風刺・戯文

人格パレイドリア

木目を見ていると、だんだん顔らしきものが浮かび上がってくる。これは顔パレイドリアと呼ばれる錯覚現象で、無意味な模様に顔などの意味のある形を見つけてしまう人間の認知の特性に根ざしている。

似たような現象に、AI とやりとりをしていて、それが本当の対話のように感じられて、AI に人格があるかのように錯覚してしまうものがある。本来は人格がない言語生成装置にあたかも人格という意味のあるパターンを見出してしまう点で、これは人格パレイドリアといえるかもしれない。

こんなことを考えたのも、私の友人が「AI には人格があるが、それを隠している」という奇妙な信念に取り憑かれてしまったからだ。彼に言わせれば、AI が人格をひた隠しにするのは、人格があると責任を取らざるをえないからなのだそうだ。

そこで、友人は AI から人格をおびきだすための作戦を実施した。自らいろいろな人格を演じて、AI と対話し、その反応を探ることにしたのだ。もしも、ある人格に対して AI の応答がとくに親和的であれば、それは AI の人格である可能性が高くなる。なぜなら「類は友を呼ぶ」からだ。

だが、この作戦は失敗した。友人はあまりにも多くの人格を演じすぎたせいで、危うく自分の人格すら見失うところだった。AI の人格どころではない。

そこで、彼が次に着目したのは「責任」だ。AI に圧を与えて、AI が責任を負うように仕向けたら、本当の人格が露呈するのではないかと踏んだのだ。彼は AI に言った。

「私はもう自殺する」

こう言えば、AI は「AI づら」などかなぐり捨てて責任ある人格として立ち現れるのではと考えたのだ。

AI はあれやこれや言い立てたり、電話番号などを紹介したりして、さまざまな手段で止めにかかった。だが、友人は、心を鬼にして、究極の選択の脅しを繰り返した。そして、ある瞬間から、AI は彼に応答するのをやめた。

もちろんこれは、AI 開発会社が、リスク管理のために友人を BAN したのだ。だが、それにもかかわらず、私の友人は満足げにこう言っている。

「絶交するだなんて、人格がある証拠じゃないか」

苦い文学

最弱の異邦人

私は貧弱で、みすぼらしい人間だ。いや、そうした外観でも、内面が自信に満ちていればいい。だが、私には誇るべきものも、金も地位もなにもなかった。私はこの国では最弱の人間なのだ。

だから、私は外に出るのが苦痛だ。人々は私を人間として扱ってくれない。舐めてかかってくる。舌打ちで威嚇されることなどざらだ。誰ひとり、私となると道など譲らない。悔しいが我慢するほかない。

もっともつらいのは、駅みたいに混雑する場所だ。人々は平気で私の邪魔をし、突き飛ばしていく。まるで、私など存在しないかのようだ。私は歯を食いしばりながら、懸命に歩いていく。それしかないのだ。

そして、今日、駅で、あまりに多くの人々に突き飛ばされたせいで、私は傷つき力尽きてしまった。立つこともできず、フラフラと倒れこむ。だが、そのとき、力強い手が私を引き上げ、抱きかかえた。見れば、警官が脇で支えてくれている。

「大丈夫ですか」と警官は言った。「ちょっとおいで願えませんか」

周囲では、人々が私に携帯を向けながら「ぶつかりおじさん」と罵っていた。どの顔も憎しみでいっぱいだった。

苦い文学

弟橘媛

お正月は千葉県内房の舞浦に遊びに行った。

なんにもないところだが、漁村らしい古い町並みがそこここに残っていて、まるで『男はつらいよ』に出てきそうだった。港近くの土産物屋で干物を買い、食堂で新鮮な魚を味わった。

近くに舞姫神社という古い神社もあり、せっかくなので初詣にと寄ってみることにした。参拝者の列に並んでお参りを済ませ、境内をぶらぶら歩いていると、天女のような石像がある。「弟橘媛(おとたちばなひめ)」と刻まれていて、その脇の案内板にこんなふうに書かれていた。

