ワイルドは sorrow については、ひとつの思想にまで発展させ、そうすることによって形を与えた。しかし、bitterness についてはただこれを取りのぞこうとしているだけで、realise しているようには見えない。もちろん、そうした形での表現もあっていいと思うが、問題なのはそれが right かということだ。
ここで sorrow と bitter / bitterness の違いを考えてみる。sorrow がまず感情の名であるのに対して、bitter / bitterness には、感情を表すときにも「苦い」という味覚が残っている。味覚は現実に対する反応であるから、現実を無視して勝手に甘くすることはできない。つまり、苦さは苦いまま、ワイルドの言い方を借りるなら、苦さの裏には苦さしかない。
いっぽう、ワイルドは悲しみの裏には悲しみしかない、というがどうだろうか。ワイルドが大文字で始まる Sorrow をキリストに結びつけたとき、悲しみの裏にある種の甘さが隠れてはいないだろうか。もし realise するということが、悲しみを美化し、甘くすることでもあるのなら、それは本当に right と呼べるのだろうか。
ここにおそらく bitter / bitterness 追放の弊害がある。というのも、苦さのない悲しみは、容易に現実から乖離し、見栄えよく加工できてしまうから。要するに、苦さを手放してしまったことで、悲しみを shallow なものにしてしまったのだ。だからこそ、ワイルドのキリストは悲しくそして美しい。苦虫を噛み潰したようなキリストはそこからは出てこない。だが、いくど起こしても眠ってしまう弟子たちに呆れたときのイエスが苦々しい顔をしていなかったと、誰がいえよう。
すでに述べたように、私は悲しみの哲学そのものに反対しているわけではない。ただその realise に苦さという現実を忘れちゃあいませんか、と苦言を呈したいだけなのだ。