散文

成功に終わらず(1)

ソルジェニーツィンの『収容所群島』第五部十二章(邦訳版第六巻)では、ケンギル収容所で起きた反乱が戦車によって残酷に鎮圧された事件が報告されている。作者は、その末尾に以下のような「詩」を引く。

暴動が成功に終わることはない。
勝利を収めたときには、その呼び名も変わるから…… (バーンズ)

この引用を通じてソルジェニーツィンが言いたかったのは、ケンギルの反乱は成功に終わらず、それゆえ呼び名も変わらなかったが、それでもなおこの事件は、反乱と片付けることのできないなにかであるのだ、ということだと思う。それはそれとして、私はこの言葉を読んだとき、別な解釈が思い浮かんだ。それはこんなものだ。

社会を変えようとする運動は、本質的には成功しないものだ。というのも、成功したそのときに、その運動自体が変えられるべき対象となるから。

つまり、社会を変えようとする運動は、それが運動であり続けるかぎり、成功に終わってはならない、ということだ。別の言い方をするならば、本当の運動は、成功する瞬間に、あえて失敗の側に立つ。なぜなら、運動の原点は、常に敗者の側にしかないから。

もちろんこれはすべての運動には当てはまらないし、当てはまっても困る。だが、本当の運動が持つべき条件、私がかねてから考えていた条件を言い当てているように思え、感心したのだった。

そこで私はこの「詩」の正確な文脈を知りたくなった。作者は「バーンズ」とのみある。ロシア風の名前ではなく、英語の名前だ。

だが、バーンズとはいったいなんであろうか。社会運動の本質を見抜いた、こんなラディカルな言葉を残した人物とは誰であろうか。私は英文学はよくわからないし、英詩についてはなおさらだ。ただ私はなんとなくロマン派風の人物を想像していた。バーンズは詩を書きながら革命に身を投じ、戦場か獄中かで死んだ……彼は自ら失敗の側を選んだのだ……。そこでちょっと検索してみると、カタカナでバーンズなる人物がわんさかだ。英語の綴りも Burns、Barnes、Byrnes などとキリがない。どこから手をつけたらいいかわからなくなって、私は諦めてしまった。

風刺・戯文

男のハンディファン

今年の夏、ハンディファンを持って街を歩くおじさんたちが各地に出現している。去年はそんな人はひとりもいなかったのにだ。「これはハンディファン史上大きな転換期を迎えているのだ」という人もいれば、「いや、猿が木から降りたのに匹敵する大きな人類の変化だ」と主張する人もいる。それどころか「7月5日はこれだったのだ。予言は本当だった」と言い出す人もいるありさまだ。

しかしそれにつけても不思議なのは、いったいどうしておじさんたちがハンディファンを使うようになったのか、だ。その理由がまったく腑に落ちないのだ。そもそも、ハンディファンは、韓国のスターたちがメイクが落ちないように使っていたのが始まりだ。それがきっかけとなって、若い女性たちの間で流行したのだ。

いったい、これまで若い女性の流行におじさんが追随したことなどあっただろうか? いや、ないのだ。おじさんたちは若い女の子の真似など決してしない・できない生き物なのだ。その決してありえないことが、ハンディファンで起きた。そこまで地球温暖化が進行したということなのだろうか?

こうした疑問に突き動かされて、私は、ハンディファンを使うおじさんたちの心の秘密を聞き出すべく、街頭インタビュー調査を敢行した。その結果、以下のような事実が判明した。

「おじさんたちが持っているのは、ハンディファンではなかった。それは、もともとファン付き作業着のファンであったものが、作業着部分の退化により自立したものである」

つまり、地球温暖化という過酷な環境への適応の中で収斂進化が起き、ハンディファンと類似した形質を獲得するに至ったのである。進化論研究上、きわめて興味深い例だと考えられよう。

苦い文学

リサイクル・ボックス

私たちは神に呪われた存在だ。なぜなら、神より下された掟を守らなかったから。

神の掟はただひとつ。自販機の横のリサイクル・ボックスには、空き缶やペットボトルだけを捨てること。なんとなれば、リサイクルは神の祝福だからだ。

だが、私たち人間は、神に背いた。私たちの心は頑なになり、紙屑や、プラスチックのカップや焼きそばの皿や割り箸などをリサイクル・ボックスに捨ててしまったのだ。いや、捨てるどころではない。缶一本入るだけの投入口に、ゴミを押し込み、ねじ込み、ムキになって、見苦しく罵りながら! ただただゴミから解放されたいと言う利己的な欲を満たすためだけに! このとき、神聖なるリサイクルが汚されたのだ。

