苦い文学

地政学入門

ええ、地政学を学ぶと、国際政治の世界で起きていることのほとんどが説明できるんです。国がどんな地理的条件のもとにあるか、どんな国々に囲まれているか、それでもう、その国の外交・防衛が自動的に決まります。沖縄に基地があるのも、馬鹿な人々は反対していますが、あれはもう地政学的にあそこに基地を作るしかないのです。これを専門的に地政学的宿命といいます。どのような国家もこの地政学的宿命に支配されているのです。これに逆らうなんて非科学的です。

それでですね、さらに考えてみましょう。国は何からできているでしょうか。もろもろの地域です。この地域ももちろん特定の地理的条件下にあります。つまり、この地域にも地政学的宿命があるのです。この地域もですね、いくつもの部分に分かれています。その部分もさらに分かれます。結論を言ってしまえば、家一軒一軒に地政学的宿命があります。部屋ひとつひとつにも。いや、そこに住むひとりひとりだってそうです。私はもちろん。あなただって、地政学的宿命に支配されているのです。

ええ、ですから、私が頭に下駄を載せているのも、地政学上決定されたことです。沖縄に基地がなくてはならないのと一緒です。

あなたは……そうですね、ピーマン 10 個、頭に載せるべきです。

苦い文学

遠くで戦ってる

教室に行ったら、2人の学生が真剣な顔つきで話し込んでいた。授業の準備をしながら、私は聞くともなしに聞いていた。

「まったく、遠くから見ているせいか歯痒くなってくるよね。どうしてこんな簡単なことができないのって。お互いを認め合って、譲り合うだけで、すべて解決するのに。殺し合う必要なんかないよ」

「そうそう、つまらないことで意地張っているように見える。武器を捨てることが、そんなに難しいのかな。もっと互いを尊重すべきじゃない? ただただ命が奪われていくのは悲しすぎる」

ひとりが嘆息した。「こんなこと言っちゃいけないのかもしれないけど、愚かすぎだよ。命を守るために全力を尽くすべきだと思う」

「ああ、それは同感。責任ある人がちゃんとしたらいいのに」

私は国際政治が専門ということもあり、現在の国際情勢について真剣に議論する学生たちを好ましく思った。そこで、つい余計な口を挟んでしまった。

「あのさ、難しい問題だけど、まずはイスラエルとパレスチナの歴史を読んでみると、また違った見方もできると思うよ」

すると2人は当惑しながら、こう言った。

「えっ、クマの話をしていたんですが……」

苦い文学

イケおじ・ワークショップ

「イケおじ」になるためのワークショップが、先日、市民ホールで開催された。

会場に集まったのはおよそ 50 人の男性たち。みな、イケおじになりたい、との一心でやってきた市民だ。もっとも多いのは 50 代、60 代だったが、90 代の参加者も何人もいた。ただし 20 代はひとりもいなかった。

はじめに参加者がひとりひとり意気込みを語った。98 歳の参加者が「イケおじになるという最後の夢を叶えて旅立ちたい」と言ったときは大きな拍手が巻き起こった。また 15 歳という最年少参加者が緊張気味に「みなさんのようなイケおじになりたい」と語ったときは、だれもがまんざらでもない顔つきだった。

次のブレイン・ストーミングは「どんなイケおじになりたいか」をテーマに自由に意見を出し合う時間だ。いろいろな意見が出たが、「モテる」と「スローセックス」の言葉が出たときは誰も我が意を得たりという表情で拍手をした。

引き続いて、「イケおじが日本を救う」というタイトルの特別講演が行われ、その後、3 つのグループに分かれてセッション・タイムとなった。セッションのテーマは「イケおじのファッション」「イケおじのセックス」「イケおじの魅力」。それぞれで活発な討論が行われ、まとめの時間での各グループからの発表は、終始笑いに包まれ、大盛り上がりだった。

だが、今回のワークショップで一番盛り上がったのは、クロージングの時間だ。そこでは主催者がこう言ったのだ。

「15 歳から 98 歳までのみなさんが、世代を超えて協力し、討論し、楽しんだ。こんなことがありうるでしょうか。もう、みなさん全員がイケおじです」

一日がかりで行われたワークショップは盛況のうちに閉会した。会場を出た参加者たちは手に入れたばかりの「イケおじ認定証」をちらつかせながら、女性たちに声をかけはじめた。

苦い文学

記念日コレクション

世の中にはいろいろな人がいて、最近私が驚いたのは、記念日のコレクターがいるという話だ。

記念日というと、普通は、自分や家族の誕生日、結婚記念日、命日などが一般的だが、都内在住の会社経営者であるその人はそれに飽き足らなくなってしまったのだという。日々を記念日で彩りたいと考えるようになったのだ。

はじめは自分で記念日を作っていたのだそうだ。たとえば自分の初恋を記念する初恋記念日、禁煙を始めた禁煙記念日、転居を祝う引越し記念日……だが、こんなのは自分の匙加減でなんとでもできるのだ。もっとリアルな記念日が欲しい、そう思っているときに、彼は記念日の売買が行われていることを知った。

