風刺・戯文

マスク外すと

3 月 13 日、厚労省がマスク着用について「個人の主体的な選択を尊重し、個人の判断を基本とする」との方針を打ち出した。

それからすでに1ヶ月が経ったが、驚くべきことに、この日本ではだれひとりマスクを外してはいないのだ。

「いや、そんなことはない、最近ではマスクをつけない人もちらほら見かけるようになりましたよ。私もときには外しています」

そんなことを言う人もいるかもしれない。なるほど、街には確かに不織布にせよウレタンにせよ、マスクをつけていない人がいるようだ。

だが、ぜひ、そのマスクのない顔をじっくり観察してほしい。

ある人は「マスクを外したった」という顔つきで鼻息も荒く歩いている。また別の人は、周りの様子を伺いながら恐る恐るといった顔つきで道の片隅を歩いている。マスクをしていないのが自然だ、という顔つきをわざわざしながら歩いている者もいる。

さらに、この世界線ではマスクなど存在しないのだ、という顔つきの人もいれば、マスクなど意識していないという顔つきを演じている顔つきの人すらいる。

そうなのだ。マスクを外してみれば、「不自然な顔つき」という別のマスクがまだ張りついていたのだ!

ああ、私たちはいつこのマスクを外すことができるのだろうか。いつ、コロナ以前の自然な顔を取り戻すことができるのだろうか?

もしかしたら、このマスクを外すのにも、別のワクチンを打たねばならないのだろうか。

苦い文学

イデアと似姿

古代ギリシアの哲学者、プラトンによれば、私たちのこの世界は、真の実在であるイデアの似姿に過ぎないのだという。

つまり、この世界の愛とか善といったものは、イデア界にある本物の愛や善の似姿なのだ。そして、似姿だからこそ、不完全なものでしかない。

プラトンに言わせれば、この不完全な似姿を脱して、真の姿へと向かうことが、哲学という営みなのである。だが、別の哲学者はこの考え方を無意味だとして、退けたという。

その哲学者はこう反論した。

「むしろ、イデア界に存在するさまざまな真の実在が、より完全に近い形で私たちの世界に届くようにするのが哲学者の仕事ではないだろうか。できるかぎり本物に近ければ、私たちの哲学生活は大きく変わるはずだ」

そこで、この哲学者は、イデアをロスレスでこの世界に送信する装置を考案し、さらに通信するデータ量が著しく増加することも考慮して、お得な通信プランの提供も始めたという。詳しくは、ディオゲネス・ラエルティオスを参照されたい。

苦い文学

居眠り

電車で居眠りしていても、私たちは乗り過ごすことはほとんどない。たいてい、降りる駅の直前で目が覚める。それどころか、目が覚めたときに、降りる駅でドアが開いていた、なんてときすらある。私たちは慌てて座席から飛び上がり、外に出る。

どうしてこうしたことが起きるのかについては、いろいろな意見がある。私たちは眠りながら無意識では起きているのだ、と言う人もいるし、体内時計が自然とセットされているのだ、と考える人もいる。

目を覚ます原因はわからないが、これはまるで死のようだ。

私たちの人生は電車の中で居眠りをしている人に例えられよう。寝ているあいだに次から次へと駅が通過していくが、私たちはそれに気がつくことなく、夢を見続けている。

だが、降りるべき駅が近づくと、私たちは不意に目覚めるのだ。

私たちは時が来たことを悟り、慌てて電車から降りる。

その先に何があるかは、誰にもわからない。私たちはただ電車で見た夢のかけらを抱えて、どこかに消えていく。

苦い文学

チャンドス卿の毛蟹

敬愛する友よ、私が次のような経験について話すのをご容赦ください。

北の地を旅する私はとある朝市でふたつの毛蟹を食べ比べしたのです。

ひとつ目の毛蟹は確とした秩序ある姿でいかにも美味しそうでしたが、その身を食べるとすぐに、口の中で崩れてしまいました。口のなかで、さまざまの概念がとつぜん曖昧な色合いになり、輪郭をなくして入り混じってしまったのでした。

私は眩暈を起こし食べるのをやめました。

もうひとつの毛蟹は、初めのものとはまったく違いました。とるにたらぬ被造物のようであり、地面に転がる石のようでもありました。ですが、ひとたび口にするやいなや、その味の流れが言葉にならない無限の恍惚感を引き起こしたのでした。

