説明とは、説明が必要なものと、そうでないものの区別の上になされる。
川端康成の『雪国』の冒頭の一文「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」は説明の必要もないほど明瞭に思えるが、実際には説明が必要だ。「国境」を明らかに通過したのに、どうして入国審査がないのだろうか? 「長いトンネルを抜ける」とは、トボトボと歩いて通り抜けたということだろうか? それとも自動車だろうか? それに雪国とは? もしかしたら北海道のことで、青函トンネルのことか?
もちろんこうした疑念は、先を読むにつれ解消されていくのだが、これ自体がひとつの文学的な技法だとしても、だからといって「これはこういう文学的技法です」などという説明が必要なわけでもない。このような文がそのままで成立しうるのも、そうした説明が不要であるような読者に向けて書いているからだ。そうした読者の想定があるからこそ、なにを説明すべきか、逆にいえばなにを説明しなくて済むかが決まってくる。
読者をどう想定するかは、説明のレベルを左右する。一般には、知識・文化・社会経験を共有していれば、余計な情報は書かなくて済む。また理解力の程度や理性の働きが「普通」であれば、余計な説明を省くことができる。
ただし、想定される読者像は、時代、文化、国によって異なる。なぜなら、作者は、通常、自分と同じ背景を共有するものとして、読者を想定するから。また、ジャンルや分野によっても異なる。なぜなら、あるカテゴリーの著述の作者は、そのカテゴリーの前提となっている読者像を想定して書くから。
この読者の想定という点が、書かれた物語と、原稿なしに語られる物語との大きな違いだ。語りにおいては聞き手を想定する以前に、具体的な聞き手が目の前にいるのだから、実際の反応を見て、それに合わせて修正し続けることで、よりよく物語を語ることができる。
しかし、書き言葉においてはそのようなリアルタイムでの軌道修正ができないため、どのような読者を想定するかが、説明文にとっていちばん重要な問題となる。