散文

贅沢なレジャー

AIに聞けば、なんでも答えてくれる。もちろん間違いもあるかもしれないが、チェックすればいいだけの話だし、そのうち、AIの間違いもなくなるだろう。いや、AIの間違いは間違いだと見做されなくなるだろう。

難しい本の内容も、AIが簡単に説明してくれる。あらすじも教えてくれる。言語の壁も粉砕された。どんな言語もすぐに翻訳してくれる。

だから、本など読む必要はない、外国語など勉強する必要はない、と主張する人が出てくるのも当然だろう。これに対して、思考力が……とか、リテラシーというものは……など言い立てる人もいるが、そういう人もこっそりAIを使っている。いや、その高尚な見解すらAI由来成分がたっぷりだ。

もっとも、私は読書や外国語学習がなくなるとは思わない。むしろそれらは、AIが普及したのちは、富裕層のみに許された贅沢なレジャーとなるのではないかと思っている。読書も外国語学習も時間と労力を必要とする活動だ。そして時間と労力をそんなことに費やせるのは、富裕層しかいない。

昔、山登りは何か生活の必要に結びついた労働だった。そして、そのような労働の必要のなくなった現代では、山登りは、装備や入山料など、大金をはたける人だけができる贅沢な遊びになってしまった。そして、私たちは、コスパが悪いという理由で山登りなどゲームやVRで十分、と笑っている。だが、実際にはお金もなければ休みもないで、登山口にすら辿り着けない。

読書も外国語学習も同じだ。じっくり精読したり、単語を暗記したりしている間に、空腹が耐え難くなってくる。休憩時間にAIに聞くのが私たちにはお似合いだ。AIはもう貧困層の印というわけで、AIフリーの読書と外国語学習が、お金持ちのステータスとなるのも当然の成り行き。

もしかしたら、渋谷松濤の「アッカド語講読サークル」に高貴な人々が集う、そんな時代も来るかもしれない。

「奥様! サルゴン大王の碑文、もうお読みになって?」

「ええ、とても素晴らしいものでしたわ!」

「それはそうと、今日は伯爵はお見えにならないのね!」

「そうなの! なんでも『資本論』(ヴェルケ版)に夢中だとかで!」

風刺・戯文

懐かしいマウント

マウント取りで難しいのはそれがあからさまであってはいけないということだ。

なにしろ相手がその場でマウントを取られたと感じたら喧嘩になってしまう。だが、かといって相手が気がつかないではいけない。言われた相手がなんとなく違和感を感じるとか、はっきり言えないけどイヤな感じがする、とか微妙なラインを狙うのだが、これが実に難しい。

さらに難易度が高いのは、後からじわじわ効いてくるマウント取りだ。これは、言われたときはまったく気がつかずにいるが、帰宅してその日のことを思い返しているうちにムカついてくるというものだ。言い返そうと思ってももう遅い。なにしろ相手はもういないのだ。

マウント取りもこの域に達するには、相当の鍛錬が必要だが、これを簡単にしかも安全に実現できる「マウントことば」を、私は発見した。

それは「うわ、懐かしい〜!」だ。何かしている人なら誰にでもマウントの取れるワードだ。

単なる個人的な述懐のように聞こえる。だが、実は後からジワジワと効いてくる。

まずここには自己の絶対的優越性が潜んでいる。「あなたのしていることは私にとってはすでに乗り越えられた過去のことであり、あなたは私の何歩も後ろを歩いているんですよ」だ。

またこの言葉は相手のしていることも卑小化してみせる。「おやおやとっくの昔に私が通過したつまらないことをやっているね」

そして、このことばによく耳を傾けてほしい。どことなくおどけた感じがあるではないか。このユーモア感こそ、このマウントことば全体を親しげなものに仕立て上げ、相手を誤解に導くものだ。だが、その背後には「最前線にいる私から見るとほほえましいね」という嘲りが隠されている。こう言われた者は、効果テキメン、その夜遅く、布団の中で切歯扼腕すること疑いなしだ。

こんなに簡単で安全なマウント言葉はめったにない。マウント取りの諸君にはぜひこの「うわ、懐かしい〜!」を活用してほしい。ただし、「うわ、懐かしい〜!」とさっそく試みている諸君が、私に「うわ、懐かしい〜!」と言われたとしても、無理ないことと諦めてほしい。

苦い文学

未来における誕生(1)

