苦い文学

『中車藝話』

『中車藝話』(築地書店、昭和十八年刊)は、明治から昭和初めにかけて活躍した歌舞伎役者、七代目市川中車の自伝だ。いつどこで、そしてどうしてこの本を買ったのか、自分でも覚えていないのだが、とにかくいつも本棚にあるので、このあいだ読んでみた。

そしたら、奇妙な話ばかり出てくる。もしかしたら、私が知らないだけで、誰でも知っているような話なのかもしれないが、面白かったので、そのいくつかを思いつくままに列挙しておく。

・市川中車は幕末から子ども役者を務め、いわゆる「どさまわり」を経験した人だが、そのどさまわりのとき、墓場で死体に噛みつかれた。
・14〜5歳のころ、パトロンに連れられて遊郭にいく。すると、花魁が役者に惚れて困るのでウチは役者を客にしない、と遊郭の主人に断られる。面目を潰されたパトロンが後日、現代のドラマでは決して放送できないような手段で仕返しする。
・深い仲になった花魁と心中しようとして、かえって別の心中を助ける。
・盲目の役者が化狸に導かれたという。
・出かける前に神棚に魂を置いていく役者がいたそうだ。
・亡くなった前妻が心霊現象を引き起こす。

私は歌舞伎のことなどまったくわからないので、芸に関する話はほとんど理解していないと思う。だが、それでも普通の読み物として十分に楽しめた。

苦い文学

きっと

10代の人と話していて、ある約束について確認を求められた。私が「もちろん行く、きっとだよ」と答えると、その人は不審げな顔つきでこう返事をした。「え、絶対じゃないの?」

私は「絶対」のつもりで言ったのだが、ここで「きっと」の意味が違うのだということに気がついた。辞書で「きっと」を見るとこう書いてある。

・確実にそうなるだろうと予測しているさま。
・あることが確実に行われるさま。必ず。

漢字で書くと「屹度」「急度」だ。当て字ということだが、厳しそうな漢字からして「絶対だぞ」という感じがする。

だが、若い人はそうは受けとらなかったのだ。なぜなら、「きっと」はこんなふうに使われることも多いから。

「きっと彼は来るだろう」
「いつかきっと……」

「だろう」とか「いつか」と一緒に使われると、「絶対」よりも確実性が下がり「たぶん」に近くなる。この問題についてはネットでもいくつか意見があり、「たぶん」と感じる人のほうが多いようでもある。

もっとも、キットカットの「きっと勝つ」が「たぶん」では応援にならないから、「絶対」の感覚もまったくなくなってしまったわけではない。

それはさておき、私はこの「きっと」が、どちらともつかない場合があることにも気がついた。まずこれを見てほしい。

きっと君は来ない
ひときりのクリスマス・イブ

山下達郎はどちらの「きっと」で歌ったのだろうか。まず「来ない」と言い切っているからには「絶対」だろう。また山下達郎の世代からいっても「たぶん」ではなさそうだ。つまり、「絶対に来ない」と言っているのだ。

しかし、疑問がないわけではない。絶対に来ないとわかっている人がいったい、「ひとりきり」だの「まだ消え残る」だの未練がましく歌うものだろうか?

苦い文学

時間旅行

今回の旅は、カタール航空でドーハ経由でベルリンに行った。成田からドーハに向かう飛行機で私は携帯を充電しておきたくなった。

iPhone 15 なので、USB Type-C のケーブルで充電する。だが、座席のモニター周辺には昔の USB の差し込み口があるだけで、Type-C 用のはなかった。そんなわけで結局、充電することはできなかった。

だが、ドーハの空港に着いてみると、あちこちに充電する場所があった。Type-C 用のポートもあった。そして、ドーハからベルリンに向かう飛行機にも、モニターの下に Type-C 用接続口があった。

ベルリンでの滞在が終わり、私は再びドーハに向かった。飛行機の中で iPhone を充電しながら、ドーハの空港に着き、空港でも充電した。だが、日本行の飛行機の中では充電はできなかった。なぜなら、Type-C 用ポートがなかったからだ。