私はただちにこちらの方の毛蟹を買い求めました。

敬愛する友よ、この毛蟹を、おまけにベーコンをつけて、送料無料の大特価でお届けすることをお許しください。お支払いは着払いにてお願いいたします。

*上記のような文面の手紙とともに、一方的に毛蟹などの食品を送りつけて代金を要求する詐欺が増えています。身に覚えのない商品は絶対に受け取らないでください。

苦い文学

難民難民

「難民」という語は、通常、宗教や政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるため自分の国から逃げた人のことを指すが、日本語では別の意味でも使われている。

それは「居場所やものにあぶれた人」のことを表す用法で、普通は前に「居場所」や「もの」を表す名詞が来る。

例をあげると、「ホテル難民」とはどのホテルも満室で宿泊場所がない人のこと、「病院難民」とは、病院が足りなくて十分な治療を受けられない人のことだ。

居場所がないというのは行き場を失うということだから、そこから「帰宅難民」などという言葉も出てくる。

「もの」の例では、「チケット難民」「ランチ難民」などがあり、チケットが手に入らなかったり、ランチを食べられなかったりする人のことを指す。いずれも「座席」に関係があるので、これも、居場所がない、というところから発展してきたものだろう。

「ネットカフェ難民、ネカフェ難民」というのもある。ただし、これはネットカフェに入れない人ではなく、ネットカフェにしか居場所が見つけられない人のことをいう。特殊な意味だが、やはり居場所に関連している。

さて、よく知られているように、日本は難民認定数が非常に少ないということでお馴染みだ。その理由はいろいろ考えられるが、いずれにせよ、日本に逃げてきた難民にとってはつらいことだ。

認定難民というのは、法律的な地位のことだ。だから、難民に認定されないというのは、法的な居場所がないということでもある。

なので、難民としての居場所がない難民は、我が国では難民難民と呼ぶことを提案したい。

風刺・戯文

荒野の誘惑

イエスが荒野にひとりいると、悪魔がやってきて言った。

「もしおまえが神の子ならば、この石をパンにすることができるはずだ」 

イエスは答えた。「人はパンだけで生きるものではない、と書いてある」

それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、世界のすべてを見せて言った。

「もしも私にひざまずくのならば、世界のすべてをあげよう」

イエスは答えた。「主なる神を拝し、ただ神にのみ仕えよ、と書いてある」

それから、悪魔はイエスをエルサレムの神殿の上に連れて行き、言った。

「もしお前が神の子ならば……」

私「ちょっと、ちょっと、お前ら二人なにやってるんだ! 勝手に入ってきて! とっとと出ていけ!」

イエスと悪魔、泡食って逃げ出していった。

私はといえば、人生に絶望していたのだった。過去を振り返れば、そこにはなにもなく、ただ荒涼とした荒野が広がっていた。かといって、将来にもなにかあるわけでもなかった。むしろいっそうひどく荒れ果て、草一本生えないというありさまだった。

すると、ちょうどいい荒野があると聞きつけてイエスと悪魔がやってきて、例のくだりをおっ始めやがった。油断も隙もありゃしない、とはこのことだ。

苦い文学

AI とインテリ

質問すればなんでも答えてくれる AI が誕生したとき、インテリたちは仰天した。

そしてすぐにこう心配した。「学生どもが AI に課題をやらせるのではないか」と。インテリたちが何が一番いやかといって、学生たちに騙されることほどいやなことはないのだ。

そこで、インテリたちはなんとかして学生たちに使わせないように働きかけた。ネットを遮断したり、持ち物検査したり、あの手この手で AI を取り上げようとした。

しかし、そのうち、インテリたちの関心は、学生が自分で書いたものと AI に書かせたものをどうやって見分けるか、という問題に移っていった。どうやら、学生たちから取り上げるのは諦めたようだ。