さっそく問い合わせみると、あるわあるわあの記念日、この記念日が。さいわい彼には資力があったから、たちまち記念日あさりに夢中になった。誕生日を売りに出すのは、もう誰にも祝われない孤独な人たち。だから値段も安い。結婚記念日は、金に困った夫婦か、離婚して用済みになった人たちから。後者の場合は離婚記念日のおまけつき。命日は、元旦やクリスマスなどの華やかな時期にはかなりの値がつく。

なんの趣味でもそうだろうが、高じると道を踏み外すものも出てくる。この彼もそうで、ついには裏の売買にまで手を出すようになった。人身売買のさいに売りに出された誕生日、打倒された独裁者のクーデター記念日、誘拐されたジャーナリストたちの失踪記念日、絶滅した少数民族の革命記念日、天安門事件記念日……彼は違法と知りながらもこれらのきな臭い記念日に大金を払ったのだった。

彼は都内の豪邸に住んでいて、地下には記念日専用の部屋がある。仕事が終わると、その部屋にこもって、一生かかっても祝いきれないほどの記念日を眺めながら、明日はこの記念日にしよう、いやこっちか……とじっくり選ぶ。これが彼の楽しみだった。

だが、そんな彼にとんでもない悲劇が起きた。先月、彼が知人の会社の創立記念日のお祝いに外出しているときのことだった。自宅に侵入した何者かにより、金目のものはもちろんのこと、記念日のコレクションもごっそり盗まれてしまったのだ。

すべてを失い意気消沈しているかと思いきや、「記念日を盗まれた記念日」ができたと喜んでいるということだ。

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駅のゴミ箱

駅でゴミを捨てるのは大変だ。なにしろゴミ箱を見つけるのは至難の業。盲亀浮木、優曇華の花のごとくだ。

改札口の周辺にもない。ホームに降りる階段の周囲にもない。それでは、とホームに降りる。たぶん階段の下だ、そう思ってまず見に行くが、そこにもない。ホームを歩いて探す。結局端から端まで歩いてしまう。だが、ないのだ。

しだいに隣のホームで見かけたような気がしてくる。急いで階段を登り、別のホームに降り立つ。階段の下、エレベーターの裏、ベンチの脇、そば屋の正面……どこを探してもない。

だんだんと手に持つゴミが重くなってくる。まるで鉄の塊のようだ。手が痺れてくる。しかも、濡れていて、汚らしい。手を洗いたい、と思った瞬間、トイレを思い出す。再び階段を上がり、トイレに向かう。その周辺にはゴミ箱はない。中だ。

漏らしそうな人の足取りで駆け込むが、トイレの中にもない。

まるで駅のゴミ箱は自在に気配を消すことができるみたいだ。もう決して見つけることができないような気がしてくる。永遠にゴミ箱を探して駅をさまよい歩くとは。こんな人生ってあるのだろうか。きっとしまいには私もゴミのようになってしまうのだ。そして、ゴミ箱は自分を捨てる墓へと変わり……

だが、苦悩と絶望の底で、それは不意に姿を現す。いくどもないことを確認した場所だというのに、見ればゴミ箱があるのだ。私は歓声をあげて駆け寄る。

その瞬間だ、ゴミを手にした私の目の前に、清掃員が現れる。私がひるんだそのすきに、ゴミ袋の取り替えを始める。

私は終わるのを待っているが、清掃員は永遠に作業を続けている。ゴミは私だ。

苦い文学

このブログの内容

このブログをはじめたとき、私は当時かかわりのあったビルマや難民について書こうと思っていた。だが、次第に嘘を書くほうが多くなり、今ではほとんど嘘になった。おかげで最近では事実を書くのに抵抗を感じるようになった。

事実を書くと嘘を書いているような気になるのだ(これも嘘だ)。

もとより誰かを騙そうとしているわけではないが、世の中には「人がものを書くとき、本当のことを書くものだ、わざと嘘を書く人などいない」と信じている人もいる。結果として私の嘘(のある部分)を、もしかしたら、事実だと誤解してしまった人もいるかもしれない。これはもちろん、私が悪いのであり、そうしたことのないよう、ここにその旨、明記しておきたい。

なお、投稿にあたっては、特定の人を傷つけることのないように、つまり、傷つけるならば、必ず人類すべてが傷つくように配慮している。だが、予期せぬ間違いもあるだろう。被害にあわれた方は「Contact」からお知らせ願いたい。

苦い文学

翼がないあなたに

「仕事もプライベートも翼がないためにうまくいかない」「翼があれば人生が変わるのに……」 そんなふうに思っていませんか。

ある統計によると、およそ8割の人が翼のないことで悩んでいるそうです。たしかに、鳥たちは自由ですし、堂々としています(もちろんあのドードーだって言うに及ばずです)。飛ぶと決めたら絶対に飛ぶ、そんなブレない翼に憧れてしまうのも当然です。

ですが、翼がなくても心豊かに生きる方法があったらとしたら? 翼を羨むだけの人生とはもうサヨナラです。翼がなくて悩んでいるあなたはぜひ次の6つの方法を試してください。

*心に翼を持つ:翼がなくても心に翼を持つことは可能なはず。心の翼で想像の世界を飛び回りましょう!