ああ、神の怒りはげに恐ろしきかな。私たちはリサイクルの円環から追放された。ちょうどアダムとイブがエデンの園を追放されたように。この二人が追放されたのは禁じられたリンゴを食べたからではない。残ったリンゴの芯を、木のそばに設置されたリサイクル・ボックスに捨てたからなのだ。

そしていま、神は私たちの目を曇らせ、自販機の横のリサイクル・ボックスを見えないようにされた。それが見えるのは、リサイクル・ボックスに缶やペットボトル以外のものを入れたことのない心の清い者だけだ。

そうした人だけが、自販機の裏や壁と自販機の間の暗がりに、リサイクル・ボックスが、投入口を下向きにして、ひっそりと置かれているのを見出すのである。

苦い文学

いま若者があぶない

若者への大麻のまん延がかつてなく深刻になっている。その理由には、「かっこいいから」というファッション的なものもあるにちがいない。

昔の未成年はタバコをふかしてイキがったものだが、今はそれが大麻になったのだ。だが、どうして、タバコが大麻に変わってしまったのだろうか。

答えは簡単だ。

タバコはもうカッコ悪いからだ。ここ 10 年の間に日本の社会も変わって、喫煙率も下がり、喫煙自体が過去の習慣となりつつある。いまやタバコは古臭さ・かっこ悪さの象徴となったのだ。

だから、芸能人でもタバコを吸う人はいない。いや、いることはいるのだが、それを公言する人はまずいない。イメージ的になんの得にもならないからだ。

いっぽう、大麻を吸う芸能人は確実にいる。なぜなら警察が逮捕するからだ。これ以上のエビデンスはない。そこで、若者は、大麻は芸能人がやるから、タバコよりもかっこいいと思ってしまう。

しかも、若者には、大麻を吸う大人がどんな様子だかはわからない。なぜなら、逮捕されるのでみんなこっそり吸うからだ。いっぽう、タバコはどこでも平気で吸う人がいる。そして、そうした人にかぎって確実に汚らしい(かつ臭い)。

こうした状況で、若者たちが大麻を選ばなかったらどうかしている。

禁煙が進めば進むほど、若者は大麻に魅力を感じるようになる。皮肉な事態だが、実はここに若者の大麻使用増加を防ぐ鍵がある。

80 歳以上の大麻使用を合法化すればいい。そうすれば若者はもう大麻に見向きもしなくなるだろう。

「わー、おばあちゃんの家の匂いだー!」

そんなふうに言われるものを吸いたがる人がいようか。

苦い文学

校長の言葉

みなさん、本日は開校式においでいただきありがとうございます。

思い起こせば 30 年前、私が日本語教育を学ぶ一人の学生であったとき、恩師服部先生と、こんなやり取りをしたことが思い出されます。

「どういう日本語教師がよい教師だと思うかね」と先生がおっしゃいました。

私は単純にもこう答えました。「なんでも知っていて、学生たちの質問にすぐに答えられる教師です」

すると、服部先生は柔らかい口調で反対しました。

「いや、これが違うのだ。それでは、学生たちは教師に頼り切りになってしまう。本当によい日本語教師というのは、学生たちに余計な介入をしない、いわば、学生たちの前で姿を消すことができる教師なのだ。そうやってこそ、学生たちは自分自身で学ぶ力を育むことができるのだ」

私はこの言葉を聞いて以来、服部先生のおっしゃるような「良い教師」たらんと努め、さらには「姿を消す」優秀な教師たちが集う素晴らしい日本語学校を作りたいと念じてまいりました。

そして、その念願が今、ここに実現したのであります。私たちの新しい日本語学校が、この伝統ある地に根付き芽生え、多くの学生たちを草として日本中に送り込めるよう、教員一同邁進してまいる所存でございます。

伊賀忍びの里日本語学校校長
嗣永三太夫