人が書いたものには心がこもっている、AI の書いたものは面白くない……さまざまな意見が出てきた。

しかし、そのうち、インテリたちはこう言い出した。AI を上手に使いこなすべきである、と。どうやら、インテリたちは見分けるのも諦めたようだ。

さらにこうも言った。「使いこなすのには知性が必要だ」と。要するに、AI を使っていいのはインテリだけだ、と言いたいのだ。

というのも、知性のない人たちが AI を使って、難しい文章をどんどん書きはじめたら、いちばん困るのはインテリたちだからだ。

けれど、AI もどんどん進化して、インテリでなくても使いこなせるようになってしまった。

今、インテリたちは、AI を使わないことがインテリの条件である、と主張している。

それで、いつもバカのふりをしている。

苦い文学

管理の会社

マンションには管理組合があり、マンションの維持や修繕のために活動している。

管理組合の役員になるのはマンションの住人や所有者だが、本業があるので管理組合の仕事すべてに手が回るわけではない。

そこで、管理組合に委託されて、マンション管理会社が日常的な業務を遂行することになる。

私の知人の住むマンションの管理組合が、何か問題があったかして、それまでのマンション管理会社との契約を更新せず、別のマンション管理会社と契約した。

管理会社の変更や契約には総会の決議を経ねばならず、けっこう手間がかかるが、無事に済み、新たな体制がスタートした。

これで一安心と思いきや、だんだんとおかしなことが起きはじめた。

すでに何年も活動してきた管理組合は、独自の進め方・やり方があったが、管理会社は自分たちのやり方を押し付けてくるのだ。それで「こっちのやり方を尊重してくれ」というと、何かの法律を持ち出してそれとなく脅すのだった。

たとえば、管理組合にはすでに管理組合のハンコがあったのだが、管理会社は断りなく勝手にハンコを作って、代金を請求してきた。

「すでにあるからいらない」というと、「決まりなので」とハンコを渡そうとする。

「いや、必要のないものは受け取れない」

「管理組合のハンコを管理会社が持っているのは法律違反です。受け取ってください」

こんな調子なのだ。

そして、さらに驚くべきことが明らかになった。管理会社が管理規約の条文を自分たちに都合よく書き換えていたのだ。管理規約の変更には総会の決議が必要なのはいうまでもない。

私の知人は管理組合の役員のひとりだったが、こう言って嘆いた。

「連中が管理しようとしているのは、マンションじゃなくマンション管理組合だったんだ」

苦い文学

アマビエの写し絵

アマビエでいちばん奇妙なのは、いまアマビエのことを誰も覚えていないということだ。

江戸時代末期に熊本の海上に現れたというこの謎めいた存在は、疫病の流行を予言し「自分の写し絵を人々に見せよ」と言って海中に没したのだった。

そして、コロナが拡大するなか、不安な日々を暮す私たちはこのアマビエを再発見した。たちまち日本はアマビエの画像で溢れた。イラストに、パッケージに、広報に、マークに、シンボルに、メディアに……。私たちはリツイートに次ぐリツイートだ。

これほどまでに私たちを夢中にさせたアマビエだが、その熱狂もブームも短かった。私たちを脅かしはじめた死と医療崩壊という現実は、写し絵など簡単に吹き飛ばしてしまったのだった。

あれほどあったイメージに目を向けるものはもはや誰もいなくなった。私たちはアマビエを海に放棄した。結局、タワゴトにすぎなかったのだ。

だが、それでも私たちは、ワクチン接種証明書を関係各所に提示するとき、思わずにはいられない。アマビエの言った写し絵とはこのことではないか、と。

苦い文学

電車の脆い席

優先席には対象外の人も座ることはできるが、この席を必要としている人が来たら譲らねばならない。

だが、だからといって、優先席以外の席では譲らなくていい、というわけではない。原則的にはどこの席であろうと譲るべきだとされている。

いっぽう、「どこの席でも譲るべき」という原則が通じない席もある。それは特急や新幹線の席だ。グリーン車や指定席はもちろんのこと、自由席でも誰も「困っている人に席を譲りましょう」などとアナウンスされることはない。

これはおそらく特急券の料金に「座れた場合はその席を占有できる」という権利が含まれているからだろう。それゆえ、どんなに席を必要とする人が来ても堂々と譲らずにいられる。

ここで、普通の電車に戻ると、通常の運賃には「座れた場合はその席を占有できる」という権利は含まれていないということになる。

人々はあたかも自分の席であるかのように座っているが、実際にはその席を自分の席だと主張する権利はないのだ。

だから、車掌がやってきて、乗客全員に「立て!」と命じたら、乗客たちはそれを拒否できない。優先席を除けば、電車の席ほど脆い基盤の上に設置されている座席はないのだ。

もちろん、乗客たちはそんなこと百も承知だ。しかし、たとえそうだとしても、混んでいる電車で座れずにいる乗客たちは、いつか車掌が現れて、自分のためだけに席を用意してくれるのではないかと、期待せずにはいられない。