物語に挿入される説明文は、ひとつだけではなく、いくつでもつなげることができる。さらに、説明文の後に、別の物語を語る物語文が現れることもありうる。だが、実際にはこうしたことはあまり起こらない。
というのも、それは物語の聞き手にとって負担になるから。中断されたままの物語の情報を維持しながら、長い説明や別の物語を聞くのは、まさに苦痛だ。そこで聞き手は、この明らかな脱線をやめさせようと語り手に働きかけたり、これみよがしにあくびをしたり、思い切って席を立ったりすることになる。そして、語り手がうまく要望を受け入れてもとの物語に戻った場合には、もしかしたら、それまでの物語を思い出すために、話が途切れたところまでのあらすじを手短に話してくれるように頼むかもしれない。
だが、こうしたことは、つまり語り手と聞き手のやり取りは、本や文書などにおいては起こりえない。話の筋を忘れたとしても、読み手は書き手に助けを求める必要はない。ただ前のページを見返せばいいだけだ。
そこで、書かれたテクストにおける説明文は、話し言葉のときとは異なる特徴を持つことになる。それは長さだ。説明文が何ページ続こうと、読み手は戻って参照する箇所さえわかれば、話の筋を見失うことはない。もちろんこれは極端な話で、そのせいで結局、読み手は本を放り出す可能性もある。
だが、書く場合には説明が増えざるをえない事情もある。前の方で述べたように、話し言葉に付随する多くの情報は、文字にしたとたん失われるから、そのぶん、情報を増やさねばならないからだ。
話せば簡単に済むことも、文字にすると意外に多くのことを書かなければならないし、時間もかかる。そんなわけで、メールよりも電話が楽という人がいるのも当然のことだ。
ところで、書き言葉において情報を増やすといっても、これはいつでもどこでもできることではない。説明文の増加のためには、少なくとも文字を書くことそのものに、たいして労力がかからない環境が成立していなくてはならない。
大昔の碑文がたいてい言葉少なでわかりにくいのは、摩滅や欠損のせいばかりでない。文字をケチらざるをえない事情があったのだ。