旅・観察

古いほうの収容ウイルス、長崎入管訪問(その15)

 Kさんは「奇跡」だというが、どうだろうか。私にはわからない。だが、なんにせよ、彼は大村入国管理センターの収容所から出ることができた。しかし、今もなお、大村で、品川で、牛久で、多くの人々が収容され続けている。なぜこれらの人々は収容されねばならないのだろうか。それは、これらの人々が日本にいることを許可されていないからだ。だが、その許可を与えるのは国家であるが、この国家の主権はわれわれであるから、結局はわれわれがこれらの人々を閉じ込めていることになる。

 現在、われわれは自由な外出を、自由な社会的交わりを、新しいウイルスによって妨げられているが、入管に収容されている人々にとっては、われわれもウイルスのようなものだといえよう。

 「外国人」を憎み、恐れるわれわれは、「外国人」なる概念が生まれる遥か昔から、さまざまな地域で他者に対する暴力を生み出してきた。入管の収容もそのひとつだ。

 つまり、われわれはウイルスとしては古株なのだ。

 願わくば、新型のひよっこのウイルスが、より古いほうのウイルスであるわれわれに恐れをなして、この地上からただちに退散せんことを!

 (実際、新型コロナウイルスが若者と老人を区別していることを考えると、先輩に対する礼儀をわきまえている可能性も決してないとはいえないのだ……)

(おしまい)

旅・観察

古いほうの収容ウイルス、長崎入管訪問(その14)

 私たちは入管を出た。玄関前で記念撮影。Kさんは、満面の笑みで、突き立てた親指を下向きにした。

 はじめは長崎駅に行こうと考えたが、バスがないので、歩いて長崎空港に行くことにした。1キロほどの箕島大橋を渡ればすぐだ。

 橋の脇に自衛隊の航空基地があり、私たちが橋を渡り始めると、すぐ近くからヘリコプターが飛び立った。Kさんは「毎日うるさいんだよ」と目で追う。

 彼は歩きながら、こう感慨深げに言った。「ほんと、奇跡だよ。大村入管から出るのは。強制送還の時か、病気になったときだけだから。奇跡だよ」 彼は仮放免許可が出た時からこの奇跡について考え続けていたのだ。

 赤いバスが空港へ走って行く。長崎駅と空港を結ぶバスだ。

 「あのバスも入管から見えるんだよ。飛んでいく飛行機も。みんなあれ見てさびしいになっちゃって。いつ出られるかって」

 私たちは、被収容者たちがいろいろな思いを抱えながら毎日のように見つめていた橋を歩いているのだ。

 入管の窓には黒いシールが貼られていて、内からも外からも見られないようになっている。

 「けど、誰かが、穴を開けちゃう。小さな穴から外を見る。すぐに黒いシール貼っちゃうけど、また、誰かが開けるから」

 私たち橋を渡りながら、振り返り振り返り入管の建物を確認した。Kさんは立ち止まっては、小さな入管の建物を背景に写真を撮ってくれという。途中、橋の反対側に小さな島が見えた時も、「これも入管から見えた」といいながら、島を後ろに写真を撮ってと頼んだ。

 橋の真ん中からは入管が一番よく見えた。もちろんそこでも私は彼と入管の写真を撮った。

 それまで、降ったり止んだり雨が、だんだん強くなってきた。傘をもたない私たちは無言で対岸を目指した。

 橋を渡り切るころには雨も止んだ。私たちは向こう岸に入管を探し、Kさんと写真を撮った。

 まるで入管と記念写真を撮っているみたいだ。そうやって、Kさんは、窓の小さな穴の向こう側で失われた2年間に形を与えようとしていたのだろう。

指の先の入管
旅・観察

古いほうの収容ウイルス、長崎入管訪問(その13)

 紙袋とゴミ袋を抱えて出てきたKさんは、私が持ってきたスーツケースと鞄に詰め込み始めた。私も神聖なる記録作業が終わると、ようやく彼と2年ぶりの再会を喜ぶ気になった。これから東京にどうやって帰るかなど話していると、待合室のベンチに座っていた年配の男性に話しかけられた。

 長崎には、特に教会の関係者を中心に、大村入管の被収容者を支援している人々がいる。話しかけてくれた人もその1人で、ちょうど面会の呼び出しを待っているところだった。Kさんが荷造りをしている間、私はいろいろ教えてもらった。グループで面会活動していて、現在把握できる限りの被収容者の情報(国、収容時期、面会記録)が、ノートに几帳面に記されていた。今日、仮放免されたKさんの欄もあった(もっとも、Kさんのことは知らなかった。というのも、1人で全員に面会することはできないから。担当があるのだ)。

 彼によれば、入管は、現場の職員よりもその上の人々が強硬なので、入管収容の問題、とくに長期収容を変えるのはなかなか難しいのだという。そして、長崎の人々が大村入管を変えるためにどんなことをしているかも話してくれた。

 その人の話を聞いているうちに、私はある眩さに捕らわれ、神秘的な声が耳に飛び込んできた。

 「そうだ、入管の収容は必ずなくせる。そのためにお前ができることを精一杯するのだ!」

 啓示だ! 私が書き写していた入管の掲示が啓示へと!

