苦い文学

ノイキャン

音に敏感なタチなのかどうかわからないが、外出するときはいつもノイズキャンセリングのイヤホンをしている。一度、イヤホンを忘れて外に出たことがあったが、不安になって取りに戻ったぐらいだ。世界はうるさく耳障りで煩わしいのだ。

外界の音が聞こえないのでは危ないではないかとか、つけっぱなしでは耳によくないとか、外さないのは相手に失礼ではないかとかのうるさい小言も、ノイキャンのスイッチを入れればまったく聞こえない。

ところで、このノイキャンを憎んでいる人々がいる。はっきり言えば駅員たちだ。自分たちの自慢のアナウンスがキャンセルされるのがどうも気に食わないらしいのだ。自分の電車はいくらでもキャンセルするのにだ。だから、駅員たちは訓練の末(かどうかは知らないが)、新しい発声法を身につけた。ノイズキャンセルキャンセル話法だ。

このノイキャンキャン声で車内アナウンスされると、キャンセル機能が耳に築き上げた防壁は簡単に崩壊してしまう。駅員の声が私たちの耳にダイレクトに突き刺さってくるのだ。私たちは悲鳴をあげてのたうち回る。電車の吊り革に両手を縛りつける(そうしないと、自分の耳をもぎ取ってしまうのだ)。

私たちはオーディオ売り場に飛んでいき、新しいイヤホンの開発をお願いする。ノイズキャンセルキャンセルキャンセル機能搭載のイヤホンを早く! ……だが、私たちがこのノイキャンキャンキャン・イヤホンを手に入れるころには、駅員たちはすでにノイキャンキャンキャンキャン声でアナウンスを始めているのだ!

いったいいつまでこの戦いは続くのだろうか。それはさておき、一般の乗客は私たちのこの戦いをキャンキャンキャンキャンうるさいと思っていることだろう。

苦い文学

ライブ授業

僕たちの学校に新しい先生が加わった。でも、ロン毛でぴちぴちのジーンズでちょっと変わってるんだ。「先生、どうしてそんなカッコなの」と聞くと先生はサングラスをちょっと下げて答えたんだ。

「なんでって、先生はロックミュージシャンだからさ」

「えー、先生じゃないの」

「どっちも一緒さ」

先生は言うんだ。「授業はライブだ」って。だから先生は毎日授業の前にツイッター(現X)にこんな投稿をするんだ。

ライブの告知でーす。
初めてのワンマン@2-5教室でーす。待ってるゼ!
12月18日 1−6教室 開場08:40、開演08:45 【SOLD OUT】
12月18日 2−5教室 開場09:30、開演09:35 【残席わずか、S席完売】
12月18日 1−6教室 開場09:40、開演09:45 【当日券有】

でも、授業に出席するのはいつだって同じクラスの子ばかりだ。

先生の授業はいつも楽しくて面白い。僕たちはとっても勉強が大好きになったんだ。それに先生はたのもしいんだ。いじめっ子を「お前はステージ裏の開放席行きだ!」と教室から追い出したときは、もう大喝采だった。

だけど、先生にはひとつだけイヤなところがあるんだ。それは、どんな授業の前にも先生にかならず 60 円払わなくてはならないこと。ドリンク代だっていうけど、いつも紙コップに水道の水なんだ。

苦い文学

パーカー

ある若い女性が、おじさんがパーカーを着ることに異議を唱えた。「40歳近くになってパーカーを着ているおじさんはおかしい」というのだ。

これに対して、おじさんたちは「おじさんがパーカーを着てなにが悪い。なにを着ようと自由ではないか」と猛反発をした。さらに「おじさんのパーカーはダメ」と発言した女性のもとに脅迫まがいのメッセージが届くようになった。パーカーおじさんは暇なのだ。女性は法的措置も辞さないと息巻いている。

現在のところ、この論争には決着がついていないように思えるが、私なりにパーカーおじさん論争の行方を予測してみよう。

若い女性たちとパーカーおじさんたちの対立は今後も激化するだろう。そして、若い女性たちは「パーカーを着ていいおじさんと着てはいけないおじさんがいる」と発言し、パーカーおじさんの固い結束に揺さぶりをかけるはずだ。

