散文

カレンの木べら(手首結びの儀式4)

私たちが会場の前方で座っていると、入れ替わり立ち替わりスピーチが始まった。初めはビルマ語、次に別の若者が出てきてスゴー・カレン語で話し始める。その次は西ポー・カレン語、さらに東ポー・カレン語と続く。これはこういう式典ではよくあることで、同じ内容をビルマ語とそれぞれのカレン語で繰り返すのだ。

カレン語はこの三つ以外にもたくさんあるが、話者が多いのはこの三つなのだそうだ。カレン人の集いなのにビルマ語が使われるのは、カレン人以外のゲストもいたからでもあるが、そもそもカレン語の話せないカレン人もいるからだ。

さて、カレン語でのスピーチの最後に日本語でのスピーチもあった。あらかじめ準備した原稿をカレン人の若者が読み上げる。十分に分かりやすい日本語だ。

内容は手首結びの儀式とそれに使われる品々の説明だ。これは儀式の前に友人に教えてもらったのとほとんど変わりはなかった。また、私が少し不思議に思った soul だが、スピーチでも「良い魂」「悪い魂」と言っていた。もしかしたら、カレンの文化では、魂は体内にずっと留まっているものではなく、外に出て良くなったり悪くなったりするものなのかもしれない。もっとも、私が誤解している可能性はある。

なんにせよ、長いスピーチの時間は終わり、いよいよ儀式の開始となった。初めに木べらを取り、笊の縁をトントン叩く。どういうリズムで叩けばいいかわからないので、隣の人を見ながら叩く。私の左隣にいるのは、カレン人の女性で以前から知っている人だ。右隣の男性は知らない人だが、私と同じように戸惑っているところを見るとカレン人ではなさそうだ。私は女性の方を見ながら合わせて叩く。その向こうでも横一列に並んだ人々が叩いている。

この調子なら、私が間違って「悪い魂」を引き寄せたとしてもたぶん害はないだろう。

風刺・戯文

ウナギの危機

日本人の愛してやまぬウナギが絶滅の恐れがあるとして、国際取引の規制対象となる可能性が出てきた。11 月に開催されるワシントン条約の締約国会議での協議次第では、輸入のウナギが食べられなくなるかもしれないというのだ。

たかが食べ物のことと侮ってはいけない。これはまさに国家の存亡に関わる重大事態なのだ。

というのも、輸入のウナギがなくなると、国産のウナギだけでは国内消費量はとうていカバーできなくなる。すると、ウナギはますます高価な食材となり、庶民にはもはや手が届かないものとなってしまう。これは、我が国民のスタミナ事情を直撃する深刻な事態であり、日本人は精をつけることができなくなる。その結果、少子化がうなぎ上りに進んでいくことが考えられる。

日本政府に提案したいのは、ニホンウナギは絶滅の恐れはないとして、規制対象から外すよう大規模なロビー活動を展開することだ。そのための経費もケチるべきではない。締結国の関係者が日本の味方になってくれるように、鰻丼ではなく鰻重をふるまうべきだ。肝吸いも忘れてはいけない。

苦い文学

AI たちのかいた絵

このブログでは、短編かなにかを投稿するとき、私は一枚の画像をアイキャッチとしてつけるようにしている。これはブログの外観上の理由で、文字だらけになってしまうのを防ぐためだ。だから、画像そのものには意味がない。

初めは自分の撮った写真を使っていたが、それも大変なので、AI にたくさん画像を作らせて、その中から適当に選んで使うようになった。2022 年 10 月 22 日に AI の画像が初登場している。

画像を作らせていたのは Stable Diffusion だったが、今年の 6 月ごろからか、WordPress が投稿内容に合わせて画像を作ってくれるサービスを導入した。

最近はアイキャッチ画像づくりにこのサービスを使うことも多い。何枚も提案してくれるので、その中から使えるものを選べるのもいい。だが、いくつかの欠点がある。

まず、自殺や性などがテーマの場合、AI は画像の生成をしてくれないことがある。私の書くものには、こうした言葉がときたま出てくるので、しばしば拒絶されるということになる。

もうひとつの問題は、画像が白人男性中心ということだ。日本語で日本のことを書いても、AI はそれをアメリカの白人男性の世界に翻訳してしまうのだ。画像に意味はないといったが、さすがにこれは使えない。