 職員が呼びに来た。その人は面会に行ってしまう。私はKさんと二人きりになった。彼はとても元気そうで、自分のiPadがあったら写真を撮るのにと残念がっている。職員が通りがかると、親しげに挨拶して別れを惜しむ。荷物の整理が終わり、立ち上がったKさんが尋ねる。

 「コロナ、けっこう大変なんでしょ。中で見たよ」

 「うん、長崎は大丈夫なんだけどね、いま、東京は大変だよ」

 もしかしたらそのまま収容されてた方が安全だったかも……などと思ってるようでは先ほどの啓示も怪しいものだ。

旅・観察

古いほうの収容ウイルス、長崎入管訪問(その12)

 仮放免手続きが終わって出てくるまでの時間は、入管の忙しさとか、被収容者の準備だとかに左右されるが、30分ぐらいだ。1時間はかからない。

 私がその間待っているように言われたのは、待合室だった。そこは、被収容者への面会を申請した人が呼び出されるのを待つ場所で、ベンチが置かれ、中央には書類を記入するための台が置いてあった。壁には、面会心得や様々な通知が貼られており、コロナに関するものもあった。私は、パソコンを広げるとそのうちのいくつかを書き写した。写真が撮れないので記録するためにはこうするしかないのだ。

 入力している間に、入管で働いている人々がやってきて傍の自販機でジュースを買ったり、休憩したりした。パソコンで記録していることを見咎められて、面倒なことになるのがいやだったので、そうした人々がやってくるたびに緊張した。しかし、壁の通知を写している者がいるなどと、いったい誰が考えよう。

 しかし、私にとってはこれは貴重な記録だ。入管の中の掲示物など、大して意味のないものだ。そんなものを入管だっていちいち保管していないに違いない。だから、もしかしたら、私の記録が、入管の掲示物の資料として、のちのち誰かの役に立つかもしれない。

 役に立つ!

 私も少しは誰かの役に立ちたいのだ。こんなバカバカしいことでもいいから。私は必死でキーを打ち続けた。

 6枚ほど写したところで、待合室の外の廊下から聞き覚えのある声が聞こえた。彼が出てきたのだ。

 彼、Kさんは私を見るや、うれしそうに近づいてきた。

 だが、私は通知の記録がまだ終わっていなかった! あと2枚! 私は「ちょっと荷造りしてて!」と、運んできたスーツケースを指さした。

 これじゃ、2年ぶりの再会も台無しだ。

旅・観察

古いほうの収容ウイルス、長崎入管訪問(その11)

《仮放免手続きについて(2)》

③保証金の納付
 保証金の納付が、入管のどこかのカウンターでできるかと思ったら、大間違いだ。

 入管の外の銀行に行かなくてはならないのだ。

 だが、銀行ならどこでもいいと思ったら大間違いだ。

 日本銀行でなくてはいけないのだ。日本銀行がどこにあるか知ってますか。

 東京駅の近くだ。だが、そんなところにまで行かなくてもいい。民間の銀行内に日本銀行の代理店がある。

 だが、それがどこにでもあるかと思ったら大間違いだ。

 品川入管の場合は、隣駅の田町駅前の三菱UFJ銀行にそれはある。だから、品川で仮放免手続きをする場合は、入管からバスで品川駅に戻って、隣駅の田町で納付して、もう一度、品川入管に戻ることになる。面倒くさくて、交通費が惜しい、というあなたは、牛久入管で仮放免手続きをする資格はない。

 牛久入管の場合は、常陽銀行竜崎支店で納付しなくてはならないのだが、牛久入管からそこに行くまでどうやって行ったらいいかご存知ですか。

 ヒント:その支店の近くには駅がない。

 そうなのだ、駅がないのだ。電車が通っていないのだ。茨城県龍ヶ崎市内全域に電気が通じていないのだ。いまだに薪と炭で暮らしている。昔、龍ヶ崎に電車を通す話があった時、ここの人々は拒否したそうだ! 炭火焼きのほうを選んだのだ。だから、もし、自家用車がなければ、タクシーで行かねばならない。片道3000円近く払って! もう泣きたくなる。

