散文

美魔女と地頭

美魔女というのは「年齢を重ねても美しい女性」のことで、しばらく前から使われるようになった言葉だ。

日本語には「美人」とか「美女」とかの言葉があるのに、どうして「美魔女」という言葉が存在するのだろうか。美しければみな美女でいいではないか。そうならないのは、最初に「年齢を重ねても美しい女性」と書いたように、美魔女という言葉には「美しさは本来若い人のもの」という前提があるからだ。

私たち日本人は、ある程度の年齢以上の女性に美しさがあるとき、そこに「若くないにもかかわらず美しさを手に入れる魔力」が働いていると想像するのだ。

もうひとつ似た言葉に「地頭」がある。「地頭がいい」というのは、その人本来が持っている頭のよさのことをいうようだ。それならば「頭がいい」で十分ではないか、という気もするが、そうはならない。というのも、「地頭がいい」という言葉が前提としているのは、「学校では評価されない頭のよさがあり、それは単に頭がよいということよりもずっといいことだ」ということだからだ。

そんなわけで、「地頭がいい」と口にすることは、「学校なんかクソ喰らえ」と叫ぶのに似ている。私たちはみな学校に苦しめられてきたから、そう言いたくなるのもわかる。

だが、人間の知性にはいろいろなよさがあっていい。それに、学校の評価に言いたいことがあるからといって、それを否定するほどでもない。学校が必要な人は世界にたくさんいるし、学校だって私たちが卒業したときのままではない。常に変わり続けている。

要するに、「美魔女」にしても「地頭」にしても、これらの言葉が前提としているのは、非合理的な考え方だ。つまり「美魔女」の場合は若さを美しさと結びつけ、「地頭」の場合は人間の頭のよさを単純化し過ぎている。こうした非合理な思考は、いわば魔術的だ。私たちはこの魔術を使って「美魔女」と「地頭のいい人」を出現させたのだ。

だから、こうした魔術が解かれたとき、美魔女も地頭のいい人も、ちょうど御伽話のように、ただの美人と頭のいい人に戻るにちがいない。

苦い文学

オールジャパン認証機構

「日本人が一丸となって、オールジャパンで力を発揮すれば、きっと素晴らしい日本を取り戻せることでしょう」 安倍首相が語ったというこんな言葉を掲げて設立されたのが、オールジャパン認証機構(AJCO)。

日本人の活躍の場を広げ、日本で生まれた素材や原料の使用を推進することを目的とした団体です。今、この団体がある疑惑に揺れています。

(ぼかしの入った映像、荒れた会議の様子)「なにがオールジャパンだ!」「嘘っぱちなじゃないか!」「そうだ!」「そうだ!」

そもそもこの団体の「オールジャパン認証」とはなんなのでしょうか。ホームページを見ると……

「日本人のパワーを結集して製作された製品、生産された作物、あるいは、国産の素材のみを用いて作られた商品・フードなどに与えられるのが『オールジャパン認証』です。」

「オールジャパン認証を得るには AJCO の審査を受けなくてはなりません。製造者・生産者に外国の血が一滴でも流れていた場合や、オールジャパンとは認められません。外国産の原料、外国人の力、外国の思想が混入していないか、厳しいチェックをパスしたものだけが、晴れて「オールジャパン認証」を受けられるのです。」

そして、騒動のもととなったのがこの認証シール。企業は、これを商品など貼ることでオールジャパン認証を受けたことを明示することができます。ですが……

会議に出席した人々は口々に不満を語ります。「オールジャパン認証シール? これを作るのに中国に発注したというんだから、呆れてものもいえないよ!」「ほら見てくださいよ。日本語がわからないから『オ一ルヅヤパソ』になってるんです!」「団体は『中国は昔は日本だったから』というんですよ。いくらなんでも取り戻しすぎでしょ!」

機構側は、シールの認証手続きに間違いはなかったと、徹底抗戦する構えです。

小説

道を渡りし者(9)

私は吉田一家(夫婦と一人息子)とともに夕食を食べ、入浴を済ませた。

珍客にすっかり興奮してしまった息子は、私を独占し、自分の持っているすべてのゲームを見せるまで寝ないと言って聞かなかった。結局、母親に寝室に連れて行かれるまで続いたこの触れ合いが、どれだけ私の不安な心を慰めたことだろうか。

それから私は無口になり、吉田もやはりおし黙ったまま、ときどき携帯を見つめていた。夜はますます重苦しくなり、耐えかねたように彼は立ち上がると、私を和室に案内した。そこで一夜を過ごすのだ。

「襲われたりしないでしょうか」

「大丈夫です。いまや噂は町中に広がり、明日の朝の勝負を知らない人はいません。これは明らかに仕組まれた政治ショーです。あなたに害を加えて困る者がいるとしたら、ほかならぬ市長たちでしょう」

