散文

ワイルドの『獄中記』を駁す(6)

ワイルドは sorrow については、ひとつの思想にまで発展させ、そうすることによって形を与えた。しかし、bitterness についてはただこれを取りのぞこうとしているだけで、realise しているようには見えない。もちろん、そうした形での表現もあっていいと思うが、問題なのはそれが right かということだ。

ここで sorrow と bitter / bitterness の違いを考えてみる。sorrow がまず感情の名であるのに対して、bitter / bitterness には、感情を表すときにも「苦い」という味覚が残っている。味覚は現実に対する反応であるから、現実を無視して勝手に甘くすることはできない。つまり、苦さは苦いまま、ワイルドの言い方を借りるなら、苦さの裏には苦さしかない。

いっぽう、ワイルドは悲しみの裏には悲しみしかない、というがどうだろうか。ワイルドが大文字で始まる Sorrow をキリストに結びつけたとき、悲しみの裏にある種の甘さが隠れてはいないだろうか。もし realise するということが、悲しみを美化し、甘くすることでもあるのなら、それは本当に right と呼べるのだろうか。

ここにおそらく bitter / bitterness 追放の弊害がある。というのも、苦さのない悲しみは、容易に現実から乖離し、見栄えよく加工できてしまうから。要するに、苦さを手放してしまったことで、悲しみを shallow なものにしてしまったのだ。だからこそ、ワイルドのキリストは悲しくそして美しい。苦虫を噛み潰したようなキリストはそこからは出てこない。だが、いくど起こしても眠ってしまう弟子たちに呆れたときのイエスが苦々しい顔をしていなかったと、誰がいえよう。

すでに述べたように、私は悲しみの哲学そのものに反対しているわけではない。ただその realise に苦さという現実を忘れちゃあいませんか、と苦言を呈したいだけなのだ。

風刺・戯文

カップ麺の蓋

もう自分の人生は終わりだという思いに圧倒され、どこにも進む道を見出せないとき、私はいつもカップ麺を作る。

「作るだって? 蓋を開け、スープなどを入れて、お湯を注ぐだけじゃないか」 そう思う人もいるかもしれない。だが、カップ麺で本当に大事なことは、その後、つまり、紙の蓋を閉じた後に始まるのだ。

私はその閉じられた蓋を見ながら、カップ麺の歴史に思いを馳せる。それは常に失敗の歴史だった。

まず開発者たちが行ったのは紙の蓋に紙の爪をつけることだった。それをカップのフチで折り曲げておけば、蓋が閉じたままになると考えたのだ。だが、このいかにも成功しそうな目論見も、紙の蓋の反発力に打ち勝てないことがが明らかになった。そこで、カップ麺の開発者たちは紙の爪を大きくしたり、2つ、3つに増やしたりした。しかし、それでも蓋を抑えておくことはできなかった。

そこである開発者たちはシールならば紙の蓋を制することができるのではないかと考えた。これは確かによい案に思えたが、愚かにも開発者たちは蓋止めシールをカップ麺の包装フィルムに付属させてしまった。その結果、どんなことが起きただろうか? カップ麺を作ろうとする消費者たちが、この有用なシールに気づかずに、包装フィルムと一緒に捨ててしまう事故が続発したのだった。現在では、この蓋止めシールは一部のごく少ないカップ麺に残存するのみであり、絶滅するのも時間の問題となっている。

こうした事態を前にして、追い詰められた開発者たちが恐ろしい蛮行に走るのは避けられなかった。彼らはスープ後入れなどという奇怪な調理方法を編み出し、そのための「後入れスープ」などというものを開発して、蓋の上に置くように指示したのだ。しかも彼らは「後入れスープを蓋の上に置くと、スープが温まって美味しくなる」などという甘言でもって、消費者に蓋の抑圧に手を貸すよう促したのだ。なんと卑怯なことであろうか。

だが、それも失敗に終わる……。と、そんなことを考えているうちに、3 分がたってしまう。私は、カップ麺の蓋の上に乗せていた例の後入れスープ、そして後入れスパイス(そうなのだ、連中はこんなものまで案出したのだ)を取り除く。

その瞬間、ほら! 紙の蓋がいくつもの爪にも関わらず、そしてスープによる加重にも関わらず、自ら開いたではないか! まるで不死鳥のように! カップ麺の紙の蓋には、きっと不屈の魂が宿っているのだ。そうだ、私もだ。どんなに押さえつけられても立ち上がろう!

すっかり元気を取り戻した私は、カップ麺の蓋をゴミ箱に捨てて、麺をすすりだす。

苦い文学

揺れてませんよ

みなさん。いま、私たちの国、この日本からいなくなったら困る人は誰でしょうか?

