研究

Function of the Diminutive in Narrative of Tunis Arabic

Diminutive(指小辞、指小形) というのは、名詞などに「小ささ」の意をつけ加える手立てのことで、日本語なら「刀」>「小刀」、「道」>「小道」の「こ」をつけることがそれにあたる。この Diminutive は単に「小ささ」だけではなく、ネガティブな評価をともなって使われたり(小僧、小役人)、複雑なニュアンスを表すのに使われることもある(こざっぱり、小腹が空いた、こ憎たらしい)。

この Diminutive が、アラビア語チュニス方言の物語の中でどんなふうに使われているかを調べたのがこの発表だ。物語の主人公にとって重要な役割を果たす物が初めて登場するとき、Diminutive で現れる(ことがある)ということを話した。

発表したのは、2024 年 8 月 8 〜 9 日に、ソウルの慶熙大学で開催された The 2024 Seoul International Conference on Linguistics において。

英語での口頭発表ははじめてで緊張したが、質問やコメントもあり、なんとか乗り切ることができた。発表を終えて、大学近くのコーヒーショップでコーヒーを頼んで待っていたら、スピーカーから BOL4 の曲が流れてきた。せっかくソウルに来たのに街歩きもできなかったが、コーヒーと音楽という、ある意味ではソウルの名物を同時に味わうことできて、私は満足したのであった。

(写真:ソウルのビルに映し出された大広告、韓国ならではの二人だ)

散文

夜が明けたら

 コロナウイルスの蔓延により、小松左京の『復活の日』に関心が集まっているという。細菌によって人類が滅びかける話だ。

 しかし、この状況で小松左京といえば、私が思い出すのは「夜が明けたら」という短編だ。

 この作品では、世界が急に闇に閉ざされ、もう決して朝が来なくなったにもかかわらず、「夜が明けたら」とついつい思ってしまう人間の絶望が描かれる。我々は「コロナが終わったら」と言いつつも、それはもうありえないのではないかとどこかでもう思い始めているが、それと同じだ。

 いつ終わるともしれない自粛生活。これはまた、入管での収容生活にも似ている。もちろん、我々は、家を出ることもできるし、電話も、ネットもある。好きなものを食べ、買うこともできる。だが、入管に収容されている人々のように、これがいつ終わるのか分からないのである。

 この点が刑務所との大きな違いだ。刑務所には刑期がある。だが、入管の収容には、刑期はない。罪を犯して入れられているのではないからだ。だから、出る理由がなくては出られない。そして、その出る理由を決めるのは、入管の誰かで、被収容者ではない。つまり被収容者は自分の運命に対してまったくの無力なのである。

 刑務所の囚人は、頑張れば出られるが、入管の囚人は頑張ろうと頑張るまいと出るのには関係ないのだ。こうした状況で、最低でも1年、長ければ3年以上、収容され続けるのは、どういう気持ちだろうか。どれだけの無慈悲な「夜が明けたら」が繰り返されたことだろうか。

 私はこれらの人々のこうした入管での経験に興味がある。どんなことを考えていたのだろうか。どんなふうに希望を見出したのか。コロナが終わったら、聞きに行こう。いや、終わるのかな……