 しかし、大村入管はこれほど過酷ではなかった。日本銀行の代理店は、大村駅前の親和銀行内にあった。駅までは、少ない本数ながらバスがある。180円。しかも、今回は、入管の職員がバスの時刻表までプリントしてくれていた。血も涙もあった……。

 さて、どこにあろうと、銀行ですることは一緒だ。日本銀行代理店のカウンターで、保管金振込書・保管金領収証書の1枚の紙と保証金を出し、振込用紙にしかるべきことを記入する。しばらく待つと、保管金領収証書だけが切り離されて帰ってくる。

④仮放免
 保管金領収証書を持って入管に戻り、それを担当職員に渡すと、あとはすることはただ一つ、出てくるのを待つだけだ。

入管で渡された紙
旅・観察

古いほうの収容ウイルス、長崎入管訪問(その10)

《仮放免手続きについて(1)》
 仮放免手続きは、どこの入管でも同じで、①仮放免についての説明と署名、②保証金の納付の準備、③保証金の納付、④仮放免、という4つの段階からなる。前にも書いたが、2〜3時間かかる。

①仮放免についての説明と署名
 手続きに来た人(身元保証人など)は身元確認をされたのち、入管の職員から、仮放免の条件について説明を受ける。仮放免の条件とは、許可を受けた者が移動できる範囲、就労できないこと、住所の変更には身元保証人の署名と所轄の入管での許可が必要なことなど。

 説明の後、手続きに来た人は仮放免許可書のコピーに、説明を受けた証拠として署名をする。

 大村入管では、この①の過程は最初に行われたが、品川入管の場合は、仮放免許可を受けた人が出てきてから、一緒に説明を受ける。

②保証金の納付
 保証金の納付の準備として、手続きを行う人は、2枚の書類に、住所・署名・捺印しなくてはならない。1枚目は、何というかわからないが、大村で署名したものは仮放免保証金提出書というような名称だった(ちなみに「事件番号:令元大セ退53号」とも書いてあった)。この書類がなんであれ、ここに押したハンコは、保証金を返してもらう時に、押すハンコと照合されるものだ。

 もう1枚が、銀行で保証金を納めるときに必要な紙で、これにも住所、署名、捺印する。写真で示したように左側が保管金振込書、右側が保管金領収証書となっている。保管金というのは、名目が何であれ日本銀行が保管するという意味だろう。

 大村入管では、この納付準備は①に引き続いて行われたが、品川入管では6階で身元確認を済ませた後、4階の会計窓口で②を行う。(つづく)

私の名前と住所は消してある。

旅・観察

古いほうの収容ウイルス、長崎入管訪問(その9)

 3月26日の朝、私は長崎駅から大村入国管理センターに向かった。万が一、また行くことになったときのために行き方を記す。

《大村入国管理センターへの行き方》

 長崎空港から大村入国管理センターに行く場合は、歩いて行ける。

 長崎駅から行く場合は、長崎空港や大村駅までバスで行ってもいいが、電車もある。その場合、諫早駅で乗り換える。乗り継ぎがうまく行けば大村駅までは40分(特急を利用)。さもなければ1時間以上かかる。

 大村駅から大村入国管理センターまでは、タクシーだと1400円ぐらい。バスだと180円。バスは1時間に2本。駅近くにバスターミナルがある。バスの場合、「消防学校前」で降りる。そこから歩いてすぐ。

 もっとも、私は土地のものではないので、もっと便利で安い行き方もあるかもしれない。

 さて、私が大村入国管理センターに到着したのは8時30分過ぎのことであった。9時に来いということなので、10分前に入るとして、20分ほど時間がある。そんなわけで、入り口や建物の写真を撮って過ごした。

 10分前になったので自動ドアを開けて入る。その先にはもう一つ自動ドアがあって、インターフォンを通して開けてもらう仕組みになっている。

 私がボタンを押して声をかけようとすると、ドアが開いて、職員が出てきた。写真は撮るな、という。おそらく写真を撮っている不審者がいると聞きつけて出てきたのだろう。

 「どうしたご用ですか。入管の中では写真撮影は禁止されています」

 「いえ、仮放免手続きで来ました!」

 私は撮った写真を見せた。どうやら問題なし。で、入れてくれたが、長崎くんだりまで来てこれでつまみ出されたら目も当てられない。

旅・観察

古いほうの収容ウイルス、長崎入管訪問(その8)