政治家、皇室、野球選手、愛国者、迷惑Youtuber……みなさんの心の中にこんな方々が浮かんだかもしれません。ですが、ハズレです。これらの人々がいなくなっても日本はまったく困らないのです。

今の日本から、いなくなったら困るのは外国人、これらの方だけです!

考えてもみてください。私たちの国は今や観光国で、多少なりともモノらしいモノを買えるお金を持っているのは外国人観光客だけです。その経済効果なしには日本はもうありえません!

しかも我が国は少子高齢化ですから、労働力も外国人に頼り切りときています。そのうち、外国人なしには電車一本も動かなくなるでしょう。

そして教育です。子どもがもう生まれないものですから、日本のほとんどすべての学校が留学生なしにはやっていられないのです。私たちはもはや、無知な日本人に代わって外国人が、すべての古典・伝統を受け継いでくれることを期待せざるを得ないのです。

おわかりいただけたでしょうか。今、この日本から外国人がいなくなったら、大変なことになるのです。ひとことで言えば日本は消滅するでしょう。

ですがじつは、私たちはいまある危機に瀕しているのです。どんな危機でしょうか? それは地震です。大きな地震ひとつで、外国人はひとりも日本に来なくなる、いや、それどころか、外国人はこぞって出ていってしまうでしょう!

なので、私たちは外国人に、日本は安全な国で地震などない、ということをどんなときにもアピールしなくてはならないのです。

「YOKOSO」「OMOTENASI」

もはやそんなキャッチフレーズが意味を持つ時代ではなくなりました。これからの日本を守るために、日本人が外国に向けて発信しなくてはいけないのはこれです!

「YURETEMASENYO」

さあ、広めましょう! 揺るぎない心で!

苦い文学

ワレワレハ日本人ダ

日本に巨大な宇宙船がやってきて、その主たちが姿を現した。

「ワレワレハ日本人ダ」

その生命体は、背が低く、メガネをかけて、歯並びが異常に悪かった。戦争の頃の欧米の風刺画に描かれた日本人そっくりだった。

その日本人たちは、私たちに即時降伏を求め、従わない場合は武力あるのみと脅した。

日本中は大騒ぎになった。歴史家たちは、戦争末期に宇宙に送られた日本兵がいたという史実を発掘し、本物の日本人だと太鼓判を押した。

世界各国はといえば、宇宙人の襲来かと緊張を高めていたが、これで日本の内政には干渉せずとの態度に落ち着くことになった。

日本は真っ二つに割れた。同じ日本人同士が戦うべきではないと主張する人もいれば、今の日本人は体格も良くなり、コンタクトレンズを使用し、歯科医療の恩恵に預かっているのだから、同じ日本人とはいえない、戦うべきだ、と主張する人もいた。

私たちは激しい議論を繰り広げたが、いつまで経っても結論は出なかった。そんな私たちに宇宙から来た日本人は業を煮やしたか、ある日、大胆な奇襲攻撃を仕掛けてきた。開戦は奇襲にかぎる、と思い込んでいるのだ。

私たちもやむなく武器を取り、ついに戦争が始まった。

しかし、連中ときたら、原爆を落とすこと落とすこと。広島も長崎も経験していないから、戦争は原爆にかぎる、と思っているのだ。

あまりの惨状に私たちはもう諦めムードだ。

苦い文学

規格違い

ずっとずっと遠い未来、ある聖なる存在たちが魂を開発した。

魂とはたとえて言うならば数字であり、ひとつの数字は他のあらゆる数字の存在を前提とする。それゆえ、ひとつの魂が存在するときには、あらゆる魂、過去のものを含めた魂もまた存在しなくてはならない。

そこで、聖なる存在たちは、時間を遡り、過去に生きたあらゆる生物の魂を復元することにした。生物たちの死の瞬間に立ちあい、魂をひとつひとつ創出していったのだ。

創出のさいには、死にゆく生物の脳に蓄えられた全記憶を特殊な機器を用いて高速再生しなくてはならない。これは須臾の間の出来事だが、そのさいに、死にゆく生物自身もまた自分の全記憶を追体験する。

この高速再生を、人間は走馬灯と表現しているのである。

私が死んだときも、聖なる存在たちが駆けつけて、私の魂を作り出すべく作業にとりかかった。だが、どうしても私の記憶を再生することができなかった。

聖なる存在たちは口々に言った。「これは VHS ではない。ベータマックスだ」

私は息を吹き返し、今に至るまで死なずに生きている。