これはつまり、と、飛行機の中の私は考えた。時間を旅しているということではないだろうか。 Type-C が当たり前の世界と、昔の USB の長方形の差し込み口しかない過去の世界をドーハ経由で行き来しているのだから。

私はそれに気がつくと、スチュワーデスを呼んでコーヒーを持ってこさせ、タバコに火をつけた。

苦い文学

AKI’O NAKANO

ベルリン自由大学で開催されたセム語方言学会議(Semitic Dialectology Conference)の口頭発表のうち、特筆すべきは、シリア語・アラム語の碩学、Werner Arnold 先生によるものだろう。それは 「中野暁雄のジュッブアディーンからの現代西アラム語による薪についてのテキスト(“Aki’o Nakano’s Western Neo-Aramaic Text from Ǧubbʿadīn about Firewood”)」と題されたものだ。

タイトルだけだとなんのことかわからないが、中野暁雄という研究者が現地で採取し、出版した現代西アラム語のジュッブアディーン方言の民族誌的テキスト集( “Ethnographical Texts in Modern Western Aramaic (1) (Dialect of Jubb’adin)” 1994)があり、そのテキストの「薪(firewood, p63)」と題されたセクションについての発表だ。

その発表の理由であるが、これはこのテキストのもつ大きな「問題」に起因している。このテキストはアラム語(の音韻表記)のみで、英語の語釈も訳もないので、ごく少数の研究者にしかわからないのだ。そこで Werner Arnold 先生が専門家として注釈と訳を試みたというわけだ(ちなみに同書では Arnold 先生の研究も参考文献として挙げられている)。

Arnold 先生によれば、このテキストは、他のアラム語資料には出てこない語彙が現れる貴重な資料ということであった。こういったものを出版した中野暁雄は実にすごい人であったのだ。

中野暁雄は 2008 年に亡くなったが、それまでにアラビア語方言、現代南アラビア語、現代アラム語、エチオピア諸語、ベルベル語などの言語の現地調査を行い、数々のテキストや語彙資料を出版した。そのため、これらの諸言語の研究者の集まる今回の会議では、その名前を知らぬものはないというほどであった。

日本から来た私はこの傑出した学者についていくども尋ねられた。そのたびに私は「中野先生の学生であった者です」と少しえばって答えた。

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危険なアクティビティ

海外旅行に行くたびに保険をかけているが、申し込むときに旅行の目的を選択しなくてはならない。そのときに危険なアクティビティをしないということについても確認を求められる。危険なアクティビティとはなんだろうか。ネットで調べると、スカイダイビング、登山、探検などが出てくる。私は冒険家ではないので「しない」にチェックを入れる。今回のベルリン旅行も同様だった。

そのベルリン滞在中に、とてもいい古本屋がある、と教えてもらった。Antiquariat Carl Wegner という。住所を頼りに行ってみると、ショーウィンドーにいかにも古くて味のある本が並べられている。勇を奮って店内に入る。重々しい皮の装丁の本が天井まで所狭しと並べられている。200 年前の本など当たり前という感じで、もっと古い本もたくさんありそうだ。

お店の人が声をかけてくれたので、関心のある分野をいうと、英語のものはこれしかないですね、と検索してパソコンで見せてくれた。しかし、私はドイツ語でも良いものがあれば買おうと思っていたので、その本棚を教えてもらった。

3段目に面白そうな本があった。いわゆる亀の子文字の本もある。上の段を見ていくと3段上ぐらいから天井のあたりまでの棚にも興味深い本が並んでいるのが見えた。私はお店の人に頼んで、鉄の脚立をその本棚の前まで動かしてもらった。

脚立は2メートルはある。段に足をかけると軋む。おそるおそる最上部に上がる。もう立つのがやっとだ。それでも、なんとか私は棚の本をじっくりと調べた。本を引っ張り出したり、棚に戻したりするたびにふらつき、足を踏み外して床に落ちそうな気がした。

