散文

地獄の言語学入門(2)

そんなふうに思うようになったきっかけは、現在の日本、そして社会を取り巻く状況の変化にある。ロシアでも、アメリカでも、中国でも、今や自由の価値は下落してしまった。日本も例外ではない。円安とともに、自由安も進行しつつある。

国旗の扱いからしてそうだ。日本では、国旗の持ち方ひとつで刑務所に入れられるようになるという。そんなことで投獄されるのだとしたら、やがてもっとつまらないことでもそうなっていくのは間違いない。

しかも、少子高齢化の先進国、日本では、社会のいたるところで労働力が不足している。これを補うには、外国人の労働力が不可欠だ。なのに日本人ときたら、政治家とジャーナリストが旗ふって、外国人を憎み、放逐することばかりに精を出している。このぶんでは、職業選択の自由など悠長なことはいってられない。必要な労働を国民が担うしかなくなるのも時間の問題、つまり、強制的な労働だけが解決策だ。

ここで私たち慎み深い日本人は先人の知恵に学ばずにはいられない。ありがたいことに投獄と労働力を一挙に賄う手段を先輩たちが考えてくれていた。強制労働キャンプだ。

この便利な施設が、日本全国津々浦々で誘致され、競争入札され、建設されていくことだろう。そして、できればできるほど、投獄する理由もますます増えていく。

私はこの状況にもういてもたってもいられなくなった。日本人のために勇を奮って声を上げることにした。

全国民よ、言語学を学べ、と。

なぜなら、言語学こそが、刑務所の中でも支障なく研究を続けることのできる唯一の学問だからだ。

苦い文学

お米の輸出に反対します

政府が、米の輸出量をこれまでの8倍に相当する35万3千トンにまで増やすという計画を立てた。これに今、日本中の群衆が怒り狂っている。

「米不足で、米の値段が高騰し、いずれ一粒百円にもなろうというのに、外国に売るとは!」
「貧乏人は麦を食えとでもいうのか!」「我々はゼロ穀米しか食べられないというのに!」

これに対して、冷静で理知的な意見を述べる声もある。米の輸出は、米の生産量の増加と生産基盤の拡充につながり、結果的に国内の米の供給と価格を安定させる、というのだ。

これはもっともな意見で、知的な私もそう思う。だが、そうであっても、私は米の輸出には反対だ。それは先にあげたようなヒステリックで不合理で非論理的な群衆の意見に同調してのことではない。

まったく違うのだ。私はこんなことをしでかす日本政府を恐れているのだ。

考えてもみてほしい。米は世界中にあるが、日本のような米は日本にしかないのだ。野坂昭如が「米を神のように大切にしているのは日本人だけだ」などとよく書いているが、これが本当かどうかはさておき、「日本の米を神のように大切にしている」のは間違いなく日本人だけだ。

日本の米は私たちを育み、精神を形づくり、日本の伝統を作ってきた。そう、日本の米は日本人の魂なのだ。

そんな日本人の魂まで外国に売ろうというのだから、海外出兵は間近だと見るべきであろう。

苦い文学

見よ! 見よ! 新しい日本人を!(箱根の旅6)

ただちに私は、箱根で富士山がもっともよく見える場所に向かった。

そこは広々とした展望台で、私と同じように富士山を拝みにきた観光客でいっぱいだった。日本人も外国人も、富士の美しい姿に感動し、自撮りに夢中になっていた。

私はこれらの観光客をかき分けかき分け進み、最前列に割り込んだ。その山を見るやいなや「おお、山なる山よ!」と賛美の言葉が口を衝いて出た。

私はいつの間にか涙にかきくれていた。私の泣き声がはなはだ大であったにちがいない、居合わせた観光客が心配して私の背中をさすってくれた。

「ああ、わかります、わかります」とその人は言った。「あなたも不安になってここに駆けつけたのでしょう」

泣きじゃくりながら私はうなずいた。

「大丈夫ですよ。私も同じだったのです。あのコンビニの黒幕を見たのですね」

「そ、そうです」 嗚咽しながら声を絞り出す。

「それで、恐ろしい焦燥感に襲われたのですね。わかります。私もそうだったのです。いつか世界がすっぽり黒幕に覆われ、もはや富士山を見ることすらできなくなるのではないか……そんなふうに怖くなったのです」

もうたまらず私は泣き崩れた。その人は私の肩をだき、「大丈夫、大丈夫」と何度も繰り返してくれたのだった。そのおかげで、私は次第に落ち着きを取り戻した。そして、若干の恥ずかしさを感じながら、その親切な方に感謝を伝ようとしたそのときだった。

観光客たちのざわめきが広がった。まるで野獣のような咆哮が響き、あちこちで悲鳴が上がった。そして鋭い声がそれらの悲鳴をかき消すかのように叫んだ。

「見よ! 見よ! 新しい日本人を!」

苦い文学

韓国アイドル・グループ

もしもあなたが自分の子どもを忍耐強く、落ち着いた心の持ち主に育てたいのならば、韓国アイドル・グループのファンにするようお勧めする。

なにしろ韓国アイドル・グループのファンときたら、ただの1秒も心の休まる暇がないのだ。

新曲発表を「カムバック」と呼ぶのは K-POP の慣習であるが、韓国アイドル・グループでこのカムバックを順調にしてくれるのはほんの一握りに過ぎない。あとのグループはといえば、ただひたすら待ち続けるだけ。ひどいときには1年、2年、いやそれ以上もだ。なんと忍耐がいることだろうか。

なかには、ついにカムバックのとき来らずして、解散してしまうグループだっていくつもある。だから、ファンは「カムバ」との公式発表を聞かないうちは生きた心地もしないのだ。

さらに、ファンの心胆寒からしめるのが、契約更新だ。K-POP グループの契約年数は7年と法律で決められていて、これが更新されるかされないかが大問題となる。というのも更新されなければほぼ解散だからだ。そんなわけで、韓国アイドル・グループのファンはその時期が近づくと、もうヤキモキして眠れないほどだ。

これ以外にも、事務所とのトラブル、兵役、体調不良、謎の脱退、スキャンダル発覚、過去のいじめの告発、「極端な選択」など、心配の種は尽きない。

こんな危機また危機の状況で、韓国アイドル・グループのファンを1年も続ければ、もうその子は間違いない。どんな不安にもへこたれない立派な若者に成長することだろう。

苦い文学

どうして人は陰謀論を信じないのか

陰謀論というのは、爬虫類人間が人類を支配しているとか、ワクチンにマイクロチップが仕込まれている、とか、荒唐無稽で、およそ信じ難い要素がたいてい含まれている。

そのせいか、陰謀論の話題になると、「どうして人は陰謀論を信じるのか」という問題がしばしば取り上げられがちだ。

だが、こうした議論でときどき私が気になるのは、「陰謀論を信じない人」のほうが普通で、「陰謀論を信じる人」のほうが異常、という捉え方が多いことだ。

こういう捉え方をするからには、もう、結論は決まっている。異常な人が陰謀論を信じるのだ。

事実、陰謀論を信じる傾向があるとされるのは、「低収入、低学歴、社会的孤立」といった特徴をもつ人々だとされることが多い。

どうしてかというと、「低収入、低学歴、社会的孤立」は社会的にはマイノリティだからだ。そして、我々の社会ではマイノリティであるとは、別の言い方をすれば異常だということなのだ。

だが、実際のところ、陰謀論を信じるか信じないかは、収入も、学歴も、社会的に孤立しているかどうかも、あまり関係ないのではないか、あるいは、本質的ではないのではないか、そんなふうに考えさせられる例も多い。

私はこの問題についていろいろ考えた結果、次のような可能性もあるのではないかと思うようになった。

人間は陰謀論を信じるのがデフォルトの状態なのではないか、と。

だから、問題は「どうして人は陰謀論を信じるのか」ではなく「どうして人は陰謀論を信じなくなるのか」なのだ。

この点についてはまた別に書きたいが、ここにかの「地頭理論」が関わってくるのだ。

散文

日本語教育能力検定試験やよのさ(4)

 日本語教育能力検定試験の出題範囲は広く、その内容については日本国際教育支援協会のHPに出ている(出題範囲等)。見ていただければわかるかと思うが、この出題範囲について書いたものですら広い。私は何度かチャレンジしたが、だいたい最初の数行で挫折してしまい、最後まで読み通せない。

 なので私なりに理解している形で出題範囲をまとめるとおおよそ次の4分野になる。

①言語学
②日本語学
③日本語教授法
④日本語教育、その他もろもろ

 ①は②〜③の基礎だ。②は日本語を教えるための道具立て(文法用語)を揃える分野だ。③は教授法の歴史、初級・中級・上級の教授法、文法や読解、聴解などの教授法、成績の付け方などが含まれる。④は日本語教育に関連する分野で、記憶などの心理学、学習法、異文化コミュニケーション、日本語教育政策、移民政策などだ。

 これらのうち、一番重要なのは何だろうか。言語学を勉強したことがあるからいうわけではないが、私は、ためらわずに①の言語学、しかもその中の音声学と答える。

 理由は次の3つだ。

  1.  言語は音声を使うものだから、①の言語学では音声の観察が基礎となり、②では日本語の発音の理解、③では発音指導に不可欠である。
  2.  音声学は、知識だけでなく発音やアクセントを実際に聞き取ったり、口に出してみるという訓練が必要。つまり、一夜漬けでは身につかない。また、口腔断面図なども目を瞑っても書けるぐらいに手を動かしたほうがいい。
  3.  試験 I はもちろん、試験 II の調音やアクセントの聞き取り問題など音声学系問題は確実に得点源となる。だが、そうなるまでは、聴解問題の過去問を繰り返す必要がある。

 要するに音声学はやっかいで時間はかかるが、効果は大きい分野なのだ。

ヤンゴンの日本語学校
散文

日本語教育能力検定試験やよのさ(3)

 日本語教師養成講座に通っていても、当然ながら自分で勉強しなければ、検定試験に合格することはできない。ならば、養成講座が無意味かというとそうではない。

 そもそも日本語教師養成講座は、日本語教師を養成するための講座であり、検定試験合格が目的ではない。もちろん、学ぶ内容は重なっているが、演習や模擬授業など養成講座でしかできないことも多い。また、教員の実際的な経験を聞くのも役に立つし、同じ受講生の存在もよい刺激になる。

 だから、検定試験の合格だけを考えれば、独学でもいいかもしれないが、実際に日本語教師として働くことを考えると、養成講座での経験は大いに意味がある。

 それはともかく、独学だろうと養成講座だろうと、検定合格のためにやっておいたほうがいい、いや、やらなくてはならないことがある。

 それは、実際に日本語を教えることだ。

 聞いただけ、読んだだけの知識が、実際に教えるなかで、例えば学習者の発音を聞いたりして、「こういうことか」と思い当たることがある。また、教えていてなんとなく感じていた問題が、検定の教科書を見たら、専門的に解説されていて驚く。こうした経験が多ければ多いほど、検定試験の勉強はやりやすくなる。

 教えるのは、個人的なボランティアでもいい。しかし、もし機会があるのならば、日本語教室のボランティアや、日本語学校の非常勤のほうがずっといい。そこで働く教師からも学べるし、カリキュラムの設定、クラス運営、評価などについてもいくばくかは経験することもできる。また、個人では買うことのできない聴解教材などの使い方を経験できるのも貴重だ。

 検定試験は、日本語教師の受験者も多いが、このこと自体が、この試験の特徴、つまり実際に経験しながら勉強したほうが有利だ、ということを物語っているのではないかと思う。

たぶんヤンゴンでいちばん簡素な日本語学校