とある理由により、はるか未来へと飛ばされた私は、現代に帰る方法を探して、今日もまた旅を続けるのであった。

暗い森を抜け、素朴な集落にたどり着いたとき、私は人々のざわめきに気がついた。集落の中に入ると、にぎやかな宴の真っ最中なのだった。私は、楽しげに飲み食いする人々に近づいて尋ねた。

「これはいったいなんの祭りですか?」

すると、ひとりの男が「ようこそ、客人」と私を招き入れ、食事と酒をすすめた。空腹だった私が食べ始めると、男が質問に答えてくれた。

「これは祭りではありません。今日は私たちの村に久しぶりに赤ん坊がやってきたのです」

「なんとおめでとうございます。そのお子さんが健やかでありますように!」と私が盃を掲げると、人々は喜んで酒を飲み干した。

そのとき、私たちのテーブルに、小柄な男がやってきた。男は酒器を手にしていて、私たちひとりひとりに酒を注いで回るのだった。人々は小男に注いでもらうたびに「おめでとうございます」とか「元気に育ちますように」と声をかけ、その度に男は頭を下げた。

小男はやがて私のところに来た。私は彼に酒を注いでもらいながら、お祝いの言葉を述べ、こう付け加えた。

「お子さんの誕生とともに、あなたもまた父として誕生したのです。これもすばらしいことではありませんか」

すると、小柄な男はひどく呆れたような顔で私を見つめるのだった。

苦い文学

冒涜

保険金不正受給問題が発覚した中古車販売大手、ビッグモーターの本社前に今日、抗議者たちが集ってデモを行いました。目的は、昨日行われた会見での社長の発言の訂正と、社長の謝罪です。

デモ参加者「社長はこんなことを言ったそうじゃないですか。『ゴルフボールを靴下に入れて、振り回して、水増し請求する。本当に許せません。ゴルフを愛する人への冒涜ですよ』と。いや本当に許せないのは、私たちですよ」

別のデモ参加者「そうだ! 私たちだって冒涜されたんです。私たちの愛する靴下がそんな用途に使われていたなんて!」

参加者一同「靴下を愛する私たちへの謝罪を求める!」

サンタクロースの格好で大きな靴下を掲げているのが抗議活動の主催者です。

主催者「靴下を冒涜することは、サンタを信じる子どもたちの夢を踏みにじることですよね。この会社がやっているのは、サンタが靴下にプレゼントを入れて、それでトナカイを殴っているのと一緒ですよ!」

抗議者たちが猛暑のなか抗議活動を続け、参加者たちの履き古した靴下から発する臭気で、ビッグモーターの本社前は一時騒然となりました。

苦い文学

夫婦別姓

夫婦別姓について議論が繰り返されている。

最近でも、夫婦別姓が憲法に違反するかどうかの裁判が東京と広島で行われたが、結局これは違憲ではないという判決となった。

また、選択的夫婦別姓についてもしばしば取り上げられる。

これは、夫婦が同じ名字でも、結婚前の別々の名字でも、どちらでも自由に選べる、というものだ。しかし、これもまた法改正には至っていない。

こうした反対が根強いのは、夫婦別姓が日本の「家」の崩壊につながる、という危機感を持つ人が多いためのようだ。もっとも、家を崩壊させるのは、統一教会など名字以外にもたくさんあるから、この説はあまり信用ならない。

いっぽう、夫婦同姓制度に反対する人は、これが女性差別を制度化したものだと考える。もちろん、結婚する時に男性が姓を変える場合もあるが、実際には女性が変えるのが当たり前だというのが通念だ。これが、女性にある種の服従を強いることとなっている、というのである。

女性平等の社会、とはいうが、実情はまだまだというわけだ。

私自身の意見としては、夫婦別姓には反対だ。というか、私はむしろ名字などいらないのではないかと考えている。無姓に賛成なのだ。

ビルマではすべてではないものの多くの民族が名字を用いない。アイスランドも名字がないという。名字がなくて国が滅びたという話は聞かないから、名字など必要ないのだ。また、名字の数が限られている韓国だって、日本の名字の数から見ればないのも同然だが、特に問題はないようだ。

これに対して、名字は文化だ、という人もいるかもしれない。だが、名字が文化であることと、これを公的に登録することとは別物だ。また、名字を禁止するというわけでもないから、好きなように使えばいいだけの話なのだ。

おそらく無姓主義は、賛同者も少ないだろうし、実現の可能性もほぼないが、もしかしたら名字がなければ、社会にいろいろよい変化があるのでは、と思えるのだ。