その結果、パーカーおじさん側の分派闘争に発展する。自分たちこそパーカーが似合うとする、「パーカー着ていいおじさん派」と、パーカーはあらゆるおじさんに開かれているとする「着るときはみんな一緒派」に分裂し、パーカーで血を洗う闘争が繰り広げられる。

そして、「パーカー着ていいおじさん派」が若い女性たちと同盟を結び、共同戦線を張ることが電撃発表される。この発表以後、パーカーを着てはいけないおじさんに対する組織的虐殺が開始される。

小説

新しいサービス(2)

Apple Store に駆け込むと、先ほどのスタッフが私を見つけた。私はどうやらひどい顔つきだったらしい。「どうされました」とスタッフが心配そうに尋ねてきた。

「いや、ちょっと戻ってきました。なんとなくね……」

「ああ、そうですか。お客様の中にはいらっしゃるのです。iPhone を持たずに外に出ると不安だと。ですので……」

「いえ、そんな、不安だなんて。することもないので……まあ店内で待たせてもらいますよ」

すると、スタッフはいかにも申し訳ないという顔つきをした。「ちょうどクリスマスシーズンでして、お客様が多数来店されております。お客様にとって不愉快なこともあろうかと思いますが……」

入り口のドアを見ると、次々と客が入ってくるのだった。製品が置いてあるどのテーブルも人だかりができていた。店内の中央にスツールがいくつか置かれていたが、空きなどひとつもないのだった。私は思わずため息をついてしまった。

「申し訳ありません。ですが、お客様にご提案があります。上階に、修理を待っているお客様専用の待合室がございます。そこでお待ちいただいてはどうでしょうか」

「そんなものがあるの。なら、そこにしますよ」

「では、そのようにいたします」とスタッフは iPad を取り出した。「えーと、お客様のお名前は」 私は名前を告げた。

「少し面倒で申し訳ないのですが、待合室の利用にあたり、手続きがあって」と iPad の画面を慣れた手つきで操作して、私の前に差し出した。

そこにはなにか規約類が書かれていた。いつものように読まずに下にスクロールし、「同意します」にチェックを入れる。

「ではご署名を」 画面に現れた空白欄に私は指で署名を書いた。汚い字になってしまったが、しょうがなかった。

「以上です。お2階にどうぞ」とスタッフは階段を指差した。

小説

新しいサービス(1)

今日、私は iPhone の修理のために、Apple Store に行った。スタッフに故障箇所を見せると、3 時間ほどかかるとのことだった。私はそれに同意し、iPhone をスタッフに渡した。

「もし今、電話をしたり、メッセージを送ったりなどあればどうぞ」

「いえ、とくに」

「修理が終わるまでの時間はどうされるご予定ですか?」

私は少し考えた。「外で散歩でもするつもりです」

「iPhone がないあいだ、お困りのことがあれば、Apple Store にどうぞおいでください」

私は Apple Store を出て、大通りを歩き始めた。天気はよく、気持ちよかった。三時間のあいだなにをしようか。映画でも見ようか。近くの映画館とプログラムを調べようとして私は iPhone を探し、すぐに修理に出していることに気がついた。

晴れていたが、ときどき冷たい風が吹いた。寒くなってきたので、私は喫茶店でしばらく時間を潰そうと思い立った。そして、喫茶店の前に立ったとき、私は iPhone がないということを思い出した。最近は財布を持ち歩かず、なんでも iPhone で支払っているのだった。

つまり、喫茶店で休むことも、何かを買うことも、電車移動もなにもできないのだ。これからこの3時間どうやって過ごせばいいのだろうか。あとどれくらい時間があるのだろうか? 今何時なのか? 私は時間を見ようと iPhone を探し、ないのを思い知った。

まるで大海原にたったひとりで漂っている遭難者のような気がしてきた。足の下の深淵に飲み込まれまいと、私は海面で必死にもがいているのだ。

恐怖が私をとらえた。パニックになり、息ができなくなった。私は大慌てで Apple Store に戻った。

苦い文学

猿の手に

ネパールの日本語学校で使っているという教科書を見せてもらった。現地でネパールの日本語教師が出版したもののようだ。表紙を開くと、なにやら偉い人の写真が載っているが、ネパール語が読めないのでだれだかわからない。

教科書は分厚く、かなりの情報量だ。会話と単語と文型がびっしり詰め込まれている。日本語の後に、ネパールの文字で発音が記され、ネパール語と英語でその意味が書いてある。

