苦い文学

背広の日

日本語を教えている平助に背広を着用せよとの命令が下された。学校が催す式典に、留学生とともに出席せよ、というのだ。

平助は背広を着ないように生きてきたので、窮屈な思いをするのは正直なところイヤだったが、しょうがない。その朝、クローゼットの奥からシワだらけの背広を引っ張り出し、ぶつぶつ罵りながら身につけ、慣れないネクタイを締めた。

学校に向かう平助の手には大きなバッグがあった。その中にはいつものシャツとチノパンの着替えが入っていた。式典が終わったら、ただちに背広を脱ぎ捨てて、着替えるつもりだったのだ。こんなもの一瞬たりとも着ていたくない……平助はそれほどまでに、背広を憎んでいた。

なぜこんなみっともないものを着なければならないのか。なんでこんなカバンをわざわざ持っていかねばならないのか。考えるだに腹が立ってきた。すべて背広が悪いのだ。

学校に着くと、すでに数名の留学生がいた。学生たちも式典に参加するので皆、背広姿だ。学生たちは平助を見ると「おはようございます、先生」と挨拶した。

平助も「おはよう」と不機嫌な顔で答える。すると、学生のひとりが言った。

「先生、今日はハンサムみたい」

その日一日中、平助は背広のままで過ごした。着替えにはさわりもしなかった。

苦い文学

飛ぶゴミ

飛行機に搭乗するとは、なんと素敵な体験だろうか。私たちは飛行機に乗り込むときは希望でいっぱいだ。この素晴らしい機内で何をしようか、何を楽しもうか、プランでいっぱいなのだ。

映画を見よう、本を読もう、寝溜めしよう、いや、ちょっとした仕事を片付けるか……飛行機に乗っている時間というのは、究極のスキマ時間のようなもので、私たちは機内に広がる広々とした時間に胸をときめかせるのだ。

そして、私たちは乗り込むやいなや、思い思いのプロジェクトに取りかかる。本を広げたり、パソコンを取り出したり、ヘッドホンを装着したり、じつに気持ちのいいブランケットにくるまったり……だが、私たちはやがて気がつく。シートの座り心地があまり良くないことに。前の人が座席を倒してくると、パソコンなど開けないことにも。本を読もうと思っても、すぐに機内は暗くなることにも……そして、実際に機内にいる私たちにできることといえば、寝て、飲み食いして、排泄することだけなのだ。

私たちが飛行機に乗り込んだとき、座席の前のポケットには美しいPR誌ときらびやかなカタログと、私たちの思い思いの本やら何かでパンパンだった。だが、今やそこに詰まっているのは、ゴミだけだ。

私たちはまた、機内がそれほどキレイでないことにも気がつく。自分の座席の前のポケットがゴミだらけで、足元が食いカスだらけだったとしたら、他の人の座席もそうでないという保証はどこにあろうか? 

あれほどやさしく見えたブランケットも、もうくしゃくしゃで、はじの部分は通路にだらりと広がって、トイレに行き来する乗客たちの靴がいくども踏みつけていく。

それにしても、乗客たちはどれだけトイレに行けば気がすむのだろうか。機内に設置された使用中のランプはいつだって煌々と赤く灯り、いたずらに便意を刺激するばかりだ。飛行機とは燃料が減る分だけ、糞と尿でいっぱいになっていく乗り物なのだ。

私たちはここでようやく気がつく、飛行機は大きなゴミだったのだ。

そんなわけだからこそ、飛行機が着陸すると、私たちはまだ機内が暗いうちから席を立ち、荷物を引きずり下ろし、通路に押し合いへし合いして並ぶのだ。心の中に浮かぶこんな想念にせき立てられてもう我を忘れてしまうのだ。

《一刻も早くこの汚い乗り物から出なくては。もし、出遅れたら、ゴミと一緒に捨てられる!》

苦い文学

ぽい捨て禁止

おい、そこのお前、ゴミを捨てちゃダメだろうが! 外せ外せ! イヤホンを。聞こえないふりするんじゃないよ。ゴミを捨てちゃダメだって言ってんの。

え? 「燃えるゴミ」って書いてあるって? そういう問題じゃないの。これだからバカは困る。その下を見てみろよ。なんて書いてある?

「ぽい捨て禁止」? だから、ちゃんとゴミ箱に捨てたじゃないかって? どうしようもないバカだよ、お前は。ろくに日本語も読めないのか。どういう教育受けてきたんだ。それとも外人か? よくみろよ、「ぽい捨て禁止」じゃないの、「っぽい捨て禁止」! 小さい「つ」が読めないんだから、呆れたね。

お前、音楽聴きながら歩いてたろ、なんだか知らねえが、どうせくだらねえ音楽だろ、リズムとりながら、みっともねえ。それでゴミ捨てる時、俺はちゃあんと見たんだよ。

ミュージシャンっぽい捨てしてた! まるで街中で撮影されたMVのワンシーンっぽい捨てしてた。このバカ野郎。さあ、お前はルールを破ったんだから罰金だ。見ろよ、「っぽい捨て禁止」の下に罰金5万円って書いてあるだろ。

さあ、払え。じゃなきゃお前を通報するぞ! え? なんの権利があって、だと? あのな、ここは俺の土地なの。俺がルールなの。そう警察からも許可取ってんの。だから、つべこべ言わず、5万円払いなさい。

なんだ? お前、その目は? そのゴミを、俺を疑ってるっぽい捨てした! ほんとだぞ! ほら、証明書だってある。あっ、待て、待て、引っ張るな! 俺のカバン! 俺の財布! ダメだ! 怒りっぽい捨てするな! やめろ! みんなが見てるっぽい捨てだぞ。とんだ荒っぽい捨てだ!