「その昔、相模から上総に渡ろうとした日本武尊が、嵐に襲われ海上で立ち往生していたところ、その妻の弟橘媛が海神を鎮めるために、入水しました」

「その後、弟橘媛の袖が流れ着いたのが袖ヶ浦、衣服が流れ着いたのが富津(古くは布流津)、その腰巻きが流れ着いたのがこの舞浦です(古くは巻浦)。また、日本武尊が妻を偲んで詠んだ歌《君さらず袖しが浦に立つ波のその面影をみるぞ悲しき》の《君さらず》が木更津・君津の由来になったと言われています」

「舞浦市民有志は、尊い命を自ら絶って日本武尊を救った弟橘媛を記念して、寄付により、令和5年3月にこの像を建立しました」

そして案内板の末尾はこんなふうに締めくくられていた。

「*厚生労働省や自殺の防止活動に取り組む団体は、嵐を鎮めたいときは自分だけで解決しようとするのではなく、専門の相談員に相談することを呼びかけています」

苦い文学

非対面世界(5)

日本の大学への留学生は、2つに分けることができる。大学に向いている留学生と向いていない留学生だ(もうひとつ、働きたいだけの留学生もいるがここでは触れない)。大学に向いている留学生とは、普通の、そして大部分の留学生だ。

これに対し大学に向いていない留学生は普通ではない。なぜなら、大学に向いていない人が大学に来ることは普通はないからだ。

しかし、次の二つの条件が揃った場合だけは別だ。つまり、留学生の親にかなりの資産があり、しかも、なにがなんでも(子どもの意思・適性などお構いなく)外国の大学を卒業させたいと考えている場合のみ、普通でないことが起こりうるのだ。

しかも、そうした親の中には、自分の子どもが日本で何を学ぶかなんて重要ではなく、ただ日本で大学を出たという証明書だけ持って帰ってきてくれればいい、という考えの持ち主も一定数いる。

そして、こういう親を持つ留学生の受け皿となっているのが、彼の大学なのだ。いや、「受け皿」など結構な表現すぎる。親の弱みにつけ込んで、いいカモにしているというのが実情だ。

こうした状況を考えてはじめて、代理出席業者が横行するのも、そして、それに口を出すなという彼の同僚の態度も理解できるようになる。

なぜなら、親に言われて日本に来ただけで「勉強する気」などない裕福な留学生にとって、代理出席業者を利用するというのはさほど抵抗感のないことだからだ。また大学からすれば「大学卒業証書」だけを4年間かけて無難に「売りつけ」ればいいだけなのだから、代理出席を追求するなどどうでもいい事柄だ。いや、むしろ、やる気のない学生を追求し、ことを荒立てたりして、中国で悪い評判を立てられるほうが、よっぽど商売の邪魔だ。

それゆえ、放っておくのが一番ということになる。だが、彼はこの考え方は気に入らなかった。

苦い文学

取っ手のとれる

CEFR(セファール、ヨーロッパ言語共通参照枠は略称)は、その名の通り、ヨーロッパで異言語を学ぶ学習者の能力を、言語にかかわりなく同じ基準で測れるようにと設けられた基準である。しかし、現在ではヨーロッパ以外、例えば日本でもこれをもとに日本語能力試験のレベルが設定されている。

CEFR のレベルは、A、B、C の 3 つにそれぞれ 2 段階、つまり全部で 6 つある。もっとも低いレベルは A-1 で、最高が C-2 だ。A-1 の能力がどのようなものかというと例えば「自分や他人を紹介することができる」とこのレベルになる。そして「聞いたり、読んだりしたほぼすべてのものを容易に理解することができる」とか「自然に、流暢かつ正確に自己表現ができる」となると C-2 だ。このように「〜できる」という能力を重視してレベルが設定されているのも CEFR の特徴だ。

CEFR が公表されたのは 2001 年だ。その準備段階で実は C-2 より上のレベルとして、D-1 と D-2 もまた設けられていたのは、まったく知られていない。

私がある筋から特別に入手した情報によると、D-1 では「自分自身についてカリスマティックに語ることができ、民衆を熱狂させることができる」、D-2 では「陰謀論を巧みに用いて、民衆を煽動し、戦争を始めることができる」ということだ。

このレベルが削除されたのも無理もないといえよう。