危険なアクティビティの「する」にチェックを入れるべきだったろう。

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セム語方言学

ベルリン自由大学で開催されたセム語方言学会議(Semitic Dialectology Conference)では、29 の口頭発表が行われた。そのうちひとつを除いて、どれも面白いものだった。ここに、素人の私にも説明しやすいものをいくつか紹介したい(ただし正確かどうかは別。なお、タイトルと発表者は Semitic Dialectology Conference で検索すれば見つけることができる)。

・オマーンの南アラビア語であるジッバーリ語には、「男の詩」と呼ばれる短い詩がある。それは葬儀で遺体を運ぶときや、家を作るときなど、きつい労働をするときに男たちが歌う歌で、話し言葉と違う。生活形態の変化もあってこの種の詩形は失われつつあるとのこと。

・アルジェリアの南部の砂漠にガルダイヤという町がある。そこに古くから暮らすユダヤ人の集団がおり、チュニジアのジェルバ島とモロッコのアラビア語方言に影響されたアラビア語を使っている。女性と男性で方言差があり、女性の方が革新的な形式を用いている。これらのユダヤ人は現在イスラエルに移住しており、調査はそこで行われた。

・トゥロヨ語は現代アラム語のひとつ。もともとはトルコやシリアにわたる地域で話されていたが、迫害や虐殺の結果、世界に散らばった。スウェーデンに大きなコミュニティがあり、そこでもトゥロヨ語が用いられている。このコミュニティの中にはトゥロヨ語が母語でない人もいるが、同じ迫害の記憶を共有しているため、あえてトゥロヨ語を話すようになった人もいる。そうした人の言語の特徴についての報告。

・エチオピアにはアラビア語に次ぐセム語の話者が存在し、文字言語として公的な地位を与えられている。また、方言もたくさん存在するが、これら重要な言語を調査・研究する人はあまりにも少ない。

ということのなので、ぜひみなさん行ってください。

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Semitic Dialectology Conference

ベルリン自由大学のセム語研究所(Insititute of Semitic Studies)が開催した学会(Semitic Dialectology Conference Cutting-Edge Research in Semitic Dialectology: Bridging Theory and Practice)に参加した。

これはセム語(アラビア語、ヘブライ語、現代南アラビア語、現代アラム語、エチオピア諸語など)の研究者が集まる集いで、6 月 11 日から 13 日までの 3 日間にわたり、全部で 29 の口頭発表が行われた。

研究発表というと、私には難しくてよくわからないことも多いが、「最先端の研究(Cutting-Edge Research)」というだけあって、具体的なデータにもとづく話ばかりで、どれも興味深く聞けた。

発表では、アラビア語諸方言、現代アラム語(新約聖書の時代のアラム語が現代まで残ったもの)、現代南アラビア語(アラビア半島のオマーンやイエメンで話される言語)などが取り上げられた。

このうち、現代アラム語諸方言と現代南アラビア語諸語は、話者が少なく、そのいくつかは消滅の危機にある危機言語だ。今、記録を残しておかないと、10 年後にはなくなっているかもしれない。

アラビア語方言やエチオピア諸語も、話者数が多いからといって安心はできない。実際にはさまざまな方言に分かれるし、それらの方言も変化する。また、時代の波や政情不安、そして戦争により大きな影響を受け、消え去りつつあるものもある。

こういう危機言語の問題はどの言語にもあるが、セム諸語においても、「方言」の危機があり、さらなる調査が必要な言語がたくさんある。このような認識が、今回の集会のメッセージのひとつであったと思う。

そのせいで、私もすっかり熱に当てられてしまい、用もないのにオマーンやシリア、エチオピアに行きたくなってしまった。

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J-HOPE の励まし

K-POP の世界では、たくさんの若い日本人も活躍している。異国の地でたったひとり、韓国語を学び、厳しいトレーニングを積み、表舞台に立つチャンスを掴む。これは、大変なことだと思う。もちろん、思ったようにいかない人もいるかもしれないが、それでも私はこれらの人々に励まされずにはいられない。

私ももう少し若かったら、同じように韓国で夢を追いかけていたかもしれない。そんな思いに駆り立てられて、私も異国で挑戦してみることにした。ベルリンの学会で発表をすることにしたのだ。

そして、ベルリンに向かった私は、発表当日の朝、会場となる大学に到着した。大学には公園のような広い敷地があって、そこを横切れば会場に入れる。だが、心細さと緊張のため、私はぐずぐずと歩き回っていた。なにしろ、誰も知らない中、ひとりぼっちで発表するのだ……。

大学の敷地のあちこちには、骨組みで支えられたビニールのシートが立てられていた。私はそのひとつひとつを見て回った。大学のイベントの告知などがドイツ語で書かれている。だが、その中に一般のイベントの広告もあるのに気がついた。それは夏の音楽フェスの広告で、出演するミュージシャンの名前が書かれていた。

その中で、いちばん大きく、そしていちばん上段に記されていたのは、ジャスティン・ティンバーレイク と J-HOPE だった。そうなのだ。J-HOPE も異国でたったひとりで発表しようとしているのだ…… BTS の他のメンバーもなしに。同じ発表仲間として、私は彼に励まされたような気がした。

そして、とにかくそういうことにして、私は会場に入った。

小説

神のみぞ知る(3)

「それは『赤信号はみんなが渡るときがいちばん怖い』という言葉です」とドイツ人は答えた。

「確かに日本と逆ですね。で、どんな意味なのですか」

「ドイツの歴史についてはご存知でしょう。私たちドイツ国民はかつて恐ろしい犯罪を犯したのです。どうしてそんなことが起こったのでしょうか。どうして『殺すな』という聖書の教えをあれほど簡単に破ることができたのでしょうか。それは私たちドイツ国民がみんなでルールを破ったからなのです」 

ドイツ人はしばし沈黙した。「そうなのです。私たちは学んだのです。みんなで赤信号を渡るとき、とても恐ろしいことが起こるのだ、と。ちょっとあれを見てください!」と、彼が指差したその先には歩行者用の赤信号があった。

「あの赤信号の人物が、両手を広げて立っているのは、ああやって、後ろからやってくる人々が赤信号を渡らないように、防いでいるのです。そうやってドイツ国民ひとりびとりが自分の責任においてルールを守ろうとしているのです。歴史を繰り返さない、そういう固い決意があの赤信号に込められているのです!」

これを聞いた日本人は大いに感動したというが、ここで、真偽のホドについては、もろもろひっくるめて、それこそ神のみぞ知る、であるということを注記しておきたい。(おしまい)

小説

神のみぞ知る(2)

そのとき、ふとある記憶が蘇ってきた。違う、私は知っていた。「通せん坊」ポーズには意味があったのだ。

これはドイツに留学していた人から聞いた話だ。その人はあるドイツ人学生と、ベルリンの街を歩いていたのだ。二人が道を横断しようとしたとき、信号が赤に変わった。彼は立ち止まったが、ドイツ人学生のほうはそのまま彼を置いて渡ろうとした。車通りがなかったからだが、数歩で引き返してきて、謝った。

「これは申し訳ないことをした。赤信号なのに渡ってしまいました」

「いえ」と日本人。「日本でなら私も渡っていましたよ」

「しかし、日本人は誰でもルールを守るというではありませんか」

「そんなことはありませんよ。日本ではなにしろこう言うくらいですから。『赤信号、みんなで渡れば怖くない』って」

その言葉を聞くや、ドイツ人はひどく真面目な顔つきになった。「なるほど……面白い格言ですね。ですが、ドイツにはそれとまったく反対のスローガンがあるのです。だからなおさら私は自分のしたことを恥ずかしく思っているのです」

「というとどんな言葉ですか?」と興味をそそられた日本人は尋ねた。