わかった、わかった。謝る。その笑いは? あっ、俺のカバンを丸ごと! おい、いたずらっぽい捨てするな!

はっ、どうやら覚悟を決めたっぽい捨てじゃないか。まさか、この俺を殺す気っぽい捨てでは……

苦い文学

ポジティブ・シンキング

ネガティブな考えばかりでは、人生を損しているようなもの。なんだってポジティブに考えれば、生きるのが楽しくなってきます。

例えば、電車に乗り遅れるのはイラつく経験。でも「そのおかげで、ゆっくりと待つ時間ができた」と考えれば、腹も立ちません。街に出れば、ひどい混雑で、とてもストレスフルですが、そんなときこそノンキに人間観察してみましょう。富裕層さえ見なければ、きっと楽しくなってくるはずです。

外食しようと街に繰り出したのに、どこも満席で食べる場所がない。ならば、いっそのこと、家に帰ってホームパーティなどいかが? たったひとりでもかけがえのない経験ができるはず。

所持金が少ないのも、これは無駄遣いができないということだから、かえってありがたいですね。そして、お金のありがたみをもっともよく知っているのは、低収入のあなたでなくてなんでしょうか。

仕事が底辺? 底辺に降り立ったあなたがこう語っているところをイメージしてみましょう。「人間にとっては小さな一歩だが人類にとっては偉大な一歩だ」 そうすれば、底辺を這い回るのだって、大冒険です。

年金がもらえないので、老後が心配ですって? そんなあなたは、野垂れ死という滅多にない体験ができるんです。今なら、野晒しチャンスもついてますよ!

なんやかんやでもう死にそう? このラッキー野郎! クソみたいな世界から早くおさらばできますよ!

苦い文学

独身をつらぬく男

こんにちは、独身をつらぬく男です。

現代の日本では、未婚率は年々上昇し、独身はすでに当たり前となりました。今やどこにでも独身が溢れています。独身の人々が人生を楽しんでいます。まるで、独身であることが、劣っていると見られていた時代などなかったかのようです。

「独身をつらぬく」とは、そうした古い時代の名残りです。そうした時代には、結婚だけが唯一の選択肢であり、それ以外の道を歩こうとするものは、大変な苦労をしたものでした。ですから、独身は「つらぬくもの」とされるほど、覚悟のいることでした。

現代は、そうした苦労がなくなったかわりに、独身をつらぬくこともなくなってしまいました。皮肉にも、独身の認められた現代ほど、独身をつらぬくのに困難な時代はないのです。

私、独身をつらぬく男は、今、この独身をつらぬく行為を復活させようと奮闘しています。現代では、それはほとんど不可能な行為かもしれません。ですが、試すだけの価値はある、と私は考えています。

なぜなら、不可能だとわかっていても真剣に挑み続ける、この私のひたむきな姿を見て、胸をときめかせる女性がきっといるはずでしょうから……。

苦い文学

インバウン人

私たちは、インバウン人。日本を外国の脅威から守るために、過酷な戦いを続けている。日本政府の特殊機関「Z」が、密かに開発した人間兵器が、私たちなのだ。

Zは、円の価値が下落し、安くなったニッポンを買い漁る外国人観光客を撃退するために設立された。このZが、国家存亡の危機において最初に戦線に投じた兵器が、インバウン丼だ。

インバウン丼とは、身の毛もよだつ高額の価格によって、おぞましい外国人観光客の資金を奪い取ることを目的に開発された、見る目もおいしそうな海鮮丼だ。この兵器は、当初は期待通りの活躍をしてみせた。外国人観光客の資金力に打撃を与え、日本国内での収奪に歯止めをかけたのだ。

だが、円安のスピードがインバウン丼の効果を遥かに超えるという予想外の事態が明らかになると、Zは、私たちインバウン人の開発に乗り出し、実用化に成功したのだった。

私たちは今、日本のあちこち、とくに新宿や渋谷などの激戦地区で、外国人観光客に対する捨て身の攻撃を繰り返している。私たちは日本を守るために死ぬことを厭わない。なにも知らない日本人たちは、インバウン丼を軽蔑したように、私たちを軽蔑しているが、それは私たちの尊い任務を汚すものではない。

私たちには親もいなければ、家族もいない。Zだけが私たちのことをわかってくれる。Zだけが、私たちの流した血と涙に、どんな外国人観光客も払いきれないほどの価値があることを教えてくれた。

