ライブ

みなみかわ@草月ホール

「ニヤる~話を3つ用意しました~」というタイトルで、ひとつ三十分強の漫談を三つ、合わせて一時間四十五分の公演だった。私が見に行ったのは夜だ。

内容については「終わったら忘れてください」というので書かない。どの漫談もみなみかわ自身の一人称の語りで、フィクションではなかったが、フィクションとしての構造も、どんでん返しもあった。とくに良かったのは、一つ目と三つ目で、一つ目はコメディ映画になりそうなアイディアを実行してみた話、三つ目はある意味ではホーム・アローンのように悪者を撃退する話だった。

また、どれも倫理がテーマになっていた。一つ目は倫理的であろうとするあまり生まれたコメディ、二つ目は反倫理的行為の追求、三つ目は倫理的でないものを、倫理でもって「成敗」するもので、観客もやっつけられる側にあったのが面白いところだ。

倫理のある笑いというのは、なにも道徳的なことを主張するような堅苦しいものではない。笑いのテーマや方法の根っこに倫理、あるいは倫理から生まれた怒りやいらだちがあるということだ。そうした倫理がなくても笑いは生まれるし、そういう笑いもあってもいいと思う。ただ、倫理は、人間関係や善悪の判断がそうであるように、社会的なものだ。だから、そこから生まれる笑いは、程度の差はあるにしても、社会のあり方を反映したものになる。私はこんなふうに社会に触れてくる笑いが好きだ。

ところで、最初の漫談で、ちょっとしたトラブルがあった。みなみかわさんは大きな声で慌てていたが、何かトラブルがあったときに、黙ってトラブルを解消しようとするよりも、明るく騒いだほうが見ていて安心できるのに気がついた。私も人前で話すときになにか問題が生じたら、派手に困ってみせようと思う。

散文

カレンのバーベキュー

日本に暮らすビルマのカレン人が、今日7月20日、葛西臨海公園でバーベキューの集いを開催した。私も誘われたので、行くことにした。100人ぐらい来るとのことだが、本当にそんなにくるのかわからない。チケットを見ると11時から開始というので、20分ぐらい前に行ってみたら、カレンの服を着た数名の人がたむろしているだけだった。これから準備を始めるらしい。

炎天下のなか、近くの木陰で待っているとだんだん人がやってきた。知り合いのカレン人も次々とやってきて、テーブルを広げたり、グリルに炭を投入して火をおこしたりしている。私はそのそばでぼんやりみていた。

するとカレンの若い人が私にウチワを渡してくれた。とても暑かったので私が思わず「ありがとう」というと、「なにを言ってるのかな」という顔つきで私をみて、それからグリルに目をやった。火をおこすためのウチワだったのだ。それから私はしばらくのあいだ、ウチワでグリルを扇ぎ続けた。ぼーっとつっ立っているよりはるかにマシだった。

そのうち、人々は肉やソーセージを焼き出した。この頃には私は自分のテーブルに移っていた。テーブルは15〜6ぐらい用意されていて、それぞれのテーブルに最低でも6人ぐらい座っていたから、100人というのは本当のようだ(子どももたくさんいた)。私はテーブルに座ると、あとはもうなにもせずひたすら肉やエビやソーセージを食べ続けた。ときどき、古い友人を見つけると会いに行って挨拶をした。

ある時から、私の席の向かいに、若いカレンの男が座っていた。背が高くていかにも健康そうだ。大きな声で話し、シャツのはだけた胸元からタトゥーが見えた(これはカレン人だけでなく、若いビルマ人がよくいれている)。

私は最初、彼のことを知らない人だと思っていたが、だんだん彼のことを思い出した。だが、確証がなかった。彼の手をこっそり見た。というのも、彼は手に特徴があるということを聞いていたから。だが、その手は焼かれたエビを掴んだり、お皿を他の人に渡したり、忙しく働いていて、よくわからなかった。

そこで思い切って私は名前を聞いてみた。彼は教えてくれたが、覚えのない名前だった。私はさらに尋ねた。

「前に会ったことありましたか?」

「私は会ったことがあると思います」 そこで私はもう間違いないと思って「M さんの息子さんでは?」と確認すると、若者はそうだと答えた。M さんはずいぶん前に亡くなったカレン人難民だ。入管に 3 年も収容されていて、私は何回か面会に行ったこともあった。

「そうですか!」と私はうれしくなった。M さんの葬儀のとき、当時未成年だった彼はビルマから日本にやってきて、そのまま難民として日本にいることになったのだった。思えばそのときから彼にほとんど会ったことがなかった。

「M さんとは友達でしたよ」と私がいうと彼は「お父さんに顔が似ているとみんなよく言います」と笑った。

この時になってはじめて、私が彼の手の特徴に気がついたのは、思えば不思議なことだ。彼は曲がった親指の持ち主だ。

苦い文学

正論

もしかしたら頭がおかしくなりかけているのかもしれない。私は最近苦しいのだ。見えない世界の存在たちが見えるようになった。

それは恐ろしい存在だ。まるで影のようだ。血が影のように流れている。涙も、鼻水も……。

たくさんの子ども、そして女たち、ときどき男……。

これらの悲惨な魂が私を取り巻くのだ! すがりつき、しつこく訴える。殺された! 奪われた! 罪もないのに! 戦争で! 暴力で! 肉体を剥ぎ取られた! 

