散文

地獄の言語学入門(4)

刑務所の中の天文学者が星を見ようとして監獄の重苦しい天井に妨げられるとき、言語学者は自分の言語をじかに観察している。言語学者が探究すべき宇宙は頭の中にあるのだ。

動物学者が独房の中でジャングルの動物たちを夢見ているとき、言語学者はその隣の独房で自分の舌を動かして音声学的観察をじかに行っている。

独房の中、入破音の調音練習を延々と繰り返す言語学者を見て、看守たちは大慌てで、所長に「第 1857 号に精神異常の兆候あり」という報告を上げることだろう。

だが、言語学者ができることはこれだけではない。刑務所は他者の言語の格好の観察場所でもある。

文学研究者たちが、刑務所の図書サービスで目当ての資料を探すのを諦めたとき、言語学者は看守と囚人のやり取りに密かに耳を傾け、批判的談話分析と社会言語学に関する第一級の資料を発見したと小躍りすることだろう。

国際情勢から遮断された獄中の政治学者たちがフラストレーションを募らせているとき、言語学者は同じブロックの囚人たちの話す方言、スラング、専門用語に心躍らせている。言語学者がいるところ、そこはすでにフィールドワークの現場なのだ。

とりわけ終身刑の言語学者は、刑務所内の言語変化のメカニズムの解明に腰をすえて取り組むことだろう。その粘り強い探究心は、刑務所内で「無罪」が「有罪」へと変わる通時的意味変化を明らかにしてみせるのだ。

しかも、言語学者お得意の古代文字の解読の機会すらある。言語学者は牢獄の片隅に刻まれた乱雑な線刻文字を苦労して読み解き、それが「助けてくれ」という絶叫であることを突き止める。

そして、言語学の優位を示すこれらのリストに、もっとも優雅なものをひとつつけ加えよう。それは、看守たちが「きりきり歩けっ」と囚人たちを銃殺場に連行しようとしているときだ。他の分野の研究者が迫り来る死の恐怖に、うなだれたり、反抗したり、泣いたり喚いたりするなか、ひとり言語学者だけは平然と、逍遥するが如く歩いていくことができる。

なぜなら、「きりきり歩く」と「きりきり痛む」と「きりきりまい」の「きりきり」が、同じなのか違うのか、その分析に夢中だからだ。

銃口を前にしても目隠しなどいらないくらいだ。

散文

日本語教育能力検定試験やよのさ(6)

 音声学の訓練で、うまく発音できない、聞き取れないというのはあまりいい気分はしないが、決して悪いことではない。なぜなら、日本語教師が相手にするのは、結局のところ、日本語の発音が「できない」人なのだから、できない経験も役に立つのだ。

 なんでもそうだが、できない経験を決して否定的に捉えるべきではない。失敗は資源ゴミだ。うまく知恵を使えば、有効活用できる……ぺこぱを真似てみた……時を戻そう。

 なんでもそうだが、できない経験を決して否定的に捉えるべきではない。

 以前、日本語教師養成講座の音声学の授業を担当したときに、ある受講生から「自分は日本語教師が教える標準語とは違う方言のアクセントなのだが、それでも大丈夫か」と言われた。

 そもそも、現状として、標準語と異なるアクセントの方言の話し手の日本語教師、いやそれどころか、外国人の日本語教師だってたくさんいるのだから、これは答える必要もないくらいだが、これから日本語教師になろうという人が不安になるのもよくわかる。

 とはいえ、違ったアクセントを身につける苦労は、結局のところ、やはり学習者がアクセントを習得するときの苦労とどこかでつながっているはずで、むしろ日本語教師としてはありがたい経験だろう。

 それに、教えるほうが得意がって教えることほど、教わるほうにとってはつまらないことはない。だから、自分の苦手な分野や、苦労していることは、大事なのではないかと思う。

ヤンゴンの日本語学校