パラパラと見ていた私は、「ことわざ」と書かれたページに目が止まった。日本のことわざが紹介されている。

最初は「1.てんせきこけ を しょうぜず」。発音、ネパール語訳、英訳が記してある。次は「2.ねこの て も かりたいほど だ」だ。だが、英訳はない。3つ目は「ねこにこうばん」。英訳はないが、「こうばん」は交番ではなく小判のことだろう。

そして、4つ目に「さるの て に ここのつ」とあった。

「猿の手に九つ」? 英訳もないので意味がわからない。日本語の教科書に載るようなことわざに知らないものがあったとは。

私は自分の教養のなさを恥ずかしく思い、「猿の手に九つ」をさっそく検索した。

……いろいろ調べてみてわかったのだが、本当は「猿の手にココナッツ」だった。ネパールのことわざで、意味は「猫に小判」と同じだ。

苦い文学

我が国の将来は明るい

今朝、電車に乗っていたら、急停止して、車両内の電灯が消えた。しばらくしてアナウンスがあった。

「電気の点検を要する箇所に停車したため、すべてのパンタグラフを下げています。そのため、車両内の室内灯、暖房、送風が止まっております。車両内が暗くなっております。スリや置き引きに遭われませんよう、お気をつけください」

このアナウンスを聞いて私は軽く衝撃を受けた。スリだと? 現代の日本にはスリはいない、いるのは外国だけだ、そう教えられてきたのに、スリだと? 私はてっきり、電車の遅延に困り顔の乗客をせめて楽しませようと、車掌がちょっとした冗談を言ったのだと思った。昔、ジャングル・クルーズで、存在しない「首刈族」が私たちに愉快な刺激を与えたように、いもしないスリでイタズラを仕掛けたのだ(乗り物関係者はこういうジョークが好きと見える)。

だが、携帯で調べてみると、これは車掌のおふざけなどではない、ということがわかった。ニュースによれば、最近、日本でもスリが増えているというではないか。

私はこのニュースを見て、日本の将来への不安がすっかり解消した。私たちの素晴らしい与党に日本を任せて大丈夫、と確信した。

ほとんどいないと言われていたスリを増やせた政府にとって、子どもを増やせないわけなどないのだ。それこそ赤子の手をひねるようなものだ。

苦い文学

排便なき未来

「ヒトの意識は大便によって形成された」との自説を語った博士は、聴衆に向かって、「実は、今、ヒトの意識と大便の関係が危機を迎えているのです」とさらなる驚愕の事実を明かした。

「トイレの自動水洗機能によって、私たちの大便が勝手に流されているということはお話ししました。もしトイレが今後さらに進化するとしたらどうなるでしょうか」 博士が会場を見回すと、誰かが「なくなる!」と叫んだ。

「そうです! 私たちは自分の大便をまったく見ることがなくなるでしょう。私たちが大便を見る前に、トイレが自動で流してしまうのです。しかし、と異論を唱える方もおられることでしょう。私たちには自分の大便を見る権利があるはずだ、と。例えば、健康状態を判断するのに、自分の大便を見るのは大切なことです。

「ですが、もしもトイレがそれほどまでに進化したとするならば、便を医学的に検査する機能もまた便器に備わっていると考えるのが普通ではないでしょうか。そうです、私たちは自分の大便を確認する必要すらなくなるのです。なぜなら、高度に進化したトイレは、医者と区別がつかないからです!

「となると、私たちの生活から大便というものがますます切り離されていくということになります。いずれ、大便というものを見たことがない、という新たな世代も出現するに違いありません。そんなことあるものか、とお思いになる方は、ちょっと考えてみてください。現代の私たちもまた死や血から注意深く切り離されているではありませんか。それと同じことが、大便にも生じるのです。

「さて、高度なトイレにはいったいなにが不可欠でしょうか。そうです、AI です。実はこの AI こそが、私たちと便との固い紐帯を切断する張本人なのです。AI が私たちから大便を奪う、そう言っていいでしょう。

「ヒトの意識は大便と一致する、と私は申し上げました。もしも、近い将来、私たちから、AI に大便が奪われたとしたら、いったいなにが起こるでしょうか。大便を失った私たちの意識はどのように変容するでしょうか。私にはどうも恐ろしい未来が待ち受けているようにしか思えません」

