研究

ベルベル語調査のお金(2)

科研費は競争的研究費と呼ばれる。研究費たちが競い合って行先を取り合っているイメージで間違いない。そのうちのひとりが、コースを外れたかして、私のところまでたどり着いた。私としては、感謝とともに丁重にお迎えした次第だ。

今年度は 120 万円の予算がある。これだけあれば、2 回の調査は可能だ。だが、そうも言えない雲行きだ。

まずは円安だ。コイツのせいで一昨年ぐらいから海外旅行費用そのものがグングン値上がりしてしまった。

そして、次に戦争だ。ウクライナのヤツにせよ、中東のヤツにせよ、調査とはまったく相性が悪い。しかも、私がもっぱら利用していたエミレーツ航空やカタール航空では、運航休止や減便が相次いでいる。とすると、場合によっては、料金高めのヨーロッパ経由の便を利用しなくてはならないかもしれない。

最後はサーチャージだ。かねてから気に食わないヤツだったが、やれ封鎖だ、やれ再封鎖だ、果ては逆封鎖だのせいで、ますます調子に乗っている。国民の税金を原資とする科研費が、サー・チャージとかいうぼったくり貴族の懐に入るようでは泣くに泣けない。

こんな状況の中、しかも刻一刻と目減りしていく資金で、チュニジアに行けるものだろうか? わからないが、平和そうな場所を飛び石のようにひとつひとつ辿って行くしかない。

(写真:スーサの市場のパン屋)

旅・観察

現代のフダーウィー:チュニジアの語り部(4)

 イスラーム以後の歴史については、私はいくつかの王朝が入れ替わったことぐらいしかわからないが、ハフス朝のイブン・ハルドゥーン(14世紀)とその著書『歴史序説』ぐらいは知っている。チュニス生まれのこの大学者の銅像は、チュニスにきた人なら必ず目にするものの一つだ。もっとも最近は、その前に「I♡TUNIS」という無粋なモニュメントができて、その存在感は弱化しつつあるようだ。

かすむイブン・ハルドゥーン像

 この時期のチュニジアでもうひとつ大事なことがある。アル・アンダルース文化の流入だ。アラブ人はイベリア半島をイスラーム化し、壮麗な文化を築き上げたが、レコンキスタにより15世アルハンブラ宮殿で知られるグラナダが陥落すると、多くのスペインのイスラーム教徒たちが北アフリカに逃亡した。チュニジアもそうで、音楽や建築などさまざまなアル・アンダルース文化がこれらの「難民」たちによってもたらされた。

 難民といえば、もっと古い難民たちも北アフリカにはいる。それはユダヤ人で、かなり古い時代からディアスポラとして北アフリカの諸都市で暮らしてきた。これらの人々も、独自のアラビア語方言の話者で、チュニスのユダヤ人方言に関する研究書も出版されている。

 ハフス朝の後、チュニジアはオスマン帝国の支配下に入り、その結果、多くのトルコ語の語彙がチュニジアの言語に入ることとなった。19世紀後半からはフランスの植民地となり、これは1956年のチュニジア独立まで続いた。フランス語は、宗教以外のあらゆる分野、すなわち行政、文化、教育、出版などで用いられ、チュニジアの言語生活に大きな影響を与えた。それは現在でもそうで、フランス語が流暢に話せることは、あるレベル以上の社会生活を送るためには必須の能力となっている。

 ここで、これまで述べたことをまとめると、チュニジアの言語と文化は、単純に言えば、アラビア語とイスラームであるが、より詳細に見ると、それらは、ベルベル、フェニキア、ローマ、地中海(イタリア、ギリシャ、スペイン)、トルコ文化、フランス文化の影響の上に成立している、長い歴史と多様な背景を持つ文化であることがわかる。

 こうした文化的深みと多様性は、口承文芸の世界にも反映されていて、スペインやフランスの民話との類話もあれば、イソップ物語に似た動物物語もある。千一夜物語でおなじみのハールーン・アッラシードが、いかにもチュニジアらしい舞台背景の中で活躍するといった物語もある。また、ユダヤ人コミュニティで伝承されている物語も多く記録されている。(つづく)

ローマ時代のモザイク(スーサ考古学博物館)