*成功体験を積み重ねる:小さな成功体験があなたの人生を豊かにしてくれます。毎日、手をパタパタさせて、少しずつ飛び上がってみましょう!

*未来志向:翼のない過去の自分ではなく、いつか翼が生えてくる未来の自分をイメージしましょう。

*自分を褒める:あなたは今日、翼なしでどんなことをしましたか? 翼なしに自分がしたことを褒めてあげるのも大事。

*鳥と比較しない:翼を持った鳥と自分を比較するのはナンセンス。翼のない自分を受け入れましょう。

*翼がないことの利点を考える:鳥ではないことをもっとポジティブに考えてみたらいかが? 翼がないからこそできることもきっとあるはず。例)地に足のついた活動ができる。毛虫を食べなくてもよい。

【まとめ】
翼のないことをいつまでもクヨクヨしていてはいけません。鳥は鳥、自分は自分という気持ちで一歩踏み出してみるのはいかがでしょうか。

苦い文学

「苦い文学」とは

「苦い文学」というのは、私がここに書いているもののジャンル名で、2021 年 12 月から使っている。自分が書いているものの呼び方をいろいろ考えて、こう名づけた。

「苦い」というのは甘くもなければ、ほろ苦くもない、ということだ。苦渋、苦虫、苦りきる、など、できたら避けたいものばかりだ。「良薬口に苦し」などともいうが、薬を必要としているということは、そもそも心身不調なのだ。

そんなような言葉が文学と結びつくなど奇妙に思えるかもしれない。なぜなら文学とは、作家の経験・思想や先人たちの叡智が込められたものであり、読むやいなや生きる糧となるものだからだ。人は明日を生きるために文学に触れるのだ。

だが、明日を生きない人にも、若干の文学の余地が残されていてもいいのではないだろうか。死の床で読むのにうってつけの文学が。絞首台に運ばれる道中で、ガス室の手前で、核爆発の10分前に、地獄の待合室で、気を紛らわせるための読み物があってもいいと思う。

もちろん、長編なんかダメだ。死はもう差し迫っているのだ。400 字詰め原稿用紙 1 〜 2 枚がちょうどいい。

また、甘くてもほろ苦くてもいけない。愛だの、恋だの、人生だの、希望だの、感動だの、切ないだの、死を前にした人間にとってどれほどの意味があろうか。となると、もう文学はおのずと苦くなるしかないのだ。

もはやなにもないものと諦めていた今際のきわにも、苦い文学だけはある、そう思うだけで、もう待ち遠しいではないか。

苦い文学

AI とジョン・レノン

ビートルズの新曲 “Now and Then” が先日、世界中で配信された。

もともとはジョン・レノンのデモテープをもとに、1995 年にレコーディングが進められていたのだが、当時の技術ではデモテープからジョンの声をうまく抽出することができず、棚上げされていたのだそうだ。

それが現在の AI の進歩により、ジョンの声がクリアーに分離できるようになった。

1995 年の試みは失敗だったが、そのおかげでジョージ・ハリスンの演奏が残っていたのはなによりであった。存命しているポール・マッカートニーとリンゴ・スターで 4 人による新曲がここに完成することとなったのだ。

これは本当に素晴らしいことで、私を含めた世界中のビートルズ・ファンが、今、涙を流しながら聴いている。

この偉業は 4 人の想いと、AI によるジョンの歌声の復活がなければ実現できなかったと思う。

それだけに、一部のメディアが、岸田首相の「増税メガネ」にならって、ジョンのことを「AI メガネ」と呼んでいるのは、本当に残念だ。

苦い文学

このブログの画像

2021 年 11 月以降の投稿では、本文には画像を入れないことにしているが、それだとブログ全体が文字ばかりになってしまうことに気がついた。

そこで投稿のアイキャッチ画像を入れることにした。そうすると投稿ごとにいろいろな画像が表示されてにぎやかだ。

はじめは過去に自分が撮った写真を探し出して、編集してアイキャッチ画像としていた。だが、面倒臭いので、いまでは馴染みの AI に頼んで作ってもらったものを使っている。ただで、しかも何百枚も、こっちがもういらないというくらい、簡単に作ってくれる。

ブログの飾りになればいい程度なので、発注の仕方も適当だし、画像の質もあまり気にしていない。そもそも投稿の内容とアイキャッチ画像はほとんど関係がない。気分で選んでいるだけだ。

もっとも、私の書くものにはなにかしら電車が出てくることが多いので、そうしたことを見越して、電車の画像をたくさん作ってもらってある。

この交通手段の無軌道ぶりが私に与えるフラストレーションのほどを考えると、それでもとうてい足りないくらいだ。