そして、私はひとり横になり、いくども寝返りを打ちながら、明日のことを考えていた。

どのような形でその「勝負」とやらが行われるかはわからない。だが、いかなる場合でも、道路を先に渡るのはあの野上の息子でなくてはならない。

もし私が先に渡ってしまえば、騒ぎはかえって大きくなり、私はますます苦境に追い込まれるだろう。だから絶対に先に動いてはいけない。

あいつを先に行かせるのだ。それでもし渡ってしまったら? 人々は興奮し喝采をあげるだろう。狂乱状態に陥り、それこそ私に襲いかかり、八つ裂きにしようとするかもしれない。

だから、絶対その前に、私は動かなくてはならない。野上に向かってひれ伏し、叫ぶのだ。「あの方こそ本当の奇跡を起こすものだ!」と。そしてさらに大声でこう告げるのだ。「私がここに来たのは、私よりはるかに偉大な者が赤信号を渡るためである!」 これだ!

だが、もし渡れなかったら? もちろん、そのときは私も渡らない。たとえ渡れたとしても渡れないふりをするのだ。私は野上のほうを向き、手を差し伸べるだろう。握手をし、健闘を讃えあい、友として別れることだろう。次の正月には彼から年賀状が送られてくるかもしれない。美しい思い出の記念として……だが、私は返事を出さないだろう……

いつしか私は眠りに落ち、そして朝がやってきた。

苦い文学

見えないメガネ

みなさんは2つのメガネがあるとしたら、どちらを選ぶでしょうか。ひとつは度は弱くて、もうひとつは度が強い。

度が強いほうだ、とおっしゃる声が聞こえます。確かに、遠くまでくっきりはっきり見えますね。

ですが、遠くまで見えるのは本当によいことでしょうか。たとえば、遠くに厄介な知人がいたとして、度が強いメガネで気がついてから無視するのと、度の弱いメガネでそもそも気がつきもしないのとどちらがよいでしょうか。

それはもちろん、度が弱いほうです。知らんぷりするという良心の痛みとも、みえみえのそぶりを知人に見破られるという危険からも免れているからです。見えないということは心を自由にするのです。

そもそも私たちに視力は必要でしょうか。

もちろん、視力があるに越したことはありませんが、よい必要はあるでしょうか。

大昔は必要だったでしょう。狩をする私たちにとって、遠くの獲物の動きが見えるか見えないかは、生死を左右しました。また、危険な獣の接近にできるだけ早く気がつくことも重要でした。ですが、現代社会では追うべき獲物もいないし、迫りくる野獣もいません。車や電車がぼんやり見分けられればそれでいいのではないでしょうか。

実際のところ、はっきり見えればいいのは、携帯だけです。それが見える程度の視力で十分なのです。それ以上の視力は不必要、いや、見えすぎることの危険と不快を考えれば、むしろ百害あって一利なしです。現代社会は狩猟社会から抜け出てそんなところにまできてしまったのです。

みなさんの中には、そもそもメガネなど必要のない方もいるかもしれません。失礼を承知であえて申し上げましょう。そうした方々は、いまだに狩猟社会を生きているのです。

現代人として生きたければ、ここにご用意した「あえて視力を落とすメガネ」をぜひお試しください。

苦い文学

寮の儀式のつぎ

そんなわけで、私は結局もう一人の新入生に会うことはできなかった。だが、考えてみれば、週末には、絶対参加の新入生歓迎会が開催されるというのだ。その時には必ず会えるに違いなかった。

そして、土曜日の夕方になり、1階のホールで歓迎会が始まった。酒とつまみは寮生たちの持ち寄りで、寮長の乾杯の合図とともにみな飲みはじめた。

私は未成年だったが、先輩たちと同じように飲んだ。それがみんな気に入ったようで、彼らは私に次から次へと酒を注ぐのだった。

酔いが回ったせいで私も多少遠慮がなくなった。それで、こんなことを尋ねた。

「新入生歓迎会なのに、どうしてもう一人の新入生はいないのですか?」

すると、にぎやかだったホールが一瞬にして静まりかえった。寮長が声を絞り出した。

「ああ、彼は……いる。もうすぐ来る」

即座に誰かが囁いた。「いや、来ない。だって、屋上にいるじゃないか」

「そうだ! 屋上だ!」と口々に同意する声。「行こう! 屋上に」

寮長が重々しくうなずくと、寮生たちは立ち上がり、階段を登っていった。私は呆気に取られながらも、彼らの跡を追って屋上に上がった。

そこでは夜空の下、寮生たちが輪になっていた。そして、彼らの中央にはどす黒い塊が横たわっているのだった。