 軍艦島クルーズのガイドの人がこんな話をしてくれた。

 「クルーズには、元島民の方もいらっしゃることもあります。そういう方は、自分からそうおっしゃらないのですが、なんとなくわかるのです。どうしてわかるのかというと、ここまで来ると(と、ガイドは私たちの目の前に広がる廃墟を示した。軍艦島に上陸した私たちはかつての居住区が見渡せる場所に来ていたのだ)、皆さん、写真をお撮りになるのですが、元島民の方は写真を撮らずに見ているだけなんですね。どうしてかというと、ここから見る風景は、元島民の方々には馴染みのないものなのです。それは思い出にはないものなのです。島民の方々は、今、私たちが行けないところで生活されていました。元島民の方々にとって、ふるさととは、そうした今行けないところである、ということも皆さんにぜひ理解していただきたいことです。この島は軍艦島と呼ばれていますが、元島民の方々にとっては、この島は軍艦島でも廃墟でもなく、端島というふるさとなのです」

 これは、こういうことであろう。あなたの友人が宇宙で遭難し、過酷な環境により変貌して帰ってくる。体は白く、皮膚はひび割れだらけ、何よりも奇怪なのは肩が盛り上がって、そこに頭がめり込んだようなその姿だ。人々は恐れ、怪獣だ、怪獣だと言って、水を浴びせかけて倒そうとする(水に弱いのだ)。だが、あなたは複雑な気持ちだ。なぜなら、これは「怪獣」などではないのだから。誰が何と言おうと、あなたのかけがえのない友人なのだから。軍艦島は元島民の方々にとってはちょうどそんな存在ということだろう。

 いや、この最後のたとえは、ちょっといらないかな……。

旅・観察

古いほうの収容ウイルス、長崎入管訪問(その7)

 長崎についた日の午後は、軍艦島クルーズに参加した。

 赤瀬川原平の『二笑亭綺譚』のような奇怪な廃虚が立ち並ぶ孤島という勝手なイメージを持っていたのだが、実際は、普通の人々がごくごく当たり前の生活を送っていた島であった。

 軍艦島は、日本最古の鉄筋コンクリートのアパートを含む高層建築で覆われていて、それが海上から見ると、軍艦に見えることから、その名がついた。

 海底炭鉱で働く人々とその家族が島の住人で、一時は、5000人以上の人々が暮らし、当時の東京よりも人口密度が高かったという。

 炭鉱の仕事はつらくもあり、危険でもある。また、たびたび台風や高波による災害に見舞われた。島に上陸した時、ガイドの人が「最近、波に破壊されたのです」と巨大なコンクリートの塊を指した。防波堤の残骸だった。そうした厳しい環境でも、これだけ人が集まったのは、当時としては島での暮らしが良かったからなのかもしれない。こぎれいな室内でテレビを囲む住人の白黒写真も展示されていた。

 しかし、今の目から見るととうていそうは思えない。

 クルーズ船で、島を一周回った時、ガイドの人が、ある6階建ての集合住宅を示した。

 「2階のところに大きな穴があるでしょう。あそこにはベルトコンベアーがあって、島の反対側からボタを運んでこっち側の海に捨てていたのです。24時間動き続けていて、止まるのも年に1回、4月のお祭りの1日だけだったそうです。そういう中で、島の人々は暮らしていたということです」

 小さい島にぎゅうぎゅうに押し込まれ、職場ときたら地下何百メートルの海の底だ。しかも、よっぴいて騒音が鳴り続けているときた。

 こんなことができるのはよっぽどのサディストだけだ。炭鉱の所有は三菱財閥で、ここから掘り出された石炭が日本の近代化、戦争、そして高度成長期という日本でもっともサディスティックな時代を裏から支えた。そんなこともあり、近年、世界サディスティック遺産に認定されたという。

 長崎にはもうひとつサディスティックな施設がある。それが明日私が行く予定の大村入国管理センターだ。国家というもののサディスト精神を知るにはもってこいの施設だが、残念ながら、遺産としての認定はまだのもようだ。

ベルトコンベアーのあった穴
軍艦島には中国人と朝鮮人の強制労働もあったという。
いっそのこと、入管の収容施設もここに移したらどうだろうか……
旅・観察

古いほうの収容ウイルス、長崎入管訪問(その6)

 成田空港から長崎に向けて出発したのは3月25日の朝。LCCなので成田第3ターミナルなのだが、せっかくだから、人のいない空港を見ておこうと、第2ターミナルの出発・到着フロアに行って写真を撮る。

 そうしたら搭乗がギリギリになってしまった。(つづく)