博士がこのように警鐘を鳴らして講演を締めくくったとき、会場には誰ひとり声を出すものはいなかった。便器がかくも恐ろしい企みを抱いているとは、誰も思いもしなかったのだ。だがそのとき、聴衆のひとりが急に手を上げた。博士が指名すると、質問者は立ち上がった。

「AI が私たちから大便を奪うだろうという、先生のお言葉を危機感を持って受け止めたものでございます。この流れ、まさしくトイレだけにこの流れに抗するには、私たち一般市民はどうすべきでしょうか」

博士はただこう答えた。「おまるです。おまるだけです!」

苦い文学

流す喜び

太古のヒトは気ままに排便していた。なぜなら、その精神は動物そのものであったから。やがて、ヒトは集まって暮らすようになり、それにともなって排泄物も集まり始めた。

集積した糞尿は、そのままヒトの集団の規模であった。そして、ヒトは集積した糞尿を見て、自分とその集団を確認した。糞尿のあり方がヒトの意識を決定したのだった。

やがて、肥溜めの時代が訪れた。この時代のヒトの精神は、肥溜めの糞のように、ひとつの集合意識に溶け込んでしまっていた。肥溜め意識である。

肥溜め意識の時代は長く、地域によっては現代まで続いている。しかし、いくつかの地域では、水洗式便所が大きな変化がもたらした。水洗式便所によって、ヒトは史上はじめて、自分の大便を確認できるようになったのだ。

便器の下の暗い肥溜めに大便を落としていた肥溜め時代は、自分の便を他人の便と異なるものとして認識することはできなかった。しかし、水洗式便所はそれを可能にした。これにより、大便の個別化が進み、それを通じて、ヒトは個人としての意識というものを持つようになった。

現代においては、大便の個別化はますます進んでいる。私たちが検便のさいに、他でもない自分の便を提出するのも、この個別化のあらわれである。

私たちの意識が自分のものであるように、私たちの大便もまた私たち個人のものである。ここにおいて、私たちの意識は、私たち自身の大便と一致したといえよう。

私たちが水洗式トイレのレバーを捻って大便を流すとき、そして、その行為により、目の前で大便が水流に飲み込まれていくとき、私たちはそこに自分の精神の活発な動きを見る。極めて具体的なものとして目視する。流す喜びは、私たちの心の運動の喜びである。

だからこそ、用を済ませて立ち上がったとたん、勝手に流してしまう自動式水洗トイレほど、私たちをがっかりさせるものはないのだ。

苦い文学

終活は希望

最近は終活のことばかり考えている。

私の人生はなんの価値もなく、侮蔑と嘲弄に満ちていた。だからこそ、終わりだけは、見苦しくないようにしたい、そんなふうに思ったのだ。

とはいえ、私は終活についてなにも知らなかった。人生の最後のための事前準備というが、いったいなにをすればいいのだろうか。私は、ネットで終活アドバイザーというものを見つけた。実際に相談に行くと、終活に関するごく基本的な事柄にも快く答えてくれた。具体的には次のようなことをするらしい。

・所有物の整理、不要なものの処分
・財産の整理
・葬儀と準備
・墓の建立
・遺言、家族へのメッセージ
・エンディングノートの作成

「このうち、時間がかかるのは、お墓とエンディングノートです。どんなお墓を立てたいのか、じっくり考えなくてはいけません。お墓はこの世を去った後に残されるあなたの化身なのですから。そして、エンディングノートには、この世に思い残すことがないように書けるだけ書かねばなりません。これはいわば、お客様が世界に残すメッセージなのです。お墓のご希望と、エンディングノートの内容についてお聞きいたしましょう」

私が、自分はどんな墓の下ならば納骨されたいか、エンディングノートにどんな内容を盛り込みたいか、思うところを語ると、終活アドバイザーはたちまち私の終活プランを立ててくれた。

「お墓の建立とエンディングノートの完成には、ざっと 229 年ぐらいかかりそうですね」

「229 年? それでは就活が終わる前に、私は死んでしまうではないですか」

「心配はご無用です。お客様がご存命のあいだに完成できなかったとしても、お客様の終活を別の者が引き継ぎ、さらに後に続く者たちも受け継ぎ、必ずや完成させることでしょう……」

そして、家路についた私の胸は希望に膨らんでいた。残りの人生を壮大な終活のために捧げよう、と決意したのだ。