なのに! なのに! なのに! 間違ってる! あいつらが生きて、私たちが死ぬなんて!

そして、連中は私に復讐を求めるのだ。恨みを晴らしてくれと! 殺してくれと。あいつらの大事なものをすべてなぶり殺しにしてくれと!

私は困り果てる。連中の言うことに非はない! 正しいのだ! だが、できない、できない。そんなのは私の仕事じゃないんだ……ほっといてくれ。それに気持ち悪すぎる。惨めで醜く汚らしい! だが、霊たちは私に付きまとう。しつっこく。見込まれてしまったのだ!

私は苦しみ、のたうちまわり、なんとか逃れようと手当たり次第に掴む。もうだめだ、飲み込まれる……だが、そのとき私の心にあの言葉がやってきた。ああ、なんという無情な言葉だろう。私はどれだけその言葉に痛めつけられたことだろうか。だが、その言葉がいま私を!

いま私を助けてくれる……私は血だらけの汚れた霊たちにこう言い返す。

「恨みを晴らすって? なるほど、あなたのいうことは正論だけど、その正論じゃ世の中は動かないよ」

霊たちはたちまち静かになる。「正論だ」この一言で、もう何も言えない。「ときには我慢が必要じゃない? 正論はごもっともだけどさ」 追い討ちだ。悪霊退散だ。

「正論」という言葉は、弱くてうるさい連中の「正論」を捻り潰すためだけにある言葉だったのだ!

ありがとう、ありがとう、「正論」という言葉を考えてくれた人よ……。

苦い文学

炎上

成熟した女性がもっとも憎むものはなんだろうか。

不正、性差別、理不尽な思い、無責任な組織、卑怯な男……これらは成熟し、まともな分別のある女性が等しく憎むところだ。だが、それらは最上位ではない。私の見るところ、女性が憎むものベストワンは日光だ。

でなければ、どうしてあのような忍者みたいな格好をするのだろうか。カラスのくちばしのようなサンバイザーで顔を覆うのだろうか。顔を布でぐるぐる巻きにした上に、カマキリのようなサングラスをかけるのだろうか。まるで日光を浴びたらたちまち灰になってしまうかのようではないか。

これはみな、女性が日光を憎むことはなはだしきによるのである。

だが、私はこうした女性たちを揶揄しているのではない。むしろ、激しい憤りを感じているのだ。

考えてもみてほしい。男は裸で歩いて平気だというのに、女性はそうではないのだ。これこそ太陽によるあからさまな性差別ではないだろうか。

ゆがんだ性差別行動をくりかえす太陽は、いちど炎上して痛い目にあったほうがいいと思っているのは私だけではないはずだ。

苦い文学

長生きの秘訣

年寄りが、初対面の人に自分の歳を当てさせて、自分が90何歳なのを知らせて驚かしたり、あるいは、聞かれてないのにまず自分の歳のことを話して感心させたりして、本人はいたくご満悦、といった光景がたまにみられるが、年を取るのがそんなに大したことなのか。

いや、大したことに違いないのだが、そんなに自慢げに言うことなのか。

そもそも、我々の社会はいたずらに自慢することをよしとしない社会だが、これら高齢者は、その社会をそれこそ何十年も生きてきたにもかかわらず、ある年齢に達した途端、自分の年齢の自慢をためらわなくなるのだ。

しかも、これらの老人たちは、その長い年月の間にどれだけ立派なことをしてきたかしれないのに、そんなことなどお構いなしで、自分の人生をすっかりその二桁か三桁の数字に変換してしまう。

いったいこれはどういうことなのか。私は考えに考え、ある一つの答えに到達した。

つまり、自分の年齢を自慢するような人だけが、長生きするのだ。

考えてみてほしい。「こんなに年取って申し訳ありません」「生きていてすいません」「馬齢を重ねまして……」「恥さらしな人生を生きております……」などといつも言っているような人が、長生きなどできようか?

これらの言葉は、口にするたびにその人の寿命を奪っていく魔の言葉なのだ。それこそ月単位で、だ。

そんなわけで長生きをしたい人は、これらの言葉を避けるべきである。

そのかわり、自分の誕生日が来るたびにウキウキしたり、自分が人より年上であるだけで得意になったり、そんな心持ちでいるようによろしく努めるべきなのだ。