私たちは日本のために死ぬだろう。そして、Zが約束してくれたとおり、靖国で安らうことだろう。

苦い文学

ふりだしに戻る(2)

そのカレン人女性がビルマに帰国してからの状況は、彼女の友人からときおり聞くくらいで、詳しくはわからなかった。

ただ、それらの話から私は、彼女がまるで異世界にいて、出口のない迷宮をさまよっているかのような印象を受けたのだった。

それから1年して、私は彼女がカナダに出国した、という話を聞いた。

さて、彼女のボーイフレンドだが、私はタイで会ったことがあった。彼女がまだ日本にいるときで、私がチェンマイに行くと聞いた彼女が紹介してくれたのだった。

彼女がカナダに行ってからは、二人がどうしているかについて、私に教えてくれる人もなく、すっかり忘れてしまった。

それが、今年の春、二人から急にメッセージが来た。11月に日本に遊びに行くから、会おうというのだ。そして、11月25日、私たちは再会し、巣鴨で食事をした。

難民としてカナダにやってきた二人ではあったが、今ではしっかりとした生活を築きあげていた。彼女は現在、看護師として働いている。夫のほうは聞くのを忘れたが、彼の下で二人のカナダ人が働いているそうだ。

政治については、それほど積極的ではない。というのも、そのせいでいろいろと苦労してきたからだ。カナダにはカレン人を含めたくさんのビルマの難民が暮らしているが、彼がいうには、自分たちは距離を置き、カレン人としてよりも「カナダ市民」として、自分たちの生活を楽しむことを優先している、とのことだった。二人の間には子どもがいないので、ときおり、二人だけで海外旅行に出かけ、そのひとつが今回の日本訪問だった。

とはいえ、彼女にとっては、日本再訪だった。以前、東京で働いていたときは、他の場所に行ったことなどなかったので、今回は大阪と広島を回ってきたそうだ。日本語もほとんど忘れたと言っていたが、それでも多少の会話はできた。

思えば、彼女の難民すごろくは 20 年近くも昔にこの東京で始まり、カナダで立派に上がりに到達したのであった。すごろくでは、ふりだしに戻ることほど悔しいことはないが、いったん上がった後でふりだしに戻るのは、喜ばしいことにちがいない。

苦い文学

ふりだしに戻る(1)

2006 年のこと、カレン人(ビルマの民族のひとつ)の若い女性が、不法就労で逮捕され、品川の入管に収容された。

彼女にはタイにボーイフレンドがいた。タイ・ビルマ国境出身のカレン人の男性で、チェンマイに滞在して、カナダに難民として移住する時を待っていた。

カレン人女性は、収容所で2つの選択を迫られた。日本で難民申請するか、ビルマに帰国するかだ。

彼女には難民となるだけの十分な理由があったので、日本で難民申請すれば、いつかは在留許可が出る可能性はあった。しかし、問題はその「いつか」だった。その当時、難民申請をした人は何年も結果が出るまで待たされたものだった。

彼女はボーイフレンドがカナダに移住したら、結婚してカナダに行くつもりだった。だが、難民申請をしてしまったら、結婚したとしても、カナダにすんなり行けるかどうかはわからなかった。なぜなら、難民申請中は外国に行くことはできないからだ。行けるかもしれないが、かなり複雑な手続きが必要で、ことによったら裁判にも発展するかもしれなかった。

では、難民申請を取り下げて、日本からカナダに行けばいい、と思うかしれない。だが、難民申請を取り下げた時点で、彼女は日本では不法滞在者となる。そうなると、カナダどころではない。再び、入管に収容されて、身の振り方を悩むことになる。ふりだしに戻るだ……。

入管に収容中の彼女は悩み続け、やがて結論を出した。ビルマに帰国する、と。どうせふりだしに戻るならば、もっと戻ってやろう、と思ったのかどうかはわからない。

苦い文学

読者の皆様へ

【読者の皆様へ】
本作品には、差別や偏見を助長するような表現、言葉、言い回し、慣用句、罵詈雑言などが含まれています。

そして、これらの表現や言葉は、あくまでも表面的なもの、というわけではなく、作者の偏見や差別意識の明確な表れだということは、作品全体をよく読めば、否、最初の1ページ目を読んだだけでも、明らかです。また、作者が、差別や偏見に対して抗議するどころか、面白半分にこれを煽っていることも、読者の皆様ははっきりと読み取られることと思います。

これらの表現は、これが書かれた現在、そしてこれが書かれる以前の過去、そしてこれが書かれたのちの未来(おそらく今後人類が存続する全期間)においても、決して許されるべきではありません。

しかしながら、こうした作品を出版するさいにこのような「読者の皆様へ」的な文を末尾に掲載すれば、どのような差別的な表現も可能であるどころか、出版社が真剣に差別に向き合っている感も演出できるとのことなので、私たちはこのような小文を掲載し、本作品を刊行することとしました。

読者の皆様におかれましては、どうぞご理解いただけますようお願いいたします。

苦い文学

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