苦い文学

海の詐欺

海の者だという人から電話があった。私に聞きたいことがあるというのだ。

「某月某日に、竜宮城に行って饗応を受けましたか?」

「いいえ」

「こちらの記録によると、その日、あなたが竜宮城にやってきて、三日三晩のもてなしののち、金銀財宝と玉手箱を手にして帰ったとあるのですが」

「その日は出社していたので。会社に問い合わせてもらえばわかりますが」

「いや、これで結構です。あなたが竜宮城に来ていないということがわかれば、それで十分です」

「いったいどうしたんです。私にも事情を教えて欲しいものですが」

「何者かが、あなたの名前を騙って竜宮城に行き、ご馳走と財宝と玉手箱を詐取した疑いがあるのです」

「気味が悪いですね。誰がそんなことをしたというのです」

「亀が首謀者で、蛸をそそのかして、あなたの偽物に仕立てあげたという線が濃厚です」

「蛸が私に!」

「ええ、亀はあなたに成り済ました蛸を恩人だと偽って竜宮城に連れて行き、竜宮城の財産を不当に奪ったのです」

「そうですか。事情はわかりました。では」

「ちょっと待ってください。実は困ったことがありまして」

「えっ、なんですか」

「捜査の行き違いから、あなたに対して逮捕状が出されているのです。あなたの逮捕を防ぐため手を尽くしたのですが、どうしても法律上、保証金を30万円、至急納付しなければ逮捕だというのです。あくまでも形式的なもので、お金はすぐに返還されるのですが……」

苦い文学

隠された真実

この世界には100人が100人誰もが真実だというような事柄は存在しない。

むしろ、たいていの事柄の真実性については、意見が分かれるのが普通だ。

そのようなわけで、ある事柄が真実であるかどうかは、それを嘘だという人がいるかいないかで、判定できる。もし、そういう人がいるとしたら、それは真実である可能性が高い。

私たちがコロナウイルスのワクチンの効果が真実らしいということを知るのも、こうした理由からだ。なぜなら、反ワクチン派が無視できないほど存在するからである。

また、反ワクチン派にしてみても、これらの人びとがその非合理的な主張に執着するのは、私たちという存在を抜きにしては考えられない。

さて、真実であるかどうかが、反対派の存在に依拠しているとなると、ある真実について反対派が一人もいない場合は、必然的にこれは虚偽であるということになる。

そのような事柄があるだろうか。

私が思いつくのは、銀行に関する真実だ。銀行は午後3時に閉まるが、実はその後から忙しい、と誰もが言い、これを否定する人を私はまったく見たことがない。

それゆえに、銀行員たちは午後3時以降は本当は遊んでいる、と断言できるのである。

苦い文学

魔法の指輪

平助が短期留学していた時のことだ。ひと月の語学研修の終わりに、希望者でバス旅行に行くことになった。古代の遺跡や砂漠を旅して回るのだ。

ツアーにはいろいろな国の人が参加していたが、その中に韓国人の女の子がいた。

別に親しいわけではなかったが、ある晩、彼女が指につけた指輪を見せて、街でいろいろな男に言い寄られるのを避けるためだ、と平助に説明してくれた。

平助はとてもよいアイディアだと感心したが、その魔法の指輪は、同行者のドイツ人の男は追っ払えないということが明らかになった。

そのドイツ人は平助よりも年上で、休暇をとってこの国で勉強していたのだが、あるとき、缶ビール片手に、彼女のところにやってきて、こんなことを言ったのだ。

「どうして犬を食べるのだ」

韓国の女の子は困った顔をした。

「どうして犬を食べるのか」

ドイツ人はもう一度言って、バカにしたように笑った。

平助はこの様子を見て「犬ではなく、ユダヤ人を食べていたらドイツ人の態度もまた違ったものだったろう」と思った。

苦い文学

壁

韓国語(朝鮮語)を勉強していると、日本語と類似する点が多いので驚かされる。

語順もそうだし、「は」や「が」にあたる助詞があるのもそうだ。

日本語と朝鮮語は言語系統上は無関係であるというのが定説だとは知っていても、この類似はどう見ても偶然とは思えないのだ。

しかし、さらに勉強すると、韓国語と日本語にはずいぶんと違う点もあることもわかってくる。

語彙や形が違うのはもちろんだが、そういう問題ではなく考え方が違うようなのだ。たとえば複数を表す「〜たち」に似たものが韓国語にもあるが、日本語の「〜たち」が基本的には生きているものだけなのに対して、韓国語では「問題たち」「本たち」などというのもできる。また、所有などを表す「の」にあたる韓国語の単語もあるが、これも日本語の使い方とは異なる。

これらはよく知られた事例で、他にももっとあるのだ。こういう違いに直面すると、だんだん、韓国語と日本語が似ているのは単なる偶然のように思えてくる。

こんなことを韓国語を教えている韓国人の先生に話したら、これは「韓国語学習者あるある」だとのこと。

はじめは日本語に似ているからどんどん伸びるが、だんだんと違いが見えてくると、思ったように学習も進まなくなる。この時期は「韓国語の最初の壁」なのだそうだ。

ハングル検定5級に落ちるというところから始めた、私の韓国語学習も、ようやく壁が見えるところにまで辿り着いたというわけだ。

苦い文学

電車の席

電車には席があり、優先席ではない限り、誰でも座れる。

指定席ではないから、早い者勝ちだ。空いていれば座れるが、空いてなければ立っているしかない。

先に座った人が電車を降りるかなどして退けば、席が空く。この席を取るのも早い者勝ちだ。

不思議なのは、席に座りたい人が、先に座っている人に「おい、お前どけ、俺に座らせろ」と言って座る、といったことがまず起こらないことだ。

こうしたことがまったくないとは言い切れないが、少なくとも私は目にしたことがない。また、今なら、こうしたことが起きれば、ネットでニュースになりそうなものだが、そうした様子もないから、やはり非常に稀なのであろう。

これはどうしてだろうか。私には少なくとも二つの仮説がある。

一つは、我々が、電車の席はそうまでして奪うものではないと考えているから、というものだ。先に座っている人を無理やり動かすのは、ストレスとリスクをともなうが、そうまでしなくても、待っていれば座れる可能性もある。

これがもし、席に座れなければ、つり革に電流が流れてきて殺される、とかならば、我々も必死になって席を奪うだろうが、さいわいにして、そうした状況が生じる可能性は低い。

もう一つの仮説は、席を無理やり奪うような人は、電車などに乗らないから、というものだ。席を奪うような人間ならば、もっと大きなものを奪って、運転手付きの自動車で移動しているか、刑務所にいるかのどちらかであろう。

苦い文学

科研費獲得必勝法

科研費とは、日本学術振興会が交付する研究費助成金だ。これは競争的資金で、申請書に研究計画や必要な予算を書いて応募しなくてはならない。応募種目にもよるが、3割弱の採択率だ。

科研費を獲得するためには、よい申請書を書くのが鍵だと言われている。どんなによい研究でも、審査する人に伝わらなければ採択される可能性は低いからだ。

私自身は科研費申請書の書き方について何か知っているわけではないが、聞いた話によれば、小学生にもわかるようにわかりやすく書くことが大事なのだという。

審査する側は、応募された研究課題の専門家ではないことも多いので、小学生にもわかるぐらいに、という気持ちで丁寧に書かねばならない、ということであろう。

また、高度な事柄を小学生にわかるくらいに書く、というのは実際には大変なことだ。それができるということは、その研究を遂行するだけの経験と能力があることの証ともなろう。

あるとき三人の優秀な研究者が、だれの科研費申請書がもっとも優れているかで口論になった。

一人の研究者が言った。

「よい申請書とは小学生にもわかるくらいわかりやすく書かれている、というではないか。ひとつ小学生に読ませて判定してもらうとしよう」

他の二人もこれに同意して、さっそく公園に行って、いかにも利発そうな顔つきの小学生を連れてきた。

一人目の研究者が自分の科研費申請書を小学生に差し出した。

「読んでごらん」

小学生は初めから最後まで読むとこう言った。

「とても興味深い研究ですね。頑張ってください!」

最初の研究者はこれを聞くと満足げに仲間を見た。次に二人目の研究者が自分の申請書を小学生に渡した。

小学生は最後まで目を通すと、目を輝かせて言った。

「読んでとてもワクワクしました! 将来は研究者になって、こんな研究をしたいです!」

二番目の研究者は得意げに仲間を見た。そして三番目の研究者の申請書が小学生に渡された。

小学生はその申請書を読み出したが、途中まで読むと、放り投げ、走り去ってしまった。

二人の研究者は顔を見合わせたが、三番目の研究者は黙っていた。結局、二番目の研究者が勝ちということになった。三人が帰ろうと立ち上がったとき、小学生が大慌てで駆け戻ってきた。

そして三番目の研究者の前に立つと「ぜひこれで研究を進めてください!」と言って、虎の子のお年玉を差し出した。

願わくば、私たちの科研費申請書もかくあらんことを。

苦い文学

エコロジー

自然を観察すると、そこに見事な循環サイクルがあるのに気づかされる。

海の水は、太陽の熱によって蒸発し、空にのぼり、水の粒となって雲となる。そして、その粒は、雨となって地上に降りそそぐ。陸地を潤す雨は、川となり海に流れ込み、再び、空へと気化する。これは水のサイクルだ。

命のサイクルもある。

土から伸びた草木の葉を、虫たちが食べる。その虫たちを食べるのが小鳥や小動物だ。これらの生物は肉食の動物たちと猛禽類の餌となる。そして、これらの動物たちが死ぬとその死骸を虫やバクテリアが分解して土に還す。草木はこの栄養満点の土から育つのだ。

自然とはこうしたサイクルそのものだといっていい。

ここで、私のパンツを例にとらせてもらおう。私には現在パンツが2枚しかない。1枚のパンツを履いているときは、もう1枚のパンツは洗われている。夜になると、私はその日1日履いたパンツを洗濯カゴに放り込み、洗濯済みの乾いたパンツを履く。そして、次の日、そのパンツで1日を過ごす。もちろんその間、もう1枚のパンツはキレイに洗われている。そう、私のパンツもまた循環しているのだ。

ここでもし、2枚しかないパンツのうち1枚が、洗濯されなかったり、無くなったり、破れたりしたら、どうなるだろうか。とんでもない惨事が待ち受けていることだろう。

自然のサイクルもそうだ。環境破壊や地球温暖化によってひとたびこの循環が損なわれれば、同じように取り返しのつかない惨事が起きるのだ。

この自然、そしてその循環サイクルについて、もしあなたが真剣に考えたいのならば、その時には、ぜひ私のパンツのことも思い出してほしい。

苦い文学

無駄な教育

「学校教育には無駄な知識が多すぎるので、必要のない生徒には教えるべきではない」などという人がいるが、こういう話を聞くと、私が思い出す物語がある。

それは確かどこかの僻地に伝わる民話で、人間の誕生を物語るものだ。

昔、神々が相談をして、自分達そっくりに人間を作った。神々はそのでき栄えに満足したが、しばらくしてある者が言った。

「人間には手は100本も必要ないだろう。我々とは異なり、大地の上で暮らすのだから」

神々は賛同し、98本の手を奪った。するとまた別の神が言った。

「足も100本もいらないのでは。大地を歩ければいいのだから」

それで、2本だけ残された。そんなふうにして、50個あった目は2個になり、20個あった鼻の穴や耳も2個になった。

「心も10個もいらないと思うが、どうだろうか。神々の世界に比べれば、大地の暮らしは単純だから、そんなにあっても無駄だと思うのだ」

「そのとおりだ」と神々はうなずき、心を9個取り除いた。

そんなわけで、心が1つだけになってしまった人間は、思いやりや思慮深さ、他人を尊重する気持ちを失い、「学校教育には無駄な知識が多すぎるので、必要のない生徒には教えるべきではない」などと切り捨てるようになったのだそうだ。

苦い文学

脱擬人化

動物の行動を調べている研究者の話を聞いたら、動物を擬人化してはいけない、ということを言っていた。

それは動物の行動を勝手に人間になぞらえているだけだから、ということのようだ。

よく「犬が笑う」という人がいるが、それはあくまでも人間が犬を擬人化しているだけであって、実際には犬が「人間のように笑っている」わけではないのだ。

これだけならまだいいが、その動物の研究者はこんなことも言っていた。

「人間を擬人化してはいけない」

人間のことを人間として扱ってなにが悪い、なにをバカげたことを、と思ったが、よくよく考えてみるとそうではない。

人間を擬人化するとは、人間だけを他の動物から切り離して特別な地位に置くことであるから、そうしてしまうと、人間を動物と同じ土俵で扱ったり、動物から人間への進化の道筋を辿ったりすることが、できなくなってしまう、ということなのだろう。

そうした理屈はわかるものの、人間を擬人化しないで捉えるとは、具体的にはどういうことだろうか。私は自分の生活を観察して、脱擬人化して記録しようと試みた。

朝起きて、腹が減ると飯を食べる。痒いところが生じると掻く。眠くなると寝る。犬の生活とあまり違いのないことがわかった。

苦い文学

難民ビザの効力

難民は自分達がどうして迫害され、その結果、国を逃げ出すこととなったか、十分に理解していると、人は思うかもしれない。

しかし、実際はそうでないこともある。ひとつには民族的・宗教的迫害というものが、個人に対して加えられるものではなく、集団に対して加えられるものだからだ。だから、難民の中には子どももいて、その場合、自分の境遇を説明できないこともある。

だが、もう大人と言っていいほどの若者も、自分がどうして難民なのか、わかっていない人もいる。本当に難民に値する事情があってもだ。

どうしてかというと、難民を生み出すような国では、まともな教育が行われていないことが多いからだ。ましてや、迫害されている民族の歴史など教わる機会など、ほとんどない(日本の学校で在日朝鮮人の歴史を教えないのと同じだ)。

そういうわけで、難民と呼ばれる人の中には、自分がどうして難民になったのか、はっきりと説明できない人もいるし、そもそも難民とは何かも理解していない人もいる。

最近の話だが、ビルマの少数民族の若い学生が、難民申請をし、それでビザをもらった。そして、ビザが降りた日、その学生は入管の職員にうれしそうにこう言ったそうだ。

「これで私はビルマに帰って結婚式を挙げて、日本に帰ってきます」

入管の職員は「帰国したら、取り消しになるよ」と返したとのこと。