風刺・戯文

電車の広告

電車にはいろいろ広告が貼られているが、最近よく見るのが、何かの支援団体が寄付を呼びかけるものだ。女性の顔が大きく中央に配置され、こんな言葉が書いてある。「娘を持つ母親として、女の子に教育を受けさせない地域があってはいけないと思って寄付しました」とか「生理になると女の子が隔離され、学校にも行けない地域があるなんて信じられない」とか、語っているのだ。

私はこうした広告戦略はあまりよいとは思わない。問題となっている地域の背景を抜きにして語ることの乱暴さ、そして、女性の「善意」が利用されていることの不快さ、さらに、その地域の女性とそれについて語る女性という二重の女性性を男性の目を惹きつけるのに利用する狡猾さ……

そして今日、ぎゅうぎゅうの満員電車の中、ようやく頭を上げた瞬間に目に入ってきたこの広告を仰ぎ見ながら、私は思わずにいられない。今にも窒息しかけたり、パニックを起こしかけたりしている私たちについて、この広い世界のどこかで、今も電車の広告が「仕事に行くのに電車の中で押しつぶされて死にかけている人々がいるなんて、と思って寄付しました」と語っていることだろう、と。

苦い文学

我が国の将来は明るい

今朝、電車に乗っていたら、急停止して、車両内の電灯が消えた。しばらくしてアナウンスがあった。

「電気の点検を要する箇所に停車したため、すべてのパンタグラフを下げています。そのため、車両内の室内灯、暖房、送風が止まっております。車両内が暗くなっております。スリや置き引きに遭われませんよう、お気をつけください」

このアナウンスを聞いて私は軽く衝撃を受けた。スリだと? 現代の日本にはスリはいない、いるのは外国だけだ、そう教えられてきたのに、スリだと? 私はてっきり、電車の遅延に困り顔の乗客をせめて楽しませようと、車掌がちょっとした冗談を言ったのだと思った。昔、ジャングル・クルーズで、存在しない「首刈族」が私たちに愉快な刺激を与えたように、いもしないスリでイタズラを仕掛けたのだ(乗り物関係者はこういうジョークが好きと見える)。

だが、携帯で調べてみると、これは車掌のおふざけなどではない、ということがわかった。ニュースによれば、最近、日本でもスリが増えているというではないか。

私はこのニュースを見て、日本の将来への不安がすっかり解消した。私たちの素晴らしい与党に日本を任せて大丈夫、と確信した。

ほとんどいないと言われていたスリを増やせた政府にとって、子どもを増やせないわけなどないのだ。それこそ赤子の手をひねるようなものだ。

苦い文学

たった一度の人生だから

……人はどうして、たった一度の人生だからと言いながら、好きなこと、楽しいことをしようとするのだろうか。

むしろ、人はこう言うべきなのだ。「たった一度の人生だから、私は好きなことなどしたくない。たった一度の人生だからこそ、惨めで、救いもなければ、価値もない人生を生きたい」と。

だが、たった一度の人生を楽しく喜ばしく生きようとするお前はこう反論するだろう。

「もし来世があるのならば、今生での苦しみにも意味があるかもしれない。だが、来世などないのだ。したがって、苦しみにもなんの意味もないのだ」

これに対し、私はこう答える。「来世の楽しみとひきかえの今生の苦しみなど、本物の苦しみではない」と。それは来世に受ける楽しみの影のようなものにすぎないのだ。そんな苦しみはちっともリアルではない。

だが、たった一度の人生の苦しみは、本物なのだ。リアルなのだ。その苦しみは、なにものとも取り替えることのできない、一回限りの真の実在なのだ。

というと、お前は、つまらぬ言いがかりをつけようとするかもしれない。「いや、それをいうならばたった一度の人生の楽しみとて同じではないか。その楽しみも一度きりの現実だ」と。

では、聞こう。「人がたった一度の人生だからと選ぶ楽しみとはいったいなんなのだ」と。たかだか物や食事に金を払うだけではないか。それは苦しみの永続する鮮烈さ、強烈さにはとうてい及ばないのだ。