画像作成のさいにはプロンプトも記入できるが、そこで「日本」とか入れてしまうと、今度は「侍と忍者と芸者の世界」になってしまう。現代日本の画像など、おそらくアメリカの白人男性の頭の中にはないのだろう。

もうひとつ面白いことがある。差別とか貧困とかをテーマにした投稿をもとに AI に画像を作らせると、決まって黒人ばかりになる。アメリカでは貧困といえば黒人ということなのだろう。

私が書くのは日本の貧困と差別だから、もちろんこれも使えない。だが、よく考えてみると、貧困と差別という言葉から、AI が日本の画像をどんどん生成しだしたら、それはそれで悲しいことなのは間違いない。

苦い文学

消極的休養

大学時代の友人と駅でばったり会った。哲学だか文学だかの批評活動をしているという男だ。

私たちはたまたま同じ方向に向かうようで、同じ電車に乗り、隣り合って座った。座るなり、彼はこんな話を始めた。

「ちょっと腰を痛めてね、整骨院に行ったんだ。で、椅子に座って待ってると、目の前に張り紙がある。どんなことが書いてあるかというと、2つの休養、つまり積極的休養と消極的休養だ。

「どちらも大事というんだが、まあ、これを見て、俺はちょっと頭に来て。積極的休養というのはまだいい。ウォーキングとかマッサージとかストレッチだ。

「問題は消極的休養だ。体を動かさない休養ということらしいんだが、睡眠、昼寝、そしてなんと読書だ。

「なんだこれは、と。読書が消極的休養? いやいやそれはありえない。読書ってのは、読み手とテクストの間で繰り広げられる死闘ではないか。この書を読み解かねば俺は死ぬ、そんな真剣勝負なんだ。それが休養とは!

「いやもうあきれてものが言えない。まあ、安っぽい自己啓発書か、軽佻浮薄なブンガクを読むっていうことなんだろうが、それがはたして読書の名に値するかね」

話しているうちに興奮してきたものらしく、彼はカバンから勢いよく分厚い本を取り出した。

「Ideen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophie さ(注:オーストリアの哲学者フッサールの大著『イデーン』)。これを原文で読むのが休養? 笑っちゃうね。ま、すまないが、しばしフッセルルと格闘させてもらうよ」

と言って彼は本をバンと開いた。そして、目をくわっと開いて本に向かい、30秒後に静かな寝息をたてはじめた。

苦い文学

主役(3)

男は主役と血にまつわる夢にうなされて目覚めた。もう昼前だった。身支度を済ませて部屋を出ると、見知らぬ男が待ち構えていた。

「先生、この町の町長でございます。主役をお探しとかと伺いまして、主役候補を公民館に集めてあります。町としても全面協力いたしますので、ぜひおいでください」

男はこれを聞いて思った。「もし、主役がいなかったら、真っ先にこの町長から殺してやろう」

男は町長に連れられて、公民館の大きな会議室に案内された。室内は主役候補でいっぱいだった。男が前に置かれた椅子に座ると、昨日、彼の部屋にやってきた若者が立ち上がった。手には男が投げつけた脚本が握られていた。

「私は監督よりこの脚本を託された助監督として、今回のオーデションの司会を担当させていただきます。私の隣におられるのは、この素晴らしい脚本を書かれた作家の先生です」

昨日の女が立ち上がって、微笑みながらお辞儀をした。

「そして」と助監督が続けた。「その隣におられるのが、この脚本に惚れ込んで、監督が手がけるのならと、出資を申し出てくれた社長です」

中年の男が立ち上がり、町の発展だの、町おこしだの、若者だの、子どもたちだのが散りばめられた演説をぶった。

「では、オーディションを始めましょう」と助監督が宣言した。「主役ばかりでなく、それ以外の役も決めてしまう予定です。ご自分の希望する役のセリフの書いた紙を選んでください」

人々にそれぞれ紙が行き渡ると、オーディションが始まった。

本職の役者など誰もいなかったが、助監督が意外と褒め上手だったので、初めは下手くそだった参加者も段々と乗ってきた。脚本家が冗談をしきりと口にしたので、会議室は活気づき、笑い声でいっぱいになった。誰もが楽しそうだった。

誰ひとり、男がこっそりと会議室を抜け出したのに気がつかなかった。外はもう夜になっていた。必ず主役を探し出して、絶対に血祭りに上げてやる、と憎しみに身を焦がしながら、男は闇の中に姿を消した。