPY TODAY」という見出しで掲載されたほど、刑務所内の「胸糞」な事情が書かれている。これらの手紙も、刑務所内の bitterness にワイルドが与えたひとつの形といえるかもしれない。

現実から生まれた苦さは、現実から離れたとたん別物になる。苦さに苦いまま形を与えるのが、苦い文学とするならば、『獄中記』は、bitter / bitterness を甘く realise できなかったせいで、逆説的に苦い文学となった。私としては、この作品を、苦い文学認定図書第一号としたい。

つきましては、認定シールをお送りするので、レディング監獄の門にでも貼ってください。

風刺・戯文

監視役の選手

プロサッカーでもプロ野球でもいいのだが、あるチームに「選手がたるんでいないか監視するために、レギュラー入りした選手」がいたとしたらどうだろうか。その選手は、チームでプレーするのが目的ではないのだ。試合の間中、チームの他の選手が、気を抜いていないか、あくびをしていないか、ぼんやりしていないか目を光らせていて、もしそうした選手を見かけたら、試合中のどんな場面でもおかまいなく、急行して制裁を加えるのだ。

試合を見ている観客は「私たちはお金を払ってこのチームを応援しているのだから、怠慢プレーなど許せない」とこの選手に大喜びだ。だが、同時に、こんなことも考えずにはいられない。

「この監視役の選手の代わりに、もっと有能な選手を入れれば、試合が盛り上がるのに」

確かに試合は動きに欠けて少し面白くないのだ。すると、ここで監督が立ち上がり、選手交代の指示を出す。観客たちは「そうだ、ここでスター選手に交代だ!」と湧くが、こんなアナウンスが聞こえてくるのだ。

「〇〇選手に変わりまして、監視、〇〇選手」

なんと、監視役が増えたのだ。つまり、限られたレギュラーメンバーに、プレーを目的としない選手が 2 人入ることになる。ますます試合はつまらなくなる。

だが、監督はそんなことおかまいなしのようだ。それからも、次々と交代を指示し、その度に監視役が増えていく。そして、ついに試合に出ている選手全員が監視役になってしまう。

こんなつまらない試合はない、というかもう試合ですらない。なにしろいるのは、監視だけができるが、プレーはいっさいできない「選手」なのだから。ただお互いに監視し合うだけ。観客たちもみんないなくなってしまう。

思うに「議員の居眠りを許さない」ことを公約に掲げる議員というのは、この監視役のようなものだ。こんな議員がますます増えていったら、日本の政治はよくなるどころか、完全に止まってしまうのは間違いない。

そうなったら、我々は不安すぎて、居眠りどころではなくなるはずだ。

苦い文学

成長のタクシー

荒井由美の「卒業写真」ではないが、誰かに叱ってほしいとき、私はよくタクシーに乗ったものだ。

運転手さんたちの受け答えはまるで鋭利なナイフのようで、傲慢な私の精神を削りとってくれた。絶え間ない舌打ちは弛み切った私の精神の姿勢を正した。

そして、近道を決して選ばぬ運転は、人生における遠回りの価値を教えてくれ、かならず水たまりの上で降車させることで、人生には不慮の事態がつきものだと教えてくれるのだった。

だが、最近のタクシーはどうだろうか。運転手たちはすっかりこぢんまりとしてしまい、もはや人生の厳しい教師という役割を忘れてしまったかのようなのだ。

ついこのあいだ乗ったタクシーの運転手もまことに丁寧で礼儀正しく、私は「これも時代か」とひとりさみしくほほえんだのだった。

「お客さん」と運転手が穏やかな口調で、後ろに座る私に声をかけた。「シートベルトお願いいたします」

私はシートベルトを探し、ひっぱり、腰に回して、バックルに入れた。だが、ハマらないのだ。面倒くさいので運転手に聞かずに、つけたふりをしていると、ピーピー鳴りだした。

「お客さん、すいません。ちゃんとしてないと鳴ってしまうんです」

つけたふりをした手前、いまさら聞くこともできず、私はそのまま着くまでずっとシートベルトの金具をバックルに手で押さえ続けた。少しでも気を抜くとすぐにピーピー始まるのだった。

目的地に到着した。私は久しぶりに成長させてもらったことへの感謝として料金の2倍を払いたい、と思いながら降車したのだった。

苦い文学

コロナの勝利

友人が少し早めの夏休みを取って、外国に行ってきた。それで、こんな話をしてくれた。

「俺がその国に行ったのは2回目で、初めて行ったのはちょうどコロナが広まりつつあるときで。

「当時その国にはまだコロナにかかった人はいなくて。しかも徐々に渡航制限が出始めている時期で、アジア人はほとんど見かけなかった。

「アジア発の奇妙な病気が流行っているというニュースが広まっているだけで。見た目がアジア人だとすぐわかるから、本当に不愉快な経験をしたよ。俺が近くを通りかかるだけで、みんなこうするんだ。(と、彼は両手で口を塞いでみせた) まるで俺がコロナだっていうみたいにさ。コロナってのはそんなもんじゃないんだ、って内心くやしい思いをしながら、帰国したというわけだ。

「でも、その後、その国にもコロナが広まって、まあ、どこの国も同じだ。で、ようやく今年になって落ち着いたから、この間その国にまた行ってきたんだ。イヤな思いをしたのにどうしてかっていうと、イヤな思いをしたからさ。

「その国に着いて、街を歩いてみると、コロナなんかなかったかのような賑わいだ。しかも、誰も俺をみて口を塞いだりしない。いや、ひとりか2人はいるんだ。だけど、明らかに向こうのほうがコソコソしてる。

「勝った、と思ったね。それを見にきたようなもんだ。コロナはアジア人だのなんだの関係ないんだから。この3年の間に、コロナがそれを証明したんだ」

そう言うと、彼はまるで自分がコロナであるかのように胸を張った。

苦い文学

3匹の子豚

3匹の子豚が仲良く暮らしていた。

ある日、1匹の子豚の家に狼がやってきて、扉を叩いた。

「子豚くん、子豚くん、ちょっと開けてくれないかい」

「いやだよ。開けるものか」と子豚が言うと、狼は息を吹きかけて子豚の家を吹き飛ばしてしまった。

というのも、子豚の家は、ベストセラーの自己啓発書で建てられていたので、とても軽かったのだ。狼は子豚をぺろりと食べて、「これで俺の自己肯定感も高まったなあ」と言った。

狼は2番目の子豚の家に行き、扉を叩いた。

「ちょっと開けてくれないかい」

「いやだよ。開けるものか」と子豚が言うと、狼は息を吹きかけて子豚の家を吹き飛ばしてしまった。というのも、子豚の家は、世界平和統一家庭連合の月刊誌「ビューポイント」や新聞「世界日報」で建てられていたからだった。

狼は2番目の子豚をぺろり食べて、「旧統一教会と関わりがある豚だとは知らなかった。食べてしまった後で言うのはなんだが」と釈明した。

狼は3番目の子豚の家に行き、扉を叩いた。

「ちょっと開けてくれないかい」

「いやだよ。開けるものか」と3番目の子豚。

「ならば、お前の家を吹き飛ばしてしまうぞ」

「僕の家は、インチキな本や新聞なんかとは違うぞ。憲法と分厚い六法全書によって建てられているんだ。吹き飛ぶものか」

狼は顔を真っ赤にして息を吹きかけたが、子豚の家はびくともしない。そこで狼は一計を案じた。子豚の家の周りで、軍事演習を行ったり、ミサイルを飛ばしたりしたのだ。

すると子豚はだんだん不安になってきた。

「このままではこの家は危ない。そうだ、この日本国憲法、こいつをもっと丈夫なのに取り替えよう」

と、子豚が日本国憲法を抜き取ったその瞬間、狼が一吹き。家と基本的人権はたちまち吹き飛ばされ、狼はうまそうに子豚を平らげたのであった。