なぜお前は苦しまないのか。なぜ世界から憎まれ嫌われ、孤独にあがく人生を生きないのか。空腹と病と狂気にのたうちまわり、打ちのめされ……そう、どうしてお前は打ちのめされることを選ばないのか。それこそたった一度の人生で享受することができる最良のものなのに……

……と、たった一度の人生だからと奮発して買ったダース・ベイダーのフィギュアが、夜な夜な夢枕に立ってこういうことを言うので困っている。

苦い文学

人権テロリズム

私たち、ホームレスの人権を守る会は、先日、緊急会合を開いた。

いまや、ホームレスは危機的な状況にある — そんな気持ちに突き動かされて、活動家たちが集ったのだ。

長いコロナ禍、ロシアの犯罪的な戦争、恐るべき円安により、我が国の格差はますます広がり、その結果、ホームレスでなかった人々がホームレスとなり、ホームレスであった者はさらに酷い状況に追いやられている。

そして、今、厳しい冬が訪れようとしているのだ。この冬を越せるだろうか? もはや崖っぷちだ。

しかも、恐ろしいことに、日本人のほとんどはホームレスの命など気にしていないのだ。

ホームレスの命を守るため、なんとか社会に訴えなくてはならない。私たちの緊急会合の議題はまさにこれであった。

そして、この議題をめぐって、ある若い活動家が実に大胆不敵な提案をした。欧米の環境活動家の行うエコテロリズムに倣って、私たちも人権テロリズムを行うべきだというのだ。

エコテロリズムとは、名画にスープなどをぶっかけて、環境問題に対する社会の関心を集めようという過激行為だ。

もちろん、これは暴力的な行動でもないし、また名画に致命的な損害をもたらすものでもない。平和的なテロだ。ただ、そのような過激な行為で社会を揺り動かすことを目的としているのだ。

私たちは全会一致で、この非暴力的な人権テロリズムに打って出るべきだと決議した。もはや、私たちにはそれしか残されていなかった。

そして直ちに、私たちは行動プラン作りに没頭した。欧米のやり方をそのまま日本に持ってくるのではなく、日本の状況に合わせて変えるべきところを変えることにしたのだ。

社会的なインパクトはもちろん重要だが、無益な反論を招くのも本意ではない。そのサジ加減がじつに難しかった。私たちの激論は深夜に及び、ついに完璧な人権テロ計画ができ上がった!

私たちは、名画ではなく、日本の名産品たる米を炊き、そこに思いっきり豚汁をぶっかけることにしたのだ。

そして、この人権テロリズムを決行した私たちは、それがいつもの「炊き出し」であることに気がついた。

苦い文学

過剰すぎる訂正

私には何人かの韓国の友人がいて、せっかくなので韓国語を勉強してみようと思い立った。

そこで、まず、韓国語・朝鮮語を表記するハングルを学ぶ。この文字をおぼえること自体はたいして難しくない。ただ、ハングルには、漢字やカタカナに似た文字も多く、うっかりすると、漢字やカタカナのように書いてしまう。

例えば、ハングルの「ㄹ」は r に当たる子音を表わすが、雑に書くと「己」のようになる。

「チウッ」と呼ばれる子音字「ㅊ」も、厄介だ。私はいつもうっかりカタカナの「ネ」と書いてしまう。なので、この縦棒の「一本足」を書かないように注意している。

私は今年、ハングル能力検定の5級を受けた。この検定で一番低い級だ。はじめの30分は聞き取りのテスト、それから60分の筆記だ。

聞き取りの試験では聞き取れた内容をメモして、それで解答した。木の枝に乗る猫の絵についての問題があった。4つの選択肢が読み上げられ、どれが正しいか当てよ、というものだ。

最初の二つの選択肢では「犬」という単語が聞き取れたので「イヌ」とメモした。残りの二つの選択肢では「猫」という単語が聞き取れた。

試験が終わって、問題用紙を見返した私は驚いた。猫の絵の問題の箇所で「ㅊコ」とメモしてあったのだ。

8割以上が合格するこの5級で不合格となった私であるが、合格するまでは、愛猫家がなんといおうと、ネコは足を切った「ㅊコ」でいくつもりだ。ㅊコ。