散文

メイナイ・ヘルプ・ユー?

私の英語力は高校生止まりで、その後もほったらかしだったのだが、最近になって少し英語を勉強しようという気になった。

そんなわけで英語のことを考えていると、ふと不思議な記憶が蘇ってきた。

May I help you?

これを私は「メイナイ・ヘルプ・ユー?」と発音するように習った、そんな記憶だ。may と I の間に n が挿入されるということだが、私はどうしてこんなことが起こるのか不思議になった。それで辞書などを調べてみたら、さらに不思議なことがわかった。

May I は常に「メイアイ」であり、「メイナイ」になどならないのだ。英語の歴史を紐解いたり、僻地の方言を調べれば出てくる可能性は否定しないが、その n が海を渡って私のもとにやってくることはどうにもなさそうだ。思い返してみると、そもそもどこで誰に習ったのかも記憶にない。要するに、私は間違って覚えていたのだ。そう思いつつもネットを調べ続けると、不思議の上にも不思議なことが明らかになった。

私以外にも「メイナイ・ヘルプ・ユー?」と書いている人が数名いたのだ。つまり、これは私の間違いというよりも、どこかの誰かがこの n を私に吹き込んだ、そんな可能性だって出てきた。

学校で習ったのだろうか? しかし、「メイナイ・ヘルプ・ユー?」とネットに書いたある人は、英語もろくに知らないとネチズンにバカにされていた。とすると、習ったとしても、全国的なものではないのだ。もしかしたら時期も限られているかもしれない。あるいは、日本英語教育界によって葬り去られた異端の教師集団、メイナイ派の残した痕跡が、この n なのかもしれない……。

私にはまったくわからない。手がかりもない。この不思議な問題を解明するためならどんな協力も歓迎する。情報をお持ちの方は、いつでもどこでも「キャナイ・ヘルプ・ユー?」とお声がけください。

風刺・戯文

今、日本の性があぶない

性癖とは「もともとは性格一般についていう言葉だったのに、今ではセックスに関する意味だけで用いられるようになってしまった」というようなことを誰かが指摘していた。確かに辞書で性癖を見ると、「生まれつきの性質。また、性質上のかたより。くせ。」と書いてある。

これが現在では、自分の性的興奮を喚起する、一般の人々から見ると少し特殊なポイント、というような意味で用いられるようになった。もっとも、これはインターネットを使う世代以降の話で、その前の人々はもともとの意味で「性癖」を用いて、性的な意味しか知らない若い人々を今も戸惑わせているかもしれない(ただしそれが性癖という可能性もある)。

「性」という言葉は「生まれつきの性質(英語でいえば nature)」という意味のようで、それで今ならば「生命」と書くところを「性命」とすることもあった。この生まれつきの性質が、男女の生まれつきというところに結びついて「性別(gender)」の意味をもつようになったと推測できる。この gender の性が、「性的な(sexual)」の性に結びつくのも当然の成り行きだ。

いっぽう「生まれつきの性質」の性は、今も「性格、性質、性善説」などに健在であるが、どれも新しい言葉ではない。これに対し「性的な(sexual)」の性は、「性器、性体験、性交渉、性感染」などの言葉に加えて、社会の変化にともなってクローズアップされてきた「性的指向・志向」「性的同意」「性差別」などますます勢力を拡大しつつある。

「性癖」が性的に受け取られるようになったのも、こうした背景が関係しているに違いない。だが、これはもしかしたら、nature の「性」が今あぶないということではないだろうか。なにしろ「性癖」はすでに「性的な(sexual)」の性に乗っ取られてしまったのだ。

私が思うところ、つぎに危険なのは「性向」だ。「向」がすでに「性的指向」と裏で通じ合っていて、もう裏切りそうな気配がある。この性向が性的側に寝返ったら、次は「性善説と性悪説」だ。こうなったらもう性的の進軍は止まらない。「性格」も「性質」も落城するのは時間の問題だ。

そして、近い将来、私たちは「関係性」「積極性」「感受性」「アルカリ性」などの言葉も、使うときにちょっと考えなければならなくなるだろう。

苦い文学

天国に手を伸ばして

一度限りの人生を生きるということは天国に行くようなものだ。

というのも、私たちが自分たちの人生が一度きりだということを思い出すのは、好きなことをしたい時だけだからだ。

そして、好きなことがなんでも許されているのが天国だ。

いっぽう、私たちが自分たちの人生が一度きりだということを思い出さないとき、私たちはなにをしているだろうか。

たぶん、好きなことではないだろう。きらいなことばかりではないかもしれないが、私たちが自分たちの人生が一度きりだということを思い出すときのような、特別なことではない。

そうした特別でないことは、しなくてはいけないからやっているにすぎない。ありふれたルーティンワーク、しがらみ上の作業だ。本質的には楽しくないことだし、ときにはつらいことでもある。

天国が地獄かというと、むしろ地獄に近い。

昔の人々は死後の世界があると信じていた。そして、生きている間に良いことをすれば、天国に行くし、そうでなければ地獄に行くと考えていた。

現在の私たちは、死後の世界をもはや信じることはできない。それは私たちが信仰心を失ったからではない。それは、私たちが、人生は一度きりと考えたほうが楽だということに気がついたからだ。死後に与えられる報いを待つよりも、現世で天国と地獄の報いを得たほうが手っ取り早いではないか。

人生は一度きりと思うたびに、地獄から天国に手を伸ばして、好きなことという天国の一部を、自分で簡単に手に入れる。

私たちはこのシステムがえらく気に入ったので、死んで天国に行こうなどとはもう思いもしない。それに天国だってお断りだろう。

苦い文学

人生を変えた本

「巻を措く能わず」というのは良い本について言われるが、その逆もまた良い本だといえる。読むのをやめて、早く自分の人生を生きたくなるような本だ。

私にとっては『人生に正解はない』(笘篠叡士著、幻覚社刊)がまさにそれだった。「人生には正解などないのだから、思うがままに生きよ」という著者の主張に心躍らせた私は、本を途中で放り出して新たな生き方へと歩み出したのだった。

私は長年勤めた会社を辞め、家も引き払った。残ったのは、最低限の所有物と『人生に正解はない』だけ。貯金をすべておろすと、長い旅に出た。冒険が始まったのだ。

そして、挫折と失敗の年月の末、私は無一文になって、もといた町へと戻ってきた。かつて勤めていた会社に行ったが、私を知るものは誰もおらず、中にも入れてもらえなかった。他で仕事を探したが、私のような一度足を踏み外した人間を雇ってくれるところはどこにもなかった。

私は失望し、こんなはずではなかったのに、と悔やんだ。

カバンの中から『人生に正解はない』を取り出した。この本が私の人生を変えてしまったのだ。これを古本屋に売ればおにぎりでも買えるかもしれない。

せめてお終いまで目を通そうと思ってパラパラとめくると、最後のページにこう書いてあった。

「人生には正解はない。だが不正解はある」

古本屋